最初は単なる出来心のようなものだった。煙草を見られても、別に大した問題ではなかった。漣さんに言ってうまく揉み消させるか、そんなことしなくても別に誰も何も言わないだろう。僕は何故かこの学校で神聖視されているらしいから。嫌な授業のときは保健室に行っていればいい。授業を受けていたとしてもどうせ話はほとんど聞いていないし、聞いていなくて何か言われることもなかった。なんとなくつまらなかったが、面倒ごとに巻き込まれるよりかは良かったのだと思う。
彼女の存在は、卒業式の日に初めて知った。名前くらいは聞いたことがあったかもしれないが、僕をあんな風な目で見る人は大勢いたから、その中の一人に過ぎなかった。だから本当に偶然、気紛れで、昼休みを彷徨っていた彼女を誘った。女子特有のグループの雰囲気は流石に分かっていたし、何せ彼女は思ってることが全て顔に出ていて面白かったのだ。本人、または彼女の周囲の人は陰気な顔ばかりしている子だと思っているのだろうが、よく見ると全部顔に書いてある。シャーペンの芯が折れた瞬間飛んでいって、誰かに当たってないかと慌てていたり、何度直しても跳ねてくる前髪を気にしていたり、前の人の小テストの点数が見えてしまって気まずそうだったり、どうでもいいことに一喜一憂する姿が、見ていて飽きなかった。隣でこっそり微笑んでいると、はっと気付かれて顔を赤くする。だから彼女が僕を好きであろうことも、その時点で知っていた。ただし自覚が無いのだろうということも予測がついていた。それを知って下の名前を呼んだり少しからかってしまったことに対しては、申し訳ないと思っている。
彼女もまた、死にたがっていたことについては、嬉しかった。はじめて死を肯定された。独りには慣れているはずだけど、やはり誰かがいてくれるのは単純に嬉しかった。漣さんも頼っていいひとだとは認識していたけれど、あのひとはそういう世界に纏わらないひとだったし、そのままでいて欲しかったし、何よりそのままでいようとするひとだ。屋上で煙草を燃やしては、白い煙が立ち昇っていくのを彼女と見ていると、自分自身が煙に溶けていくような気がした。彼女も煙に溶けていくような気がした。僕らの境界線がなくなって、彼女の考えていることも僕の考えていることも一緒のような気がした。多分、彼女も同じことを感じていた。その、自分が霧散して消えていく感覚が、何だか死ぬ間際の感覚に似ているんじゃないかと思っていた。ゆるやかな心中だと、思った。
夏休み前のあの日、彼女が泣きそうな顔をしていた。明らかに傷ついて、今にも崩れ落ちそうなほど傷つき疲れているのに、彼女自身が気付いていない。らしくないような空っぽの笑い声をあげているのを見ていたら、ねえさんと、ねえさんの言葉を思い出した。女のひとには、泣きたくてしょうがないときがあって、そういうときにはめいいっぱい泣かせてやる。彼女もそうなんだと思った。だから、泣かせてあげたかった。そのくらい思うくらいには、僕も彼女に情を移していたのだろう。彼女が傷つく原因になった出来事は、僕も見ていた。教師の、何の悪意もないようなひと言。学年順位にざわめく教室の中、教壇の前で一瞬、殴られたような顔をしていた。帰ってくるときも点表を何回も何回も折っていて、座ってからも薄暗い。
女のひとを泣かせる方法は、なんとなく分かっていた。めいいっぱい、優しくすること。傷付いた原因を否定して捻り潰すのではなく、指先で触れるだけ。彼女のコンプレックスであろう彼女らしさという傷に触れてみると、彼女は案の定泣いてくれた。嬉しかった。よかった、と思った。でも殺してほしいと言われたのは予想外だった。殺してあげたいと思った。僕がひとり生き残ったとしても、殺してあげたいと思った。ただ、日常というやさしい狂気に疲れ果てた彼女が、可哀想だった。
