はじめに恋が芽生えたのは、結局いつなのだろう。
 ずっとずっと前、それこそ入学式で長い髪の寄り添う背中を見たとき、去年の卒業式のあと煙をくゆらす姿を見てしまったとき、破滅思想の片鱗を見たとき、夏、抱き締められたとき、保健室、あやされたとき、図書室、一緒に駆けたとき、それから、ビッチと言われたあの瞬間。どれもこれも、彼の姿の瞬間が、まるで古いカメラのように記憶というフィルムに焼き込まれていて、「この瞬間ですか?」とフィルムを回されれば、どれでも「うん」と頷いてしまいそうだった。そのくらい、「恋」という言葉は、私の胸にぽっかり空いた鍵穴に、ぴたりと嵌まる鍵であった。
 ふと思い出して、いつか彼に借りた本を読んだ。数時間かけてベッドの上で読み切って、おそろしくなった。まるで私のために書かれていると、皆が思いそうなことを思った。どうして、彼はよりにもよって私にこの話を勧めたのだろう。どうして、この主人公を私に似ていると笑ったのだろう。少しずつ人やものを失い、落ちぶれ、ちいさな悲しみにも繊細に浸りながら、いつか出会ったわるい男のひとに情熱を捧げるようになる彼女の語りに、私は深く深く入り込んだ。私が奥の方で大事に抱えていた苦悩にそっと寄り添って、ひとりじゃないと言ってくれているようだった。生きることの、なんと醜いことか。滅び、滅んでいくそのひと、その過程ほど美しいという感性。それは、私と彼が共有したものであり、全く共通点のない私と彼を引き寄せたものであった。
 でも、彼にはなくて私にはあるもの、それを彼女は持っていた。悪がしこさ。女蛇の狡猾さ。そんな、浅ましく汚れていく自分に対する失望、それを乗り越え、最後には子を孕み、古い道徳と戦いながら太陽のように生きると言った彼女。読み終えた時、彼女は、かず子は、私の英雄になっていた。
 私になくて彼にあるものは、かず子ではなく彼女のこいしいひと、上原さんが持っているようだった。でも彼はきっと、直治になりたかったと言うだろう。最後にぽんと死ねた直治。乱暴なようだけど、結局のところ姉のかず子に全てを打ち明けた、可愛い弟の直治。けれど、残念。あなたの役は上原さんよ。私の虹、マイ・チェホフ、マイ・チャイルド。可哀想にあなたは死なず、酒を浴びながら、とても緩慢な速度で、破滅をしていくひとが、よく似合う。貴い犠牲者、私のこいしいひとよ。空想の彼の、少し眉を下げて困ったような表情に、ついひとり笑ってしまった。
 人物だけでは、語りつくせない。私は本当に、この話に心酔してしまった。ほんとうに全てが、私のためにあるようだ。時代が違うだけで、私はきっとかず子の生まれ変わりだなんて思ったりもした。当時はほんとうの、ひとが死ぬ戦争だったけど、私だって受験という戦争を終え、敗戦者。小説で語られた、終戦直後の新聞に載っていたという詩。

『 昨年は、何も無かった。
 一昨年は、何も無かった。
 その前のとしも、何も無かった。』


読んでいて、熱い溜息が出た。溜息というよりも、最早うだる心の温度をそのままに吐き出したみたいな、吐息だった。そう、そうなの、とかず子に言いたくなった。様々なことを超えてきた気がする。これまで、これからの人生で一番勉強した気がする。苦しんだ気がする。なのに、今、何も無い。つまり、現代の受験生ふうに言い換えるなら、こうなる。

