そういえば、と思って、携帯を開いた。12月も後半、もういくつ寝るとクリスマスの今日は、終業式だった。校長の話の途中で、ラストスパートを頑張る三年生にエールの拍手を送りましょう、なんてことになって、微妙にやる気のない拍手を送られたこと以外あまり記憶がない。つまりどういうことかというと、ずっと居眠りしてたのにその拍手で起こされたってことだ。くそー。
 教室に帰った後も、三学期の三年生は登校自由になるので、実質最後のクラスルームが待っていた。担任のエールを有り難く頂戴し、なんだかよくわからないままにクラス写真を撮られ、担任がいなくなった途端スマホを取り出し撮ろ撮ろー! と盛り上がり始めるクラスメイトたち。中には、卒業旅行どうするー? なんて気の早いことを言い出す輩もいた。確かあの子たちは推薦でさっさと進学先が決まった子たちだ。しかも校内推薦って、なんであんな素行のくせに教師共は推薦しやがったんだろ。所詮教師との仲良し度か。真面目にコツコツ頑張って、でもコミュ力の無さ故に教師との仲は微妙だった私は、結局損するばかりなのか。どうにもこの世間様で、私はどっか出来損ないだ。そんな空気に居た堪れなくなって、こっそりと教室を抜け出し、階段を駆け上がった。
 そして、スマホを開いて、今に至る。インターネットを開いて、検索欄にその言葉を打ち込んでみて、検索。学校だからか、少し電波が悪いようで読み込みに時間が掛かっていたようだが、やがて読み込みバーがスッと右に突き抜ける。一番上に出てきたのは、我らがウィキペディア大先生の記事だった。

ビッチ - 不快、押し付けがましい、嫌な女などの意味を指す罵倒語。

 あ、なるほど。確かにそうかもしれない。彼女たちからしたら、私は明らかに不快だし、押し付けがましいし、嫌な女だろう。検索画面からさらに、記事を開いてみる。上から下へ指を弾いていくと、どんどん過激な言葉がスマホの画面に映し出される。

