センター試験の日は、本当に雪が降り積もってしまった。これも妄想だったらいいのにと思いながら、かじかんだ掌を白い吐息で温める。彼はいない。そうだろうとは思っていたけれど、少し期待してしまった自分の愚かさに呆れてしまう。推薦で先に受かった友達が久々の再会で盛り上がる中、バスの一人席にさっさと座ると単語帳を広げ、最後の足掻きをしていた。ふと外を見るたびに、真っ白な雪景色が目に入って、彼のことを思い出す。この冷え切った手が彼のあの骨ばって薄い手で包まれることをふと想像して、ひとり熱い息を漏らしていた。恋を自覚した途端、妙に甘ったるい妄想が脳内を支配して、最近の私は常々困っている。
私立文系型なので、一日で終わるのが救いだった。最初は世界史B。オーストラリアがどうのこうのって知るかよ。でも目立ったのはそれくらいで、他のはまあ、プレテストと同じくらいには取れたと思う。やたら長いお昼休憩でちょっと友達とふざけたあとは、国語。小説の問題で、なんとなくポケモンのダイゴさんのことを思い出した。あと漢文の問題が可愛かった。猫ちゃんがにゃんにゃん。でも、歴代国語センターのようなインパクトはなくてなんとなく残念。手応えはぼちぼちかな。最後は英語。一個だけ過去問にないタイプの問題があって怖かったけど、問題自体は難しくなかったのでまあ大丈夫。リスニングは、まあ慣れたものなので言われた通りに答えていったって感じ。そんなこんなで、なんとか終わったセンター試験。帰りにはプレッシャーからも解き放たれて、雪道を友達とふざけながら帰った。
数日後、学校で答え合わせ大会をした。どれもそれなり、ぼちぼちって感じ。予想通りの点数ってところだ。驚いたのがリスニングで、何故か満点近い点数を取ったらしい。マークミスしてなければ。正直かなり苦手意識があっただけに、顔には出さなかったけれど相当嬉しかった。
それが終われば、個別試験対策に勤しみ始める。センターはマークだから難しい漢字とか書けなくても大丈夫だけど、個別は筆記だからとにかく書く、書く、書いて覚える。あと論述問題もだ。世界史の論述問題がどうしてもネックで、出題者の求めるポイントを的確に押さえて論じなければならない。それに世界史は、国別の縦の歴史だけでなく、同じ頃に別の国では何が起こっていたかという、横の歴史も捉えなければならない。年号暗記も苦手なので、必死に語呂合わせを呟きながら眠りにつく日々が続いた。
……というのは、ちょっとだけ嘘。寝る前だけは、彼のことを考えてもいいっていうルールにした。もう会わせる顔がないっていうのに、私は懲りずに彼を想うことをやめない。やめられないのだ。春夏秋冬、全ての季節で焼き付けられた彼の姿を思い起こしては、毛布を抱き締める。自分の熱で温まったこの毛布の温度が彼のものだったらいいのに、なんて、恋する乙女みたいなことをまた……と思ったけれど、私は本物の恋する乙女なのだった。その毛布を羽織りながら、私はいつもの、枕の下に隠した日記を取り出す。ずっと文字で書き殴っていたけれど、最近はもっぱら落書きばかりだ。それも、彼の。彼の美しさを閉じ込めるように、なけなしの画力を尽くして、思い出の中の彼の輪郭をなぞる。下書きはしなかった。だから行き当たりばったり、でも、モデルがいるから大丈夫。一線、一線、丁寧に丁寧に描き上げる。瞳のところには、細い赤のインクペンを使った。紙の上でインクが溜まって滲んでいくのが、あの瞳を表現するのに一番適していると思ったのだ。
