ゆめ。
皆が、私から離れて行く。
そんな小説の一節を思い出したとき、そういえば彼女に貸したままだったと気がついた。
彼女は、元気だろうか。
全てを思い出した。自分が何者であるか。僕は、ポケモン、ひとではない、獣。種族名はキュウコン。グレン島でねえさんたちに愛しまれながら育ったものの、その最愛のねえさんたちを災害で失い、自暴自棄になって死のうとしていたところをヒナリさんたちに救われた。彼女たちが、僕の新しい居場所をくれた。ここに生きてもいいんだと、裏表のない心で手を差し伸べてくれた。それから皆で旅をしていた途中だったのに、気がつけばここにいた。漣さん曰く「すごいやばい奴のせい」らしい。ボキャブラリーが少なすぎて何も伝わらない。すごく良いひとなのだが、なぜか残念なひとである。死に向かっていた僕を無理矢理にでも引っ張って助けてくれた点については、相当感謝しなければいけないとは分かっているが。このひとの諦めの悪さとしつこさと強引さがなければ、僕は二度と記憶を取り戻すことはなかっただろう。元の世界に戻ったら、何か彼の好物を作ってあげようと思う。
元の記憶が戻ったからといって、この世界における記憶が消えたわけではない。いわば僕らは皆二重の記憶を持つこととなった。元々の世界、ポケモンの存在する世界においての記憶と、こちらの世界に適合した、捏造され埋め込まれた記憶。僕らがもし最初からこの世界に生きていたならば辿るであろう記憶が、僕らの中には明確に刻み込まれていた。その少しずつずれた記憶同士を照らし合わせると、今までよくわからなかったこと、わかっていたことが、心にストンと収まっていった。
ねえさん。ねえさんの、こと。
元の世界では、ねえさんたちは皆キュウコンやロコンだったし、ひとの姿を取ることもなかったが、こちらでは僕自身がそうであったように、ねえさんたちもまた人間であった。ねえさんは、どんな世界でも美しかった。そして、変わらず僕を愛してくれた。そのことの、何と恐ろしく、儚く、麗しいことか。涙が出るほどの美しさに、こちらの世界の僕も跪き、尽くし、貰った愛を返そうと必死だったようだ。
向こうにはない記憶があった。小学校高学年のときだった。屋敷の一部屋から声がすると思って、夜中こっそり覗き込むと、ねえさんが、泣いていた。三番目のねえさんだった。わるい男のひとに捕まって、怖い思いをしたらしい。僕の気配に気がつくと、ねえさんは力無く笑って、僕をベッドへと招き入れた。布団のなか、暗闇のなかでねえさんは、やわらかい女のひとの腕で僕を抱き締めていたが、やがて不意に力をゆるめると、耳元で声を掠らせた。涙交じりの声だった。
「ねえ、どうして、きょうだいじゃだめなのかしら、どうして、きょうだいは愛しちゃいけないのかしら、それでやっと他人に恋しても結局は惨めな思いして、どうして、こんなに近くにいるのに、どうしてあなたじゃだめなのかしら」
僕は、ねえさんが好きだった。愛していた。ねえさんたちが心の底から幸せになるために自分は生きているんだと、本気で思っていた。だから、ほんとうに無邪気な、無垢な気持ちのまま、僕はねえさんに笑いかけたのだ。
「ねえさん、僕は、ねえさんをあいしてますよ」
布団のなかでもぞもぞ動いて顔を近寄せると、ニコッと音を立てるように目を瞑って微笑んだ。こうするとねえさんたちはいつも、僕を可愛いと褒めて笑ってくれた。でもこのときばかり、ねえさんは、そんな僕を見て一気に瞳に涙を滲ませ、さらに声を上げて泣き出してしまったのだ。僕は混乱してしまって、顔を伝ってシーツに染み込んでいく宝石みたいな涙の粒をおろおろと見つめながら、同じ言葉を唱え続けることしかできなかった。
「ねえさん、泣かないで、ねえさん」
そっと頬に触れようとした僕の手を、ねえさんは手首を掴んで止めた。そしてねえさんは、やわらかく美しく、でもどこかこわい女のひとの微笑みを浮かべた。
「うれしい、でもね、女にはね、泣きたいときが、あるの……泣いてなきゃやってられないときがあるのよ、だからね、そういうときはめいいっぱい、泣かせてやる、ものなのよ」
ねえさんはそう言うと、もう一度僕をきつく抱き締めて、また泣いた。不思議だった。だって、泣くときは悲しいものだと聞いていたから。悲しいことは、少ないほうがいいはずだ。でもねえさんが言うのだから間違いない。女のひとには、泣きたくてしょうがないときがあって、そういうときにはめいいっぱい泣かせてやる。それが、僕のなかの正解になった。