僕のこの奇怪な色をした瞳に、何か魔的なものが宿っていることは知っていた。一回ネズミと目を合わせ続けていたら、手のひらの上でころりと死んでしまった。彼女も殺せると思ったことは、本能のようなものなのかもしれない。彼女の、濡れたままの凡庸な瞳が薄っすらと細まっていった。くちづけようとしたのは、なんとなく。ただ彼女が、僕の顔を好きだと言ったから、そうしたらちゃんとおわりまで殺せると思った。
……それだけでは、ないだろう。ねえさんに似ていたから。可哀想なねえさん。涙に濡れてばかりのねえさん。醜いまでの欲望を抱えて、悩みに荒れてばかりの、徒花のようなねえさん。そういえば、ねえさんも、時折僕と死にたいと言ってくれたことがあった。それが叶わなかったからこそ、僕は上手に死ねないのだが。その、うつくしいねえさんの面影が少しだけ目の前の彼女に重なった。僕はそのとき、彼女を見てはいなかった。あの日のねえさんを見ていた。
彼女に、拒絶をされた。彼女は死ねなかった。彼女の内側から湧き上がった本能が、死を拒んだ。彼女はずっと僕の胸で泣いて、僕の胸で泣いたことを恐れて、そうしてまた心を崩していった。そのとき、ああ、彼女はやっぱり、僕の同類なんだと思った。今すぐにでもしにたくて、しねない。生から離れたいのに、離れられない。強力な本能の鎖に繋がれた僕らは、死という救いを享受できない。
僕は、それが僕ひとりだと思っていた。でも彼女がいた。彼女が、いてくれた。ありがとう。それが彼女に伝えたい言葉だった。その気持ちを込めて、そっと涙を掬うと、その艶やかな瞳はやはりねえさんに似たような表情で、胸が熱くなった。抱き締めると、個と個の境界線が溶けていくような感覚がした。僕らはテレパスのように、聞こえない言葉で繋がっていた。わからないなら、檻の中、つがいの鳥が体を寄せ合い、ひとつの鞠のようになることを思い出せばいい。僕らはつがいの鳥だった。疲れ果てた翼を癒しあい、慰め合い、互いの翼を優しく折ろうとする鳥だった。
一緒に死のうと、告げた。でも、きっと今すぐ死のうとしても、僕らはきっとうまく死ねないから、せめて寿命を縮めようと言った。そもそも僕が煙草を吸い始めたのも、そういう理由からだった。ねえさんに赦される範疇で、死に近付こうとしていたのだ。そうでなければ、どうしてあんなに不味い煙を吸い込み続けなければならないのだろう。そんな僕の幼稚な、おまじないみたいな行為に、彼女が一緒になってくれた。不器用に噎せ続ける彼女が隣にいると、僕は少し得意になれた。そうして、嫌な行為が、少しずつ、ささやかに、好きになっていった。
彼女が熱を出したとき、少し、焦った。元から体育の時間は保健室で過ごす気だったからちょうど良かった。寝込む彼女に対しての処置がてきぱきと分かったのは、もしかしたら向こうの記憶の欠片が戻ってきていた証拠なのかもしれないと、今になって思う。このときも、彼女とねえさんが重なった。そう思っていたら、自然と手つきが優しくなっていたらしい。漣さんに言われて初めて、僕が彼女に「そういう」扱いをしていることに気がついた。
文化祭のとき。美術室を訪ねて、彼女の絵と、ヒナリさんの絵を見た。彼女の絵は凄惨だった。凄惨だったが、納得した。深く根差した自己嫌悪と自罰感。他者への恨みに転換することが出来ず破滅していく、やさしい、やさしすぎて、愚かなひとの自画像。ひとから見たら、ただおどろおどろしくグロテスクな風に見えるけれど、すきだな、と思った。美しいと思った。醜さを極めたものの中の美しさが宿っている気がした。隣で照れてわたわたする彼女が面白くて、ちょっとからかいたくなった。
