「おらぁぁぁぁぁ!!! おい!!! 聞こえてんだろぉ、わたしぃぃぃぃ!!!」
天井へ向かって、雄叫びを上げる。喉をめいいっぱいに開いて、腹から声を出して、この箱庭を超えた別の世界まで響くように。鏡の奥に、届くように。
「……きみ、まさか、」
「なあ、わたしぃぃぃぃ!!! おまえはっ、わたしなんだよなぁ、ならどうせおまえも、どうにもならないことでっ、うじうじくよくよしてんだろぉぉぉ!!! 行き場のないっ、だれかに言う価値もないようなことでっ、悩んでんだろおお!!!」
ちりん。
鈴の音がひとつ、鳴った。W誰かWが振り向いたようだった。
「わかるよ、わたしはっ、おまえなんだからなぁぁ、世界が違ってもわたしはわたしなんだからなぁぁ!!! 大きな夢を見たとしても途中ですぐに折れちゃってさっ、それを繰り返しすぎちゃってさぁ、もうっ、自分がいやなんだろ!!! 自分なんか大っ嫌いでっ、でも変なとこプライド高くって、めんどくさくて!!! ほんとにっ、ほんとに嫌だよなあ、死んじゃいたくもなるよなあ、もうこんなに苦しむくらいならって、思っちゃうよなあああ、そうだよなあああ」
ちりん、ちりん。
鈴の音が、少しずつ共鳴していく。あそこにも、むこうにも、私がいる。私と同じひとがいる。その私たちの気持ちを全て背負って、私は泣いていた。どの世界の私も、ひとに聞こえる声にはならない痛みを抱えている。その、きっとひとりではなんの力にもならなかった無駄な涙。つらかったよね、悲しかったよね、死にたかったよね。全部全部、ちいさな痛みが私の背中に降り注ぐ。ちいさな悲しみの塵がきらきらと私に降り積もる。
「ねえっ、聞いてよ、わたし、わたしねっ、ここですきなひとができたんだ、大好きでっ、大好きでっ、そう、おまえらと一緒でわたしほんとにほんとに死にたかったのにさっ、そのひとといたらっ、生きたいって、こんな私でも生きれるんじゃないかってさ、そう思えるようなひとがこの世界にいるんだ!! もうすっげーきれーで、恋しくてさ、でも手が届かないようなひとでさぁぁ!! ほんと、もっと身の丈を知った恋だったらまだ希望はあったのにさっ、でも知ってるだろっ、私ってそーゆーところ譲れないじゃん、なぜかでっかい夢ばっか見るじゃんか!! それでっ、叶いもしない恋をしてるんだっ、でもそれがなんかよくわかんねーけどっ、彼に会いに行ったらなんかお邪魔虫がいてな!」
「……もしかしてぼくのことかい?」
「すげーブスのくせになんか偉そうなことばっか言ってくるの! ほんと邪魔! だけどさあ、だけどさあ、私にはおまえらがいるじゃん! 誰も助けてくれなくてもっ、誰も私のこと知らなくてもっ、おまえらが一番私のことわかってくれるじゃん! なあ、変えよう、私、革命がしたいんだっ! ちいさなちいさな、ひとと比べたらほんとうにどうでもいいような悲しみでもっ、無駄だって嘲られる涙でもっ、革命は起こせるんだあぁぁ、もうこんな自分に嫌気がさしてるのはおまえだけじゃないんだよ、みんなで、みんなでまるごと変えよう、変わろう、その先駆けに、この私がなったらダメかなあぁぁ!!」
ちりん、ちりん、ちりん。
もはや鈴の音は幾重にも響き渡り、この空間を支配していた。音だけでなく、彼女たちは少しずつ扉を押す力を貸してくれているようだった。私のものではない力が、私の中から湧いてくる。違う世界の私が、人知れず流した涙が、力になっている。 私たちの存在は、決して無駄なんかじゃないんだよ。