じゃあ、ねえさん、いっぱい泣かせてあげないと。その思いは、単なる弟から姉への姉弟愛だったのだろうか。それとも、男女間の情愛だったのだろうか。今となってはもう藪の中だが、多分、どちらも。そんな邪な思いを抱いたまま、笑顔をやめた僕はねえさんの瞼に口付けた。はと涙を止めたねえさんに、ああ、 これじゃあだめだと後悔した。だって泣かせないといけないのに。ごめんなさいと謝ろうとした、そのときだった。ねえさんが、涙に濡れたねえさんが腕を緩め、そして僕を仰向けに寝かせると、顔の横に手をついて僕に跨った。きょとんとしてしまい、癖で笑おうとしたくちびるを、ねえさんの人差し指で止められた。したくちびるの真ん中、少し凹んだ部分、押すのではなく触れる。ねえさんの金色をした髪が僕の頬にゆっくり降りて、濡れた赤い瞳が僕を捉えた。ねえさんは、すごく、すごく、綺麗なひとだった。
「……あのね、今からすること、全部、ひみつよ。いけないことなのよ」
「ねえさんが、言うことなら、僕はなんだって」
「うれしい……。ねえ、……いまの顔、もう一度して……?」
「……?」
「すごく、綺麗なの……あなたはせかいいち、美しいの……。だから、ね、笑わないで、媚びないで、私を見て、私を愛してる顔をして」
顔を寄せたねえさんに、僕は言われるままのことをした。言われるままのことを思った。――ねえさん。僕の、うつくしいねえさん。かわいそうなねえさん。涙に濡れてばかりのねえさん。女のひとの悩みに荒れてばかりのねえさん。僕のあいした、僕のねえさん。あいしてます。あいしてる。あいしてる。胸の中で呟いていた言葉が、だんだん一杯になって苦しくなってくる。吐き出したくて、あいしたくて、口を開いたそのときだった。
「ねえさん、あいしてっ、」
くちびるが、今度こそ奪われた。
口付けたまま、ねえさんの長い睫毛が持ち上がった。ねえさんの艶やかな赤色の上目遣いと、僕の丸くなった栗色の瞳が重なった。ねえさんの神々しい金いろの髪と、僕のくすんだ朱色の髪が重なった。ねえさんの儚く細い指と、僕の角ばり始めていた指が絡まった。ねえさんが僕の首筋にそっと手を添えて、僕がそれに応えるように瞳を細めると、もう何も怯えはなくなったようだった。ねえさんは僕を、戸惑うことなく愛してくれた。
何も知らなかった僕に、ねえさんは全てを教えてくれた。どうすればねえさんは喜んでくれるのか、僕は必死だった。ねえさんは綺麗だった。ただひたすらに美しかった。それだけで僕は心が満たされるのに、それに触れる赦しをもらって、僕はおそろしいほど幸福だった。
ねえさんにまるごと僕自身を愛されたその日から、僕は少し変わったようだった。自分で言うのも妙な話だが、媚びを売るような愛らしさから、少し垢抜けた色の香りを匂わせるようになったようだ。確かに常にねえさんたちに意識を張り巡らせていたのから少し解放されて、こころに余裕が出来たというか。極端な喜怒哀楽を示すよりも穏やかに小首を傾げて微笑んでいる方が、僕も楽だし、ねえさんたちも喜んでくれたようだった。
また僕は、多くの秘密を抱えるようになった。僕のではなく、ねえさんの秘密。僕が何もしなくても、ねえさんのほうから打ち明けてくれるのだ。「あなたが好き」という秘密。ねえさんたちは、他の姉妹がいないところで僕に口付けた。何人かは、やはりあの日のように僕をベッドへ招いた。そして最後には、「このことは、誰にも秘密よ」と言って名残惜しそうに去るのだ。
恋の秘密を守れる男。
葉蔵がそうであったように、僕もそうだったのだろう。それまで道化を演じていたが故に、勝手に想像された孤独の雰囲気が、好まれたのかもしれない。葉蔵とは違って僕は心の底から、幸せのままに道化を演じていたのだが。それでねえさんに愛されるなら、僕の本心なんかどうでもよかった。
ねえさん同士の間で、秘密が本当に秘密だったのかは分からない。でも、知っていても何も問題は無かっただろう。僕はねえさんたち全員を平等に愛していた。嘘のようで、ほんとうだ。僕は本気で、「ねえさん」が好きだった。愛していた。美しく尊いねえさんが、僕の世界だった。
元の世界でもその記憶がないことはない。が、ねえさんが人間で、ひとの姿で僕に触れてくれたことが新鮮で、よく思い返すようになっていた。
元の世界と、この世界の違い。数えられないほど様々あるが、一番、この一年で印象深かったのは、彼女のことだった。
みょうじさん。
彼女は、何者なのだろう。