「大体、屋上は立ち入り禁止のはずですよ。どうして、こんなところへ来たのですか?」
 彼が、あのセンセイなのは、分かる。けれど彼がこんな薄紅に色付いた長い銀髪の持ち主だっただろうか。こんなに身長が高く、切れ長の瞳の流麗な容姿をした人物だっただろうか。元の姿を思い出そうにも、何故か全く思い出せない。ただ分かるのは、それがあの夏のWセンセイWであるということ。何も共通点が無いのに、まるでいつの間にか幻術にかかっているかのように、W彼WとW彼Wは同一性を認められる人物であると、私は感じた。
 焦る気持ちが突然せき止められ、行き場を無くしたエネルギーが体の中で跳ね返る。跳ね返って、しばらくは黙っていたが、はっと我慢が出来なくなって革命の心が静かに爆発する。センセイと随分な間合いを取ったまま、私は彼を睨み上げた。
「……センセイこそ、どうして、こんなところへ?」
「僕は、ただ施錠に来ただけですよ。何か問題が?」
「屋上、鍵は前から壊れっぱなしですよね。締める鍵なんて、ここにはないかと」
「そうなんですか。まだ新任なもので、知らなくて」
「一年勤めておいて知らないはずないでしょう。……少し忘れものをしてしまったので、取ってからすぐ帰ります。なのでセンセイ、職員室帰っていいですよ。さよーなら」
 そう言って両手をぶんぶん振りながら大股で扉へと向かおうとする、その大きく振った手首を、センセイは掴む。振り子をぴたりと止めるようであった。私は、リノリウムのくすんだ色を見つめながら、脅すような低音で呟いた。
「……離してください」
「それは出来ませんね、忘れものなんて、明日でいいでしょう。校門まで送り届けます」
「今日の今じゃないと、駄目なんです」
「それにさっきも言いましたが、屋上は立入禁止です。その点についても話さなければいけませんね」
「それは後でもいいことですよね」
「現行犯逮捕じゃないと」
「……センセイ!」
 振り切ろうと、不意を狙って腕を引く。けれどセンセイの力は想像以上に強く、ぴくりとも動かなかった。歯を食いしばって睨み上げるが、それにも余裕綽々な微笑みでカウンターされる。背中を冷や汗が流れた。ゆづきくんの美しさは、ぞっと心を奪われるような美しさだけど、センセイの美しさは私に恐怖しか与えなかった。でもだからといって、諦めるような私ではないのだ。ガニ股になって天井を向いてうんうん引っ張っているその過程で、屋上への扉の窓の奥が、ふと目に入った。金の、長い髪。一発で分かった。たとえ、どんな似たような髪色、髪の長さでも、私はすぐに彼を見つけられる。私のひと、とうといひと。
「……っ、ゆづきくん!」
 やっぱり、いてくれた。遠すぎてよく見えないけど、窓の端から微かに見える彼は、横向きに誰かと話しているようだった。談笑、という風には見えない。どちらかというと、重苦しくて、居心地の悪い感じだ。でもそんなの気にしてられない、だって私は革命家なのだ、強引で我儘なのだ。片腕を掴まれながらも、ドアノブに手を伸ばそうと腕を伸ばした瞬間であった。
 ――……ああ。やはり、そちらへ行きたいのかい。でも残念だ、それは出来ないよ、みょうじさん。
 センセイの声だ。センセイの、声がする。けれど振り向けば、腕を引っ張る力だけを残して、センセイの姿はない。跡形もなくセンセイはいない。今の声は、一体どこからしたのだろう。右から、左から、上から、それとも下から? 全方向からやってきた声が反響して響いてくるようで、でもどこか一点から聞こえてくるようで。はっと気を取られた私を嘲笑うかのようで、むかついて、私は廊下にまで響いてしまいそうな大声で言った。
「行っちゃ、だめだっていうんですか? なんで? どうして?」
 ――あはは、質問の多い生徒だね。いいよ、君には、見られてしまったからね。僕のこと、それから、彼らのことを教えようじゃないか。
 気がつけば、センセイの姿がまた戻っていた。私の腕を掴んだまま、薄気味悪い微笑を浮かべる、薄桃がかった銀髪のセンセイ。センセイはふと顔の横に指を立てると、パチンと格好つけたように指を鳴らした。突如センセイの奥の壁に、スクリーンが現れる。……いや、スクリーンではない。これは鏡だ。唖然とした私の表情が、センセイの――センセイのいるべき位置にいる生物の影に、映っている。
 ――単刀直入に言おう。ぼくは、空間そのもの。彼らの世界では、パルキアという名前を付けられて、こんな容姿を与えられているよ。別の世界では、カオスとか、ウラノスとか、そんな名前でも呼ばれている。つまりは、空間という概念そのもの。理解できるかい?