「なあっ、この扉さえ開けばさあ! なんかっ、私たちみんな変わる気がしないかなあぁぁっ!! 意気地なしがっ、誰かに引っ張られるんじゃなくて、初めて自分の足で、自分の力で、自分の欲望を叶えるんだ! そしたらっ、世界は変わらなくてもっ、私は変わるよっ、きっと!! みんなきっと私に飽き飽きしてんだろっ、どうせ自分なんかこのまま一生諦め癖ついたまま死んでくんだって思うんだろっ、変えてやろーぜ!! 自分で、自分を好きになれるような自分にっ、なろーぜええぇ」
そう言うと、私たちは音と力だけではなく、ついには光の粉の中から姿を現した。私と同じ顔をした人間の女の子がたくさんと、たぬき、蝿、よくわかんない爬虫類、深海生物っぽいの、豚、その他諸々! 魑魅魍魎の集合体と化したW私Wに、もう何も怖いものなんてない。ただ、踏ん張れ、踏ん張れ、押せ、押せ! なのにまた邪魔な外野の声が聞こえてくる。今度はだいぶ慌ててるみたいだけど、知ったこっちゃない。
「……きみ! その奥にきみの存在はないんだ! きみが突然混じったら、世界がまた分岐する! 大変なことに、」
「そんなのお前がなんとかしろカミサマなんだろ!! 知るか!!」
「違う、きみがどうなるかわからないってことだ、最悪の場合きみの魂がまるごと消える可能性だって、」
「彼のために消えられるなら本望だってのおおぉぉぉ!!」
「頭おかしいんじゃないかい!!」
「知ってらあ!!」
徐々に、徐々に、扉の隙間から、光が漏れてくる。今までに感じたこともないような、激しく目を刺す光だった。これが世界を破った衝撃。眼球が熱くて熱くて、何か奥のほうの細胞が変異していくような感覚さえ覚えた。もしかして、本当に死んじゃうのかな、でももう生きるとか死ぬとかそんなことよりも、彼に会いたい、彼に抱き締めてほしい、彼に、彼に……!
そんな思いの真っ直ぐさとは裏腹に、体勢はどんどん間抜けになっていく。でもいいのだ、あ、そういえば、昔、お母さんがこんな言葉を教えてくれた。小学生のとき漢字テストで、怒と努の書き分けが出来なかった私に、母はこう言った。
――努力の努はね、女の、又力って書くのよ。お母さん、あなたを産むとき、めちゃくちゃおまたに力入れて踏ん張ったの。そういうことよ。ね、覚えたでしょ?
そうだ。子供を産むわけじゃないけど、努力とは即ち、女のまたの踏ん張る力だ。片足のふくらはぎを扉につけて、限界まで足を開く。汚い言い方をすると、裂けそうなくらいに。四股を踏んで体勢を取り直すと、地球の真ん中まで貫くように重力方向へ踏ん張った。そして、全身の力を全部、全部扉に向ける。あとは、気合!
「努力はぁぁ……女のぉぉ……またぢからじゃああぁぁぁ!!!! うりゃあああああ!!!!」
不意に、黒うさぎがぴょんと現れた。彼女、イコールどこかの世界の私は、後ろ足でひょっこり立ち上がると、チョコンと扉を触ってみせた。多分、それが、最後の一手。反対側から押されていた世界の力を押しのけて、私たちは扉のほうへ、全員巻き添えでずっこけた。でも地面に衝突した感覚はなく、代わりに光に抱きとめられるように浮遊した、
センセイが軽い悲鳴を上げて消え去ったのを合図に、世界が真白に輝いた。世界が開く光だった。それは全てを飲み込み、私の、そして数多の私たちの姿を包み、侵食し、私の内部構造すべてを変えていく。遺伝子組み換えって、こんな気分? 私、変わりたいって思ったけど、何もここまで変わりたいわけじゃなかったんだけどな。ま、いっか。好きな言葉はケセラセラ、なんくるないさー、テキトーが適当!