・あばずれ女。
・売女。
いずれにしろ主に女性を罵る言葉であり、女性のプライドを著しく傷つける言葉として使われる。

 ふーん。じゃあ、あの子は私に明確な悪意を持って、あの言葉を言ったのだろう。すごいなあ、尊敬する。だって、あの空間に漂っていた恒常性の強い力を破って、自己の意思を表明したのだ。言うなれば、重力Gに刃向かうような感じ? いや、それは違うか。物理は受験に要らないからって、もう随分と触ってない。
 ……なあんちゃって。分かっているはずの言葉を、わざわざ検索してみたりして、私は一体どうしてしまったと言うのだろう。よく分からなくなるほどの衝撃の大きさなのか、それとも驚くほどに衝撃がないのか。そのどっちなのかも分からない。ただ彼らにとって――少なくともあの理系の彼女にとっては、私は彼を誘惑する悪女だということか。女。女に、見えたんだ。私は違う。彼の前に私は、男も女も無くなって、ただ神聖な想いを抱いていた。そのとうとさを崇めるだけの、愛。そして希死。そこにそんな、邪で穢れた、ビッチなんてものは、存在するはずがない。ないのに、そう見えたの? 彼女という客観性の元では、私はただのあばずれで、彼に焦がれるだけの俗物の女だったの? あまつさえ、彼に恋しているように見えたのだろうか。そんなはずない、そんなはずないよ。私はただ、ただ……。
「みょうじさん」
「はがっ……!?」
 降ってきた声。このひととせで、私は彼に一体どれだけ名前を呼ばれたのだろう。そして、一体何パターンの奇声を上げたのだろう。ピーコートを着込みポケットに手を突っ込んだまま、彼は相変わらずお山座りの私を見下ろしてにこりと微笑んだ。鈍い金色の髪がグレイッシュな空に品の良い輝きを乗せていて、冬のおぼろ月だ、なんてぼんやりと思った。
 さも当たり前のように、彼は私の一歩分隣に腰を下ろす。相変わらずご飯を食べるわけでもなく、ただ悠久の時間を浪費するように文庫本を取り出すと、細長い指先で頁をめくる。その、横顔。何回見ても、とうといものは、とうとい。流石の寒さでか、少しだけ赤く色付いた頬と鼻先が色っぽい。チェックのマフラーに顎をうずめ、肌触りが心地よいのか、すこしだけ頬ずりをしてどことなく満悦顔だ。伏せられた真赤の瞳は、白い肌の中で濃く甘酸っぱい味をしている。じっと見ていると、目が合っていなくても、頭の中を蕩けさせてくる。頭だけじゃなくて、心も、気持ちも。心臓が指先にあるみたいに、強い脈拍を感じる。見つめてるだけで幸せになって、頬がぼんやりと上気してきて、その熱がからだじゅうに移ってきて。昂っているのか静まっているのか分からない、この胸。泣きたくなるような、幸福でにやけてしまうような。こんな気持ち、今までにも薄ら感じていたけれど、なんだか今はたがが外れたように強く感じた。
 一体、何なんだろう。彼に対しての想いはただ一つ、彼のとうとさに対する、畏敬のはずなのに。神聖な感情、こんな灰被りの私の、唯一の綺麗な宝物のはずなのに。これは、綺麗じゃない。神聖でもない。これは、これは、
「すき……」
「……?」
「すきです……好き、す……き……?」
 ――恋だよ。
 ――おまえのそれは、ただの恋焦がれ。恋愛。俗物のする、ただの恋。
 もうひとりの私が、囁いてくる。唇と声帯を操って、そう呟かせる。彼がふと本から目を離して、こちらを見ている。違う、違うの、ゆづきくん、恋なんかじゃない。恋なんかにしてしまったら、わたしの、宝物が崩れちゃう。魔法が解けちゃう! あなたのそばに、いられなくなる!
「……みょうじさん?」
「……ゆづきくん、すき……すきじゃない、ちがうの、私あなたのことっ……」
 ――おまえのそれは、尊いアガペーなんかじゃないよ。ただのエロスさ、性愛さ。おまえは……わたしは、彼にただ恋をしただけ。彼はわたしのとうといひと、そして、好きな人。わたしに、美しい感情なんてひとつもなかったんだ。宝物なんて実際は、世界中に溢れかえっている、誰でもいいような、ただの平凡な恋愛感情で、わたしだけに特別なものなんてなにひとつなかったんだよ。私は俗物だ。俗なる、どこにでもいる、恋する乙女だ。
 見えない私が、悪魔のように微笑んで、私の前に立ち塞がる。座り込んだ私の目の前に立って、私を見下しながらそう語る。嘲笑の色を帯びた視線だった。
「ちがうもんっ、わたしっ、そんなつまらない顛末なんていや、わたしの宝物を奪わないで……! わたしの、綺麗な、たからものっ」
 ――嘘つけ、最初から宝物なんてなかったんだ。はじまりから私の彼に対する感情が美しかったことなんてあるものか。彼に頬を撫でられた時、どう思った? 彼に抱き締められた時どう思った? 彼と手を繋いだ時どう思った? 結局浅ましくて穢らわしい私の本性を、私が一番よく知っているんだよ。あの子の喩えは、的確だった。ビッチ。私はビッチ。そんな気がない風に見せておいて、本当はずっと彼に焦がれていた、あばずれの女だ。私はまごうことなき女だ。恋した人のそばにいたいからって、自分自身を騙し続けていたただの女だ。ね、私の根源にあるものは、どうしたって女でしょう。認めて、おまえは、イコール私は、女ですって。
「いやああ……いや、! いやだ、いやだ、わたしは、わたしだもんっ、あんたなんかだいっきらいよお、死んでよお、もう、やだああ」
 自分が、自分によって、壊されていく。彼女が喋るたびに、わたしの心は、わたしの宝物は、幻想の皮を引き剥がされ、血の滲んだ真新しい皮膚を露わにする。それをまた剥がして、剥がして、最後には骨と皮だけになってしまうんじゃないかってくらいに、私はわたしに言葉の暴力を振るい続けた。痛い。悲しい。怖い。こんな醜い女が私だなんて、知りたくなかった。でも、彼女はどう見たって、どう考えたって、私だ。今までだって、何度も顔を出してくれていた、馴染み深い私の像なのだ。夏のあの日、壊れた心のまま彼に抱きついたときの衝動は、彼女のものだった。図書室で、こっそりと彼の肩に寄りかかったのも、彼女がいたからだった。普段は意識しなくても、どこかから影のように現れる彼女という女は、やっぱり私なのだ。もう一人の私だとか、第二の人格みたいにくっきりと分けられるものじゃないからこそ、悲しく、おそろしく、つらい。彼女は、まごう事なき私の醜さそのものだ。
 ――ほらね、わたし。あなたは、私でしょう。
 でも、あなたを認めてしまったら、彼に恋する私を認めてしまったら、彼と一緒に、生きたくなっちゃうのよ!
 私と彼は、希死によって繋がったのに、彼と一緒にいる未来を望んだら、生きたいって思ったら、彼ともう一緒にいられないの!
 ――でも、彼も、どうかしら。
 そう言われて、彼女は私の内側に戻っていく。はっと気がつけば、少し眉を下げた彼が私の顔を覗き込んでいる。その表情に胸が一杯になって、苦しくって、気持ちが抑えられなくなる。恋。それが浮かんだ途端、この気持ちに色がついたように、鮮やかな感情が溢れ出す。荒い呼吸が抑えられなくて、訴えるように彼に泣きついた。胸倉を掴んで、喚いて泣いた。また、あざとい。そうは思いながらも、交錯する感情の中で体の支配権を握ったのは本能の彼女のほうだったから、抑えられなかった。
「ゆづきくん、ゆづきくんどうしよう、わたし、あなたを好きになっちゃう、生きたくなっちゃうよ、すき、すきになったら、恋しちゃったら、わたし、あなたの隣にいたいから、あなたの隣にいられなくなるっ、どうしよ、どうしようう、」
「……」
「ねえゆづきくん、いま私を殺して、そうしないとわたし、あなたと生きたい私のほうが勝っちゃって、もうほんとに死ねなくなっちゃうよ、わたし……!」
 彼の返事はない。ただ、心臓が鳴っていて、体が熱くて、泣きじゃくる私をどうこうすることもなくただ茫然と、胸に顔を寄せる私を見下す。そんな彼が怖くて、恐ろしくって、でも好きで、狂おしく好きで、もう訳が分からないままに、きっと最後となるお願いを、もう一度だけ繰り返す。
「ゆづきくん、おねがい……! ころしてください、おねがい、ころして……!ゆづき、くんっ」
 ――ころしてください、あなたに、心から、恋をする前に!


