彼が、屋上に来ない日が増えてきた。
 おかげで、木枯らしの寒い中のぼっち飯も慣れてしまった。十二月の屋外は流石に寒いので、ヒートテックとセーターを着込みコートも羽織り、モーターが震える横で凍えながら食べている。来てくれたらいいのに、と思いながら、今日も昼休みの終わりが近付いている。少しでも温まればと、膝の上に置いていた鞄を退ける。寒い。正直、鳥肌が立つくらいには。
 それでも、ここ以外で食べようという気は起こらなかった。パブロフの犬に施された教育、もしくは忠犬ハチ公の如く、四限のチャイムが鳴れば鞄を持って立ち上がり、相変わらず埃っぽい階段を上って、開きにくいドアを開けて、端っこに座り込む。そして、彼を待つ。今日は、来てくれるかな、なんて。春のどぎまぎしていた私では、到底思えなかったことだ。それほどまで、彼の存在が私のなかに染み込んでいる。彼が、今の私という存在を保つための必要条件と化している。一時間に一回は、いや、もうずっと、彼のことを考えてないと、私が私じゃないみたいだ。まるでほんとに恋しちゃった乙女みたいだな、と思うけど、恋じゃない。彼への感情は、そんな下卑てはいけないのだ。邪で穢れた感情を差し向けるなんて、彼への冒涜、……。
 ……。冒涜、なのだ。禁忌なのだ。その心の奥底にまで触れるなんて言語道断。なのに、私は四月から今日まで、ひょんなことで彼と話すようになって、一体を何をしてきたんだろう。そして、私が今彼に抱く感情の正体は、一体何と名付けたら良いものなのだろう。ずんと、胸が重くなる。無駄なストレスはこの時期良くないのに。センター試験もあと何週間と数えられるようになってしまって、毎日の対策試験の一回一回に情緒を左右されるし、同じような問題ばかりでノイローゼになりそうだし。暗く重い空に、暗く重い胸の内。今日のお弁当は、味のない塊を食べているようで、あんまり美味しくなかった。
 建てつけの悪いドアを開くのももう慣れた。ぐっとドアノブを下に押してから、扉を押す。踊り場をとぼとぼ歩き、階段もぺたぺたとわざとスリッパを落とすみたいに降りて行って、ぼんやりと最後の階段を降りようとしたところでようやく、気が付いた。すぐ目の前に、目を丸くした彼がいる。小首を傾げて、髪が揺れる姿は、淡い金木犀の花が風にそよぐようだった。
「……みょうじさん?」
 呼びかけられて顔を上げても、なぜか止まらなかった足は迷うことなく、真正面からゆっくりと彼に突撃していく。彼もまさか足を止めないとは思わなかったのだろう。お互いによくわからないまま、私は彼の胸に顔をうずめていて、彼はそれを引き離すこともなく傍観している。あたたかな彼の体温が頬をぬるく染めさせ、彼の心臓がとくん、とくん、と、大して遅くも早くもならないのが聞こえ始めてようやく、状況のおかしさに気が付いた。ばっと顔を上げたら、困ったように眉を下げて笑う、私の、とうといひと。彼が下を向くと、額に触れていた前髪がふわりと浮いて、その下から見上げる私はその瞳やおでこまで、ばっちりと見えてしまって。下から見ても整ってるとか、ずるすぎやしないだろうか。相変わらず息を止めてしまい、そのままへにゃんと座り込んだ私に、彼はしゃがんで目を合わせると、薄い唇をゆらめかせて微笑んでいた。
「みょうじさん、ごめんなさい、最近行けなくて」
「……はひ、」
「今日もいたんですか。寒いでしょう、外」
 はっとした。寒さを原因に、彼がもう来なくていいって、言うつもりなんじゃないかって。ぼんやりしていた思考を往復ビンタで叩き起こし、途端まくしたてるように彼へ詰め寄る。
「さむい、けど、だいじょうぶです……! コート、着てるし、カイロもいっぱい持ってるし、お腹にも貼ってるし足の裏にも貼ってるし、あとは、」
 ……あとは、あなたが来てくれるだけで、いいんだけどなあ。
 伝えられない思いは胸の奥に仕舞い込んだまま、私はまた俯いた。俯いたまま、ずっと気にしていたことを呟いた。それがあまりにもぼそぼそと陰気臭い声だったので、自分でもちょっと引いた。
「ゆづきくん、……最近お昼、どこに、行ってるんです、か……」
「……」
 ぺたんこ座りをした太ももの上に、握りこぶしが二つ。彼の視線も、そこに集中しているのが、なんとなく分かった。ねえ、どうして黙っちゃうんですか。こんな私なんかに、何を隠そうと言うのですか。何を知られたって、私は変わるわけないのに。彼は、私のそんな変に恨めしい気持ちを繊細に感じ取ってくれたようだった。みょうじさん、と、ちょっと声色を和らげて、彼は子供をあやすような口調で言った。
「……大丈夫ですよ。ちょっとあの人――漣さんに、教師権限で呼び出されて遊ばれてて」