 私の手首を掴んでいるこの手は、明らかに人間のもの。なのにあの鏡が映し出すものは、ゲームで見たままのパルキアそのもの。雄々しい獣の顔に、薄桃色の身体。凶暴そうな爪、身体を這うような紅色のライン。両腕の接続部には真珠が嵌め込まれていて、それは夜の薄暗い学校の中でも眩く輝いている。
 センセイが小首を傾げて笑うと、鏡の奥のパルキアも首を傾げて、目元を和らげた。
 ――ああ、あの鏡はね、こことは違う世界の姿を映せるんだ。いわゆる、パラレルワールドというやつだよ。バタフライ・エフェクトの話を、夏にしただろう? あの蝶が羽ばたいた先の世界、羽ばたかなかった先の世界を、ぼくは行き来できるんだ。或いは、元から前提条件が違う世界もね。そういうのはもっと木の幹の部分での分岐。ポケモンがいるとか、いないとか、ね。この世界ではゲームの世界だろう? ここは、彼らを紛れ込ませるためにぼくが気紛れで作った世界、空間。納得できないなら、よぉく考えてみればいい。おかしいだろう? どうして彼らの苗字を誰も呼ばないんだい、彼らの髪や瞳の色があんなに奇抜なんだい? そして、どうしてそれに誰もおかしいと叫ばないんだい? それはね、ぼくが、少し世界を弄ったからさ。それらの民衆の思考を、僕がショートカットしたのさ。
 ――それで、彼らは、ぼくのおもちゃだ。ぼくが暇だったから、適当に作り上げたこの世界に放り投げて、適当に枝を増やしただけ。あの女の子だけは人間だけど、あとの五人はポケモンだよ。きみの好きな彼は、キュウコンという種族……って、知ってるよね。きみ、確かポケモン好きだったはずだ。ポケモンのシャーペン使ってたよね。ぼく、ちゃんと生徒のことを見ているんだよ、これでも。
 ――彼らは、今元の世界に帰ろうとしているところだよ。全ての記憶を取り戻したらしい。そう、せっかく遊ぶのなら、ちゃんとゲームクリアのヒントを出さないとね。彼らのうちのひとりには、元の世界の記憶を残しておいたんだ。そして、ヒントをあげた。「きみの仲間全員の記憶が戻ったら、元の世界に帰れるよ」ってね。彼、人間嫌いみたいだし、内に入れたものへの執着が激しいみたいだし、意地でも元に戻りたがるだろうから。適役を選んだと思うよ。最後のネックとなっていた彼も、今、どうやら思い出したみたいだ。時折向こうの世界からの侵入があったみたいで、微かに記憶が蘇りつつあったみたいだしね。
 ――話が長くなってしまった。つまりは、諦めなさいっていう忠告さ。彼ときみは、世界が違う。次元が違う。種族すら違う。全く釣り合っていないんだ。そもそも、もう彼らは半分この世界からいなくなってるようなものだ。今、この扉の向こう側は、世界の狭間と化している。元の世界と接続しかけているんだ。だからもうこの世界における彼らの存在自体が希薄なんだ。もうそろそろ、人々の記憶から彼らに纏わる記憶も消えた頃だろう。彼らのいた証が何もかも、じきに跡形もなく消えるさ。ああ、きみはこんな中途半端なところに来ちゃったから、残ったみたいだけど。可哀想にね。……可哀想ついでに、きみの可能性も、示してあげようか。
 センセイが、もう一度指を鳴らす。やはり現れたのは鏡だった。もう一枚、私の背後にだ。合わせ鏡になった空間に、私の姿が無限に映り続ける。迷宮のように、同じ私の姿が続いている。私の機微を、私自身に真似される。汗がじわりと滲んだ。