黒うさぎは、いつの間にか私の腕の中にいた。激しい光の中薄らと目を開けると、彼女も同じように目を開いていた。うさぎの瞳は赤かった。いいなあ、赤い瞳。彼とお揃いじゃん、ひとつくらい、お揃いのものがあったら、同じもの同士で引かれ合っていたかもしれない。
なんて戯言を思ううちも、光はどんどん増していく。だんだんうさぎの毛並みの黒いのも、瞳の赤いのも全部全部が光に染まる。光に、私たち全部が溶けていく。思考も溶けそうになる中で、唯一思ったのは彼のこと、彼の名前、彼の姿。私の、とうといひと。すきなひと。くちびるだけで形づくったその音で、私はたちまち、幸せになれる。
ゆづきくん。
「……っいだっ!!」
どてんっ。ダイナミックな音を立てて顔面からコンクリートに激突する。鼻折れた、今絶対鼻折れた! ぐずぐず鼻の下を擦ってみるが、血はついていなかったので安心した。膝も手のひらも幸い無事だったようで、いたた〜……とか適当に声をあげながら立ち上がって辺りを見回し、気がついた。朔月の夜、コンクリート、室外機、フェンス。私はちゃんとあの扉を開けられたんだ、ということは、彼もいるはず! 身体の奥が疼いて、ばっと顔をあげた視線の先にいた彼を見て、私は絶句した。
ヒナリちゃんや彼方くん、漣せんせーや文化祭のときの二人に囲まれた彼は、突如現れた私を立ち惚けたまま見ていた。きょとんと丸くなったその瞳が、泣いていたのだ。純度の高い透明な涙のレンズは、彼の瞳の赤をさらに澄んだように見せていて、それが不意に頬を零れても、またじわりと内側から溢れてくる涙。
何よりも、驚いてしまった。今数メートル先にいる彼はあまりにもか弱く、儚すぎた。多分、私が勝手に妄想をしすぎたのだ。私の都合の良い風にねじ曲げられた彼の姿は、もっと余裕のある、神様のようなひとだった。でも彼は、ただのひとだった。ただの、涙を流せる、ひとだった。
ある種の落胆をした。そういえば、かず子も上原さんと再会したとき、これが私の虹だろうか、と動揺していた。それを読んだ時と似たような気持ちが自分の中に湧いてくる。がらがらと、勝手な期待が崩れ去る。
それでも、好きだ、と思った。私の好きなひとはこの人だと思った。恋の気持ちは、革命のこころは、何度でも膨れ上がり、燃え上がる。それどころか、ただのひとである彼、その彼の、弱さや脆さごと丸ごと愛して愛して愛しきる自信という、今までには感じていなかった思いさえ加わっていた。恋は、こうして、愛になるのだと、身を以て知った。
「……みょうじせんぱい!」
「は、なんで、みょうじ!?」
「誰これ…って文化祭のときのー!」
外野の姿も声も、何にも見えない、聞こえない。だって私の物語の一人称は、私なのだ。そして彼は、その私の好きなひと。登場人物はそれだけでいい。舞台にいるのは、ふたりだけでいい。
「祐月くん!!」
真っ直ぐに、スポットライトを浴びたあなたの元へ駆けていく。我を忘れて、ただひとり、とうとく、こいしいひとの元へ。
「みょうじさ、」
「私っ、大好き、あなたが好き! あなたの強いところも弱いところもっ、とんでもなくかっこいいとこも、ひとりぼっちなとこも、悲しそうなとこも、突然下の名前呼んだり意地悪なとこも、……あっあと顔とか見た目も全部! 全部全部好き! すきなの、恋してるの、愛してるのっ、だいすきなのー!」
何か言わせる暇もなく、彼の胸に飛び込み、くぐもった声でそう叫んだ。ブレザーに顔を押し付けていると、彼の鼓動が聞こえる。いつだか聞いたときよりも、随分と速いようだ。それは、泣いてるから、それとも私に驚いたから? わからない。わからないけど、でもね、ひとつ、野望があるんだ。
顔を上げ、毛羽立ったコートの袖でごしごしと痛いくらいに涙を拭き取る。じっと、私から彼を見つめた。彼が慄くのが、その瞳から分かった。そんなに不細工な顔してるっけ、って思ったけど、確かに泣いて笑って怒った後なんだからそりゃあ見るに耐えない不細工に違いない。
でも、今しかない。今の、この私で、あなたにぶつかって壊れたい。これが私の、破滅なの。それを最後まで見届けて。あなたが灯した、恋の炎、愛の炎、破滅の灯火なのだから。
「あなたが好き、大好き、恋してる、愛してる……! だから、だから!」
究極の暴論を、ふりかざせ。
――あなたも、私に、恋してみてよ!