「遊ばれ、って……?」
「例の人たちに、会わされるんです。……全く。よく分からないですよね」
 そう言って、顎に手を添え口元を隠して笑う彼を見て、なんとなく、察してしまった。嗚呼、もう彼は、私を置いて変わってしまった。こんなにもほぐれた笑顔で、他人の話をすることなんて、今までなかった。もう彼はここにいないんだ。もう、誰かを好きになった顔をしてる。それは勿論、私ではない「誰か」で。
 もう、満更じゃないんでしょう。私よりも、あの子達と会うほうがいいなって思ったんでしょう。変わりたくない、ってあなたは言ったけど、反作用は所詮反作用。あなたが進むべきなのは、そっちなんだって分かってる、分かっている。なのに、簡単に整理がつかない、この気持ちはなんだろう。
 うそつき。一緒にいたいって、言ってくれたのに。一緒に死のうって、言ってくれたのに。どうして、どこかに行っちゃうの。どうして。ひどい。
「それと、前言ってた本を渡しに来ようと思って。勉強忙しいでしょうし、返すのはいつでも大丈夫ですよ。なんなら卒業式のときでも」
「……あ、わ、」
「あ、そろそろ授業始まりますよ。……立てますか?」
「立てま……、っ!」
 自力で立ち上がろうと床につきかけた手を、突然彼に奪い取られ、ぐっと遊ぶように引き上げられる。それが予想以上に力強すぎて、引いた腕に任せてまた彼の胸に飛び込むことになって、彼のジャケットにぼふんと顔がうずまる。ふわりと香ったそれは、誰かの甘いにおい。誰の匂い? 前は煙草のにおいが染み付いていたはずなのに。くすくす笑う彼の声が、こんなにも近くにいるはずなのに遠のいていく。
「……それの感想、また聞かせてくださいね。じゃあ」
 軽く笑うと、彼はさっさと踵を返し次の授業の教室へと向かっていってしまう。黄色のリボンの束のような髪をたなびかせ、躊躇せずに教室の後ろのドアから入ってしまう彼を眺め終えて、ようやく体の神経が作用する。作用して気がついた。ここが屋上でもふたりきりの図書室でもなく、ただの廊下であること。人の往来のど真ん中であること。私と同じ、男女を問わず彼への熱い信奉心を持つ者たちが屯する場所であるということ。
 気付いた途端、刃のように鋭い感情が、日常の空気に乗って私の肌をぴりぴりと引き裂いていく。文化祭のときはハイになって、手を繋いで人混みを通り抜ける彼と私をみんなに見せつけたかったけれど、今はだめだ。日常って恐ろしい。日常は、緩慢な速度で進んでいくからこそ日常なのである。彼という無言のうちに皆の精神を揺るがしてしまうような人が突然私みたいな平々凡々の女と話してるなんて知れたら。勿論表面上は何も変わることはない。いつも通りの、平和で、ちょっとヒリヒリする受験生の空気の漂う教室移動の時間だ。けれどその日常の内側で、沸々と煮え滾る血なま臭い生者の感情が、私の足元へ、首へ、顔へ。溶解液のように私を覆っていく。何故、どうして、あの子が。そういえば、学園祭のときだって。この声はきっと私の幻聴なのだろう。幻聴だけど、真実だ。声や行動に現さない代わりに、集合無意識となった私への殺意は、直接私の無意識に話しかけてきたのだ。
 でも、彼らが言動に現さないように、私もその不安を決して言動に現したりはしない。すぐに、いつも通りの日常。ホメオスタシス。日常に戻ろうとする力は、私にもきちんと備わっている。肩から落ちかけた鞄を掛け直し、彼の一つ隣の、一つグレード下の教室へと歩み出す。
 歩く。歩く。そのことだけに意識を集中させる。進行方向から、クラスが離れてからしばらく会っていない理系の友達が一人で歩いてきた。目がぱっと合ったので、わー久しぶりと女子特有の交流を図ろうと構え、口角が上がりかけた瞬間であった。私の取ろうとしていた彼女との距離感と、彼女が動いた距離感が異なっていたらしい。一歩分の距離を離して立ち止まろうとした私に、彼女はぐいと踏み込んだ。そして私の微笑みかけの表情をまるきり無視して通り越し、私の耳元へ口を寄せ、そっと囁いた。
「変態女。ビッチ」
 ……?
「じゃあね」
 立ち去るスリッパの足音をぼんやりと聞く。私もしばらくして、さっさと歩いて教室に入り、いつも通り、いつも通りの授業準備をして、チャイムが鳴って、先生が話し始め、この前の小テストを前から後ろに回し、先生が要注意ポイントをべらべら喋るのを色ペンでテストに書き込んでいく。ホメオスタシス、万歳だ。
 ……。
 ……。
 ビッチ、って、なんだっけ?
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