昨月は、何も無かった。
一昨月は、何も無かった。
その前のつきも、何も無かった。


「ゆづきくん」
 一度本を閉じて、ベッドに寝そべっていたのから起き上がる。きちんと足を揃えて座ると、前を向いて彼の名前を呼んだ。また、悲しくなりそうだったのだ。ようやく分かった、今更のことだけど彼のことを思うと私は脳の沸騰が静まる。これは随分と都合のいいことで、またすぐに小さなことで悩んで落ち込んで一日だめにしてしまいそうなときは、彼を思えばいいのだ。恋という不治の病、扱い方を誤らなければ私の味方にもなってくれる。
 今もそう、目の前に彼を想像した。見上げた先の彼は、私の手元の本を見て、薄く唇を開いて笑った。そして私の隣に腰掛け、ぱらぱらと私の親指を離れて捲られていくページを眺めている。頬へ這う髪が少し鬱陶しいようで耳にかけると、私の大好きなあの輪郭が露わになって、愛おしさで胸が締め付けられる。視線に気づいたのか彼がこちらをふと見て、くちびると瞳に微笑みを乗せている。嗚呼、すき。好き、私はやっぱり彼のことが好き。恋をしている。愛を、している。
 こんなにもひとを好きになって、焦がれるだなんて、一年前の自分が聞いたら心底驚くだろう。彼を好きになって、恋をして、私は変わった。随分と浅ましくなって、汚くなった。欲深くなった。理性的な判断を手放し感情に手綱を握られっぱなしの、馬鹿な女になった。つい何ヶ月か前まで執着していた神聖さのかけらもない、ただの俗の女になった。終業式のあの日は、それが嫌で嫌で怖くて仕方なかった。はじめて自分の中から見つけた、綺麗な感情という宝物を奪われたくなくて、でも結局私は彼に醜い欲さえ抱くような恋をしているだけで、プラトニックラブなんて微塵もなくて。あこがれは、すべて壊れてしまった。泣いて、泣いて、散々泣いた。だけど、もう遅いのだ。私は変わってしまったのだ、醜く卑しい女に。彼と生きたいと願うだけの女に、変わってしまった。
 恋と革命。
 それは、図書室ではじめて目にしたときには、何も意味の分からない言葉だった。今は、ヘドバンする勢いで頷きたくなる言葉だ。でも、かず子の言ったこの言葉と、私の言うこの言葉は、もしかしたら少し違うかもしれない。かず子は、妻子を持つわるいひとを好きになって、会って、子供を産んで、古い道徳を壊していくことを、革命と言った。私の革命は、私の変化だ。子供なんていらない。かたちになんて、残らなくていい。私はただ、恋をして、恋をして、恋をするだけ。あなたを想うだけ。恋をすることこそが、私の、私による、私のための革命。だから、私がこの言葉を言い換えてみては、だめですか。
 恋は革命。
 恋こそが、私を変える、私のための革命。
 そのときふと思った。私も、もっと明確に、確実に、革命を起こさなければならないと。もっと私の全てを破壊して、私の全てを、女として頑丈に建て直さなければならない。今の状態ではまだ藁の家、まだ元の道徳的な私は完全に壊れていない。彼が好きであることを、どこかで躊躇している自分がいる。かず子を見て、それではだめだと思った。丁度これから一人暮らしを始めるところだし、高校生から大学生へ生まれ変わる瞬間なのだ、一足早い大学デビューというと可笑しいけれど、それは正しいかもしれない。私は、変わらなくてはならない。ハイティーンの憂鬱を引き摺るのは、もう嫌だ。もっと自由で、激しく、欲深く、恨みごとを言うよりも前を向いて颯爽と恋に走れる女になりたい。かず子のように、私も革命を起こすのだ。
 どうしたら、いいだろう。もっと今までの息苦しさから逃れたい。もっともっと、自由になりたい。迷いも悲しみもなく、古い道徳という縄を抜け出して、身軽になって、背負ったものを全部全部投げ捨てて、あなたの元へ飛びたちたい。あなたに全てを見せてしまいたい。なのに、こんなひとりでうじうじしているだけでは、到底革命後なんて言えない。やっぱり、彼を巻き込みたい。私をこれほどまでに惑わせた罰だ。ヒントを求めて、本をぱらぱら捲る。最後のほうで、閃いた。そうだわ。私の足枷になっているもの、かず子はそれを最後のあのとき、殴り捨てた。真似をしよう、かず子がローザの経済学の本を読んで革命に目覚めたように、私も彼に借りた本を読んで革命に目覚めた。今こそ、時は来た。私の、私による、私のための革命を。
 顔を上げて、呟く。
 恋は革命。
 生まれて良かった。生きていて良かった。だって、こんなに熱い恋を知った。
 カーテンの隙間から斜めに射し込む夕陽。普段なら一日の無為さを嘆く時間を示すだけの鬱々しいそれが、今は希望の光に見えた。