今日もそうやって、愛を込めて描き上げた彼の横顔を、じっと眺める。……愛おしい。何度も盗み見した彼の横顔を、何度も何度も描いていけば、その精巧さは増してくる。彫りは然程深くないけど、深くないからこそ、儚く繊細そうな表情に見える。鼻の付け根がポイントだ、ここで少し角度がつくと、彼らしくなる。耳朶や、唇の厚さは殆んどなく、ふくよかさというふくよかさを全て削ったみたい、幸が薄そうだ。顎の骨で一旦角度がつき、耳へ伸びる頬の輪郭。私はここが一等好き。完全に、図形のように描かない方がいい。線だけの絵は、絵の具や鉛筆のように濃淡がつけられない。一本の線で、どこまで想像力を膨らませさせるか――ここは、はっきりと線と線を繋がないことで、光が当たっていることを表現したい。今日はすごく上手くいって、まるで彼がそこにいるようだった。本物の彼に出会った時のように、胸をスッと煙草臭い空気が通り抜ける。でもその後に、その胸はぎゅうと鷲掴みにされたみたいに苦しくなって、愛しくなって、枕を抱き締める。一度足をバタバタさせて苦しみ切ったあと、枕の陰からちらっと自分で描いた彼を盗み見ては、悶える。
好き、だなあ。自分の画力はともかくとして、彼が好きだ。彼の外見の圧倒的な美しさが、まずは好きだ。でも、その奥に抱えた破滅が好きだ。哀しみが好きだ。彼という、ひとりの人間の歴史と、その存在が好きだ。そこに私が乱入してしまったことは、もしかしたらその完成された美を壊すことなんじゃないかと、何度も何度も考えた。でも、どうしてひとは誰かを愛したら、愛されたいと同時に願ってしまうんだろう。愛されたい、とまではいかなくても、また彼の隣にいたい。優しい手つきで触れられたい。恥ずかしいけど、確かにそう思う私は私の中にいる。これ以上なく醜い衝動。やっぱり彼女の言うことは正しかったんだ。私は女の子で、いや「子」なんて付けれる可愛さなんてない、ただの女で、ビッチで、卑しい存在なのだ。事実だと認めてしまってからも、まだ否定したい自分はいるし、絶望してる自分もいるし。自分の感情がてんやわんや分裂しているのを、最近は受験勉強を麻酔がわりにして痛みを感じないようにしているのかもしれない。勉強してる間は無心で頭を回すだけだし、むしろ問題と自分の頭の悪さにキレてるから、感情が別のベクトルに進んで行くので、楽だ。
でも、今は、布団の中。毛布に頭までくるまれて、他の人の目も何もない、私だけのくらやみ。片思いをするひとが、一番幸せになれる場所。正座するように少しだけ足を畳んで、日記の横顔を見つめる。流石に真っ暗だと何も見えないので、スマホの画面で照らしてみた。うすらぼんやりした光の中で、彼は遠くを見つめている。好きだ。すき、狂おしいほどすきだ。この頬に触れたい。この唇で私の名前を紡いで欲しい。この瞳をやさしく緩めて、どじで情けない私を愛おしげに見つめて欲しい。昼間の麻酔はとっくに切れた。恋の病は全身を熱く支配して、そのまま私をうつ伏せさせる。額に日記を当てたら、何十分の一スケールの彼が真近にいた。布団の中にいるうちに熱っぽくなって、どうやら理性が飛んでたらしい。ふと、紙の上の彼の頬にキスをした。唇に触れるのは、紙の、なんでもない平らな感覚だけど、まるで本物のキスみたいな幻触がした。ふと我に返って恥ずかしくなって、熱がさらに上がって行く。当たり前だけど、彼が何も動じず遠くを見つめ続けているのが苦しくなって、ばたんと日記を閉じた。ぎゅっと抱えて抱き締めて、熱い熱い溜息をついた。そしてそのまま眠りにつく。それが、センターから個別までの間。
そして、来てしまった個別試験のラッシュ。センター利用でもう滑り止めはあるから、大学生になれないってことはないんだけどそれでも、行けるなら、やっぱりいいとこ、行きたいし。俳句。首都圏の大学狙いなので、基本的に試験の前日は都会で一人、もしくは母親と一緒にビジネスホテルに泊まった。駅の栄えてる方とは反対の、少し薄暗い路地を通り抜けた先のホテルに泊まったときは、窓の外が全部如何わしいお店の並ぶ通りで笑った。ビジネスホテルもぼろぼろで、お化け屋敷みたい。でもなんだかその非日常感が楽しくって、受験前日だというのに妙にわくわくした夜だった。枕の下から持って来た日記帳をお守りのように机のそばに置いて、やっぱり寝る前はそっと眺め耽ったあと、ぼんやりと寝落ちる。