思い切りネクタイを引っ張った。さっきセンセイのを散々引っ張って慣れたからお手の物だ。顔を近寄せ、ふわりと舞う長い髪。月のない夜に、あなたはぴったりだ。真っ暗闇の冬の夜空を背景に、澄んだお月さまが私の世界に舞い上がる。あまりにも美しすぎるその光景に、せっかく拭った涙がまた滲んでくる。ああ、ああ、きれい、でもでも、飲み込まれちゃだめだよ、私、がんばらなくっちゃ。ふやけそうになる口の端を必死に横に引っ張って、無理矢理に笑った。そしてうなじに両手を素早く滑り込ませて、赤い瞳が星のように瞬く中、爪先立ちで背伸びをして、瞳を閉じて、あなたの長い睫毛が伏せぬうちに、そっと、そっと、あなたの薄い唇を。
わー!? という四人分の叫び声の直後、漣せんせーから全員回れ右! という指令が飛んで、全員ぐるんと後ろを向いたみたいだ。というのは、かなり確定的な想像。いま、私の世界にいるのは、あなたと私のふたりきりだから。
ゆづきくん。ねえ、祐月くん。貰って。私のはじめて。ヴァージン。それで、私、壊れるの。破壊を迎えて、もう一度生きるの。生きるために、これからも未来を生き抜くために、私にはあなたの与える死が必要。私を壊して。私を、殺して。殺して、私を、生まれ変わらせてください。おとめ、処女から、女へ。逞しく生きる力を持った、女へ。
一体、どれだけの間のことだったのだろう。すごく短いあいだのことだった気もするし、すごく長いあいだのことな気もする。無我夢中で唇を押し付ける間、片手を彼の左胸、心臓の上へと滑らせた。彼の心臓は、止まっていた。ああ、勝った、と思った。私はただ、あれだけ奪われてきた私の心臓を取り戻したかったのだ。それが野望。私のささやかな、野望。あなたの心臓を、少しの間だけ、私に支配させてほしい。私であなたをいっぱいにしたい。あなたのこころを、頂戴。
ゆっくりと伏していた瞼を開くと、彼は瞳を開けたままであった。呼吸を止めて、瞬き一つせず、私だけを映すその赤い瞳。そっと唇を離しても、かかとを地面に降ろしても、彼はそのまん丸にした瞳のかたちを変えることはなかった。それをいいことに、私は彼の肩と胸に触れたまま、微笑んだ。私の両手は震えていた。それでも、あなたに、私のことを焼き付けてほしかった。私を覚えていて、あなたが好きな私のことを、それで、私を求めてみればいい。私を、好きになってみて。私に恋をしてみてよ。一緒に、生きてみようよ。きっと、悪い風にはしないからさ。
「祐月くん、すきだよ」
最後に、それだけ残して。止まったままの心臓に一度抱き着くと、もう満足をした。踵を返し、こじ開けた扉を飛び出して階段を駆け下りて、ローファーを履いて思いっきり夜の道を走り抜けた。走って、走って、走っているうちに、涙の雫がぽろぽろと風に舞って消えていった。今までの自分の殻が剥がれていくようだった。
破瓜の痛み。
それは想像していたよりもずっと、ずっと痛くて、泣きたくて、怖くて。でも、愛おしかった。彼のことが。そして、自分のことが。自分のことが、愛おしくて、こんなにも思ったことがないってくらいに愛おしかった。一番、私が私を抱き締めてあげたかった。
革命は、成功だ。そう、確信した。