 センセイは、いつの間にか姿を消していたようだ。またどこからともなく声がする。
 ――……ああ。近い世界ばかり集めてしまったんだね、これじゃあ面白くない。もっと違う世界を集めよう。どれがいいかな、……よし、これでどうだろう。
 ぱちん。また指が鳴る。すると鏡の奥の光景がまるきり変わった。鏡のはずなのに、私の姿を映していないのだ。これが、別の世界の私。制服ではなくもっとファンタジックなドレスを着た女。逆に灰被りのように地味で煤けた格好をした女。人の形だけてはない。立って喋るカエル、飛び回るだけの虫、ちいさな野うさぎ、その他諸々の動物の姿。これが、私。別の世界の私。黙りこくった私に、センセイはまた意地悪い笑い声をあげた。
 ――どうだい。これがきみだよ。きみという魂をもとにした姿だよ。こういうことさ。あ、彼らの世界では、どうだろうね。せっかくだし、示してあげるよ。
 ぱちん。また指が鳴ると、鏡がひとつに戻った。そしてそこに映る私の姿、彼の世界の、私。その姿に私は、ぐっと息を呑んだ。
 何も映らない。
 ――あはは、彼らの世界にきみは存在しないみたいだね。そういうことも、あるんだよ。先祖の代が死んじゃったとかね。残念、じゃあきみと彼らが出会えたのは、ぼくのいたずらのおかげだ。よかったね。でも、夢は、醒めるからこそ、夢さ。
 センセイの姿が再び戻ったときには、鏡も、何もかもが消えていた。ただあるのは、センセイと私、扉の向こう側の彼。センセイはニッコリと効果音がつきそうに微笑んで、さっきと似たような台詞を繰り返した。
「いいかい。今すぐ、家に帰りなさい。元の世界に帰りなさい。彼らときみは、世界が違う。次元が違う。種族すら違う。全く釣り合っていないんだ。見ただろう、きみはどの世界においてもちっぽけだ。ちっぽけな、世界のモブでしかないんだ。彼らは違うよ。彼らは皆主役を張れる役者だ。だからこそ、こうして別の世界に連れてきて遊びたくなるのさ。要するに、きみのようなノイズ、さっさといなくなってほしいんだ。きみは、ぼくの想像より遥かに彼の内部に食い込んだ。きみは単なる女子高生Bのくせに、調子に乗りすぎているんじゃないかい?」
 三日月にゆがんだ瞳の奥が、冷たく凍っている。無機物の瞳だった。真珠を埋め込んだ瞳だった。
「さあ、わかったかい。今ならぼくの力で、家まで飛ばしてあげてもいいよ。ほら、空間概念そのものだから、空間移動ならお手の物さ」
 下校時間だ。帰りなさい。
 センセイはふっと教師の微笑みに戻ると、温和な口調でそう言った。そこにあのパルキアの面影はなく、ただの新任教師、ちょっと小綺麗な新任教師程度の印象しか与えないものだった。
 ……ああ。
 ひとって、こんなにも、こんなにも貶められたとき、こんな気持ちになるのか。
 俯き、黙りこくったままの私。センセイは不敵な笑みを浮かべたままだ。そこに、低く、地面が唸るように鈍い声が、お腹の底から響いてきた。お腹から登って、肺へ、喉へ、そしてついには声帯を震わせてしまって、あ、やばい、と思ったときには、遅かった。
「……ふざっっっけんなあ……」
「……は?」
「ふざっっけんな言っとんのやろドアホ!!!!自分ちゃんと耳掃除しとんのかオラァ!!!!」
 ……あー。やっちまった。
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