きっと、距離があるからこそ、想うのだ。学校が毎日あった日々は、夢を見る間も無く現実の彼に惑わされた。けれど、今や彼はある意味まぼろしのひと。どんどん私の中の彼の印象が美化され、私の都合良い姿になり、元々の彼自身とはかけ離れている感覚はあった。
だって、ほんとに、とんでもないことを考えてるのだ。きっとまあ、第三以内には受かるだろう。だってこれだけ勉強してるし、最後の判定も合格範囲内だったし、偏差値も夏の屈辱をバネにして持ち返して来た、それだけ今まで努力をしたのだ。それで、都会で、一人暮らしして。彼はどこにも行かず漣せんせーのところにいるのだろうか。それなら、私のところに呼ぼう。アルバイトして、頑張ってお金が貯まったら、彼を呼ぶんだ。いわゆるヒモを養ってるみたいになるけど、ゆづきくんなら、いいよ。こっそり住んでもらうから、親が来たりするときなんかは大変だな。でも、近所の人の間で少しだけ噂になればいい。あの部屋に住んでるっていう長髪の美丈夫さん、幽霊みたいだって。私が取り憑かれてるんじゃないかって噂を偶然聞いてしまって、ふたりでひっそり笑いたい。狭い部屋で、ベッドがふたつ入るわけないから、どうしよう。でも、彼に雑魚寝なんてさせるわけにいかないから、彼にはベッドを使ってもらおう。そしたら少しだけ高い位置の彼の寝顔を眺められるし。普段より縺れた髪の中に埋もれる、彼のとうとい横顔。はらはら零れた金糸が曲線を描いて、シーツに溜まるのが綺麗。夜中起きちゃって忍び足で動こうとするけれど何かしら物音立てちゃって、彼の掠れたうめき声を聞いてしまったりして。想像しただけで、どこにあるのかも分からない身体の奥の奥がぎゅうと詰まるように熱くなって、苦しくなる。
ねえ、ゆづきくん、私頑張るね。頑張って勉強して、いい大学行って。私、いっぱい頑張るから。それで、もしよかったら。一緒に生きてみませんか。あまりにも都合が良すぎるって、私にも分かってるんです。死のうって言ってあなたに近寄ったのに、手のひら返して真逆のこと言うなんて。でも、私、思っちゃったの。生きたいって、あなたと一緒に生きてみたいって、これからも一緒にいたいって、好きな人の隣にいたいって。結局は平凡な、ありふれた願いに落ち着くのがお似合いなんだ、私。
ね。あなたは、どう思いますか。あなたも彼女に、ヒナリちゃんに絆されて、少しずつ生きるのもいいかなって思い始めていること、私は気付いています。だって好きなんだもの、気付かないはずないでしょう。ずるいって分かってる、こんな私なんか死ねばいいって思って、私が死を望んだこと、それからあなたも同じように死を望み続けていたことは、確かに私たちの歴史に刻まれている。けれど、ふたりで、前を向いてはいけませんか。ヒナリちゃんがいることも分かっている、彼女ならきっとあなたのことも変えて、救ってしまうであろうことも、もう分かっている。けど、隣にいるの、私じゃ、だめですか。不釣り合いだ、格が違う、住んでいる世界が違う、全部わかってる、わかってるんだ、けど、好きなんだ。あなたが好き。ゆづきくん。だから、まずはすべての道を、切り開かないと。明日の試験、頑張るから。受かってみせるから、遠いあの街、あの屋上の隅っこで、膝を抱えて本をめくりながら、待っていてください。きっと、あなたを連れ出すよ。待っていて、わたしの、とうといひと、すきなひと――
意識が、おぼろげに散っていく。そのぎりぎりのところで、目覚ましをかけた。明日は、大丈夫。もう大丈夫しか、考えちゃだめだよ、わたし……。