 雪が、降って来た。今年はホワイトクリスマスかもしれないと、朝のニュースで言っていたことをぼんやり思い出した。音もなく、只々、ブルーグレイで一色べた塗りの油絵のような、味気ない空をふわふわひらひら舞い始める。幾分か時間が経つと、校庭にも、葉を落とした桜の木の枝にも、屋上のコンクリートや手摺にも降り積もり始めた。でも、これじゃあ、まだだ。まだ薄くて水っぽくて、元の汚い日常の色が透けて見えてしまう。目指すのは、美しい世界。私たちの、死の世界。無菌病棟のような、天の国のお城のような、人の夢のような、白い世界。彼の髪にも私の髪にも白が積もり始めて、白無垢、または死化粧のようで幸福だった。
 やがて、世界はふたりのものになる。白い、白い世界。此方と彼方の狭間。永遠の、美の世界。そこでは自我も欲望も全て消滅し、ただ抽象的な存在と存在のみがある。私はもう、誰でもない。男でも女でもない、年齢すら消滅した、ただの存在。彼も同じ。真白に溶けて、何も見えない、聞こえない、抽象概念、それでも美しい、わたしのとうといひとは、だれかの頬に触れて、だれかの名前をそっと呼んだ。
「みょうじさん、」
 ゆづきくん。
 ゆづきくん。私を殺して。
 何もない、完璧な未来に、連れてって。
 ぽたり、白地に染みのようなふたつぶの赤い雫が落ちてきた。それはだんだんと辺りを侵食し、白い世界を一気に赤へ、血の色へ、早送りで花が咲くように染め上げていく。それが私の思いも赤く染めて、聖なる愛の色に染めて、化粧水が肌に染み込んでいくように、幸福で満たされていく。美しい世界は、もう目の前。真っ赤が、意識とともに薄く白んでいく。僅かに残った感覚神経では、彼の体温以外何も感じ取ることができなくて、私の世界が彼のものになったようで、しあわせすぎて、心の中で涙がばらばらと降り注いだ。
 くちづけは、もうすぐだった。あの時受け入れられなかった、さいごの凶器。美しく尊い、私の心臓を抉り抜く凶器。あの時よりも強く、彼は私の自我を飛ばしてくれているようだった。だからもう、あんな失敗、しないよ。拒んだりなんか、絶対しない。あなたから絶対に目を逸らしたりしない、あなたの全てを、この胸に焼き込むの。焼き込んで、刻み付けて、私はあなたの腕の中で、あなたのくちづけで、望んで殺されたという証を。
 額が音もなく、それぞれの前髪を緩衝材にしてぶつかった。彼の吐息は透明で、美しかった。私のような生温さや食べ物の匂いは何もない、清らかで儚い吐息。すこしずれて、鼻先が触れた。首の後ろ、頚動脈のあたりを両手が包んで、少しだけ上を向かされた。もうすぐ、もうすぐ。何もない視界の中、彼の薄い唇を想像して浮かべる。その想像通りの位置から、彼は私の上唇をそっと喰んだ、喰もうとした、その瞬間。