 戦闘、開始。
 かなり久々に制服を着た。別に着なくてもいいのだろうけど、この裾のほつれたスカートや、絵の具の色が薄ら残るブラウス、カーディガンに、くすんだリボン、三年着込んでよれたジャケット。これが、私の戦闘服。姿見の前で兵士のように姿勢を正し、敬礼をした。
 母親には、どうしてもの忘れ物をしてしまったことを思い出したからと言って無理矢理頷かせた。すごく不可解そうな、不安そうな顔をしていた。そりゃそうだろう。こんな時間から電車に乗って学校に行けば、当たり前に帰りは真っ暗闇の夜中だ。でも、今の私を止められるものは何もない。たとえ神様だって仏様だって出来っこない。彼にだって出来っこない。だって、私は革命家なのだ、兵士なのだ、そして恋に燃える乙女なのだ。全てを投げ捨てようとしている女なのだ。エネルギーが無限に満ちてくる。家から最寄り駅までダッシュで走り、丁度帰ってくる同じ制服の子たちに怪訝な目で見られながらも、彼彼女らと逆のホームに威風堂々と立つ。怪しみたいなら怪しめば良い。電車が来て乗り込んで、人気のない列車で座れたはいいけれど落ち着けなかった。駆け出したい足の衝動を抑えるのに精一杯だった。
 学校の最寄りに着くと、そこからは何も私を止めるものは本当にない。二月の夜のつんざくような風が頬を刺しびりびり激痛が走る。運動不足の足ももう無理だとふくらはぎの筋肉が叫んでいる。鼓動が信じられないくらいに早くて、今まで体験したことない速度に動揺している。だが、力が無限に湧いてくる。熱いハートが私を突き動かす。
 とうとう校門まで辿り着いて空を見上げると、冬の冴えた空気が星をきらきら地上まで届けてくれる。月のない夜だった。朔月、と言うんだっけ。でも、ここにはきっとあなたがいるので、だいじょうぶだ。どうしてかその確信があった。ゆづきくんが待ってる。あの屋上にいる。その月明かりを目指して走ればいい。たとえ私が盲目でも、真っ直ぐにあなたの元へ走れる。あなたは、私のとうといひと。すきなひと。恋するひと。あなたの背中を、横顔を、ずっとずっと見ていた。その灯を、私はずっと追いかけて憧れて焦がれていたの。どんな暗闇の中だって、あなたを見つけ出してみせる。覚悟して、待っていて。
 下校時間は過ぎたけど、まだ職員室の灯りは点いている。屋上の開けられた棟は施錠が最後だから、今なら間に合うはずだ。真っ暗な廊下を全力で駆け抜けた。真っ暗な階段を靴下のまま駆け上がった。どうせあと数えるくらいしか履かないのだ、真っ黒になってももういいや。二階、三階、四階。折り返しでぐるんと向きを変える時にリノリウムの床に滑りそうになりながらも、あともう少し、もう少し、埃っぽい隅っこを踏みながら、やっと! 息絶え絶えに最後の一段を踏んだ、ときだった。
「おや、何やら足音がするかと思えば。下校時間は過ぎていますよ。はやく帰りなさい?」
 踊り場にいた人物。私はこの人物を、知っている。何故、こんな場所にいるのだろう。
「センセイ……?」
 夏休みの希望者補習、バタフライ・エフェクトを延々と語っていたあのセンセイは、どことなく彼に似た高貴な笑みを口元に浮かべ、紅色の瞳を妖しく細めた。
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