でも、やはり、彼女でもヒナリさんには敵わないのだと、素人の僕でも思った。彼女の描く世界の美しさは、ひたすらに無垢だった。生の賛歌。そんなものを感じ、僕を根底から揺るがしてくる。彼女や僕ではもう手を伸ばしても届かない、手を伸ばすことすら想像できない世界。でも、当のヒナリさんは、迷いながらも彼女なりの答えとして、向こう側から僕という薄暗いところに手を伸ばしてくる。でも、その手を安易に取れるほど、僕は素直じゃなかった。何より、怖かった。ヒナリさんの抱える何か得体の知れない、感じたことのない光が。そして、それに心を動かされてしまった、光を望み始めていた僕自身が。日差しを浴びて、何か奥のほうが変わり始めている僕自身が。僕は、僕が、怖くなってしまった。
だから、彼女に縋った。彼女の手を引いて、逃げて、逃げて、彼女と僕のふたりだけの世界に閉じこもりたかった。彼女は今までの僕を肯定してくれる。光の届かない海の底で、閉じた檻の中で、箱庭の中で、僕と彼女とはその境界を無くし、ゆるやかな速度で死んでいける。そのことに、僕自身きっと依存していたのだと思う。彼女はそんな僕の心の動きを、ホメオスタシスと呼んで、笑った。恒常性。元に戻ろうとする働き。彼女はそれを分かった上で、僕を肯定して、暗闇の中でそっと名前を呼んでくれた。僕は、ここにいたいはずだった。
ここにいたいはずだった。なのに、恒常性は結局、ただの反発でしかなかったのだろうか。文化祭が終わってから、彼女との距離はそれまでより随分と離れた。ヒナリさんと僕の繋がりが出来たことを喜んだ漣さんが、無理矢理僕を引っ張ってはヒナリさんたちに会わせようとしたのだ。最初は嫌々だったが、会ううちに、やはり元の世界と同じように絆されていった。今思えば、やはり彼女たちは僕を拾って愛を与えてくれた大切なひとたちなのだと、大切にしなければならないと、思い出しかけていたのだと思う。屋上に行く回数も、煙草を吸う回数も減っていった。隣の席の彼女が時々何も言わずひっそりと僕を見ていたことに、僕は気が付いていたはずだった。気が付いていたはずなのに、僕の中の優先順位が変わっていったのだろう。彼女とぶつかって、久しぶりに話した日、僕は自分がこんなに変わっていたことに初めて気が付いた。信じられないくらいに軽い心でヒナリさんたちの話をしていて、彼女が恨めしそうに、泣きそうな顔で僕を見ていた。僕はそれを無視して、妙に明るかった。
終業式の日、久しぶりに屋上に行った。彼女が不意に呟いた恋心に、ああ、これは僕への天罰だと思った。僕は最初から、彼女が僕を好きなこと、いわゆる恋愛感情を抱いていることを知っていた。本人が知らなくても、僕は感覚としてその視線を知っていた。なのに、僕は彼女につけ込んで、僕の都合の良い風に利用した。彼女を一切見ていなかった。ねえさんの面影を感じさせてくれるひと。僕の希死を認めてくれるひと。今ここにいる僕を否定せず、一緒にいてくれるひと。一緒に死んでいけるひと。彼女の、僕への激しい尊びや畏敬の想いを利用しすぎた。僕自身、途中でそのことにきっと気付いていたのだろう。けれど所詮はただの女子生徒だと、どこにでもいるようなおんなのこだと、内心どこかで嘲っていたのではないだろうか。それは、自意識と自己の意義に過敏な彼女にとって、最大の屈辱であるというのに。
彼女が、内側から壊れていった。それを内側に押し込めさせたのは、僕だった。ほろほろと泣き叫ぶ彼女に、僕は何もすることが出来なかった。僕は無力だった。せめて、彼女の願いを叶えさせてあげたいと、思った。彼女は殺してほしいと言った。彼女の希死願望は、もはや形骸化して、僕との繋がりというそれだけになっていた。それでも殺してあげたかった。彼女への贖罪の手段を、僕はそれしか知らなかった。
真白に染まった幻想の世界で、僕は夏のあのときのように、彼女を見詰めた。ひらひらと花びらが落ちてゆくように、彼女が泣いている。ずっと、めいいっぱいに、泣かせてあげられなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。そう思いながら、息の止まりかけた彼女の唇を塞ごうとした。
なのに、僕はもう、だめだ。彼女との無意識に全てを溶かそうとしたとき、ヒナリさんの声がしてしまった。向こうの世界の声。僕を救った声。僕にとっての彼女の声は、僕を浄化したとしても、彼女にとってのヒナリさんの声は、まごうことなく彼女を濁した。不純物となった僕らは、もう個と個になってしまった。つがいの鳥は、もう、離れ離れになってしまった。先に飛び去ってしまったのは、僕の方だった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
「祐月、大丈夫……?」
「……ヒナリさん、」
彼女が走り去ってから、ぼんやり、していた。ヒナリさんが、固まったままの僕を心配そうに覗き込んでいる。どんな顔をすればいいのか分からなかったから、きょとんとした顔のままそう言うと、彼女はくすりと笑った。
「…いいよ。離れるのは寂しいけど、祐月の思うことを大切にしたら、いいよ。私は、あなたの意思を尊重するから」
「そんな……僕はまだヒナリさんたちと、」
「だよな! 俺はこの中の誰かが欠けるとか絶対許さねえ、」
「漣うっさい黙って! 鈍感!」
「……祐月、みょうじ、せんぱい? のこと、どう思って、るの?」
「あーもうこっちも鈍感だった! 千紘そーゆーことは聞かないもんなの!」
「でもでも、僕も気になる! 祐月、どうなの?」
「馬鹿彼方ー! もう僕の手が足りないからこれ以上ボケるのやめて! ほんとサイテー! 馬鹿! 鈍感!」
漣さんに肩を組まれ、彼方くんと千紘くんがそれぞれ僕の手を掴んで振り回し、それに怒鳴り散らす理央くん、困ったように口許に手を当ててくすくす笑うヒナリさん。ぐらぐら揺さぶられるうちに酔いそうになったが、随分と懐かしく、胸の温まる光景だった。やはり、彼らの仲間の一員になって良かったと思う。僕の新たな居場所をくれた。僕を救ってくれたのは、確かに彼らと、ヒナリさんだ。僕の大好きなひとたちはここにいる。
じゃあ、彼女は、一体何なのだろう。
記憶が戻ったのは、ついさっき。ヒナリさんの言葉をきっかけにして、僕は何故か泣いていた。泣く予兆は何もなく、ただ気が付けば瞳から涙が溢れていた。溢れるうちに、思い出した。全てのこと、そして彼らと再会した安心感、それまでの態度に対する自責、心の弱さが、無意識が全て表に出てきてしまっているようだった。崩れ落ちた僕の背中を優しくさすってくれたヒナリさんの微笑みに、グレン島でのバトルの後のことを思い出した。多分、あっちの世界におけるバトル後が、今なのだろう。そのまま僕はモンスターボールに入れば、全て一件落着するはずだった。そこに待ったをかけるように、飛び込んできたのが彼女だった。
「……っいだっ!!」
それはもう彼女らしい(と言ったら失礼なのは分かっている)、何ともおかしな登場の仕方だった。顔面でコンクリートに着地し、ぺたんと座り込むとしばらくキョロキョロして状況を確認した後、僕と目が合ってしまった。びっくり、した。思わず瞬きしたら、瞳に溜まっていた涙が雫になって僕の頬を伝った。それをじっと見詰め、彼女は何か、考えているようだった。普段なら僕は、彼女含めひとの考えていることは何となく察してしまう。でもその時、僕は彼女のことが何も分からなかった。ただ僕を貫くようなその視線は、凄く、強かった。何か強い、強いエネルギーを感じた。凡庸な瞳だと思っていた彼女の瞳から、冬の夕暮れの澄んだ一筋の光