 ――きみのことを、教えて
 ――だって、生きて、今こうして出逢えたんだもの。うれしい。私は、あなたが生きていて、うれしい
 ――私は…キュウコンくんが生きてて、うれしいと思うよ。キュウコンくんにとっては、そうじゃないかもしれないけれど…、でも、思うことはさせてほしいの
 ――祐月、…かな
 ――祐月、あの、お願いがあるんだけど…
 ――祐月!
 ――ゆづき、ありがとう

 なんで。
 なんで?
 なんで、彼女の声がするの。ふたりきりの世界に、どうして彼女が入り込んでくるの? どうして、彼女が彼のことを呼んでるの? なんで私の望みを全部壊していくの? ねえ、どうして彼女が全部奪っていくの、私のささやかな夢や希望を、どうしてまたあなたが奪い去っていくの?
 美しかった鮮血の色が彩度を失い、乾いた血の色へと変わっていく。濁り澱んでいく。それにとどめを刺すように、彼がふと顔を離して、どこか遠いところをぼんやりと見つめ、息だけで呟いた。
「ヒナリさん……」
 その言い方が、すごく大切なひとの名前を呼ぶみたいで。
 ごめん、ごめんなさい、ヒナリちゃん、あなたが何か悪いことをしたわけじゃないの、私の可愛い後輩で、私なんかの絵を気に入ってくれて、おまけに幸せまで願ってくれる、非の打ち所がないようなあなた。女神様みたいなあなたを、私は尊敬してるし、大好き、大好き。あなたのこと、大好きよ。あなたは幸せになるべきひと。
 だから、悪いのはどう足掻いても私なの。こんなことを思う私が、自分でも恐ろしいの。でも、どうしてもこの感情の存在を無かったことには出来なくなってしまった。おどろおどろしくて、醜い感情。
 脳裏に、ふわりとスカートをひらめかせながら振り返る彼女の笑顔が浮かんだ。
(憎い、憎い……! 彼女が、憎い……!)
 嫉妬。
 それは、ひとの恋における、最も醜悪で行き場のない、結局は自己嫌悪に帰結する恐ろしい感情。恋なんていう可愛らしい言葉の裏側に隠された、不気味な情念。生き霊にでもなってしまえそうな、凄惨で生々しい滾り。それが、確かに私の中にある。その恐怖。
 乾いてしまって、赤色はすっかり濁りきり、固くなり、はらはらと破片になって崩れ落ちていってしまった。日常の色に帰っていく。雪なんて、本当はどこにも降ってなんかいなかったの。ただの幻想、幻覚で、私の浅ましい理想で。白くくすんでいた世界は、あっという間に生々しい現実の色を映し出す。
 夢も、理想も、無くなってしまった。現実にあるのは、ただの生。私という自我。そして、恋。逃れようのない、彼への恋。おそるべき情愛。
 もう、死ねない。もう、あなたを好きなだけの私。呆然としたままの彼に大声あげて泣きついて、彼の胸の中で、好きです、好きです、必死に恋を叫ぶ私に、彼は呟いた。
「……ごめん、なさい……」
 それは、私を殺せなかったことに対して? それとも、私の想いへの返事? それとも、他の誰かへの言葉なの? わからない。わからないよ、ゆづきくん。私はもう、あなたと完全に同調することができなくなってしまったの。だって私、生きたくなっちゃったんだもん。生きたいよ、ゆづきくん。あなたと一緒に、生きてたいよ。あなたと一緒に、幸せになりたかった。
 もうひとりの私が、いつの間にか心の中に立っていた。私よりも泣き崩れていたのは、彼女のほうだった。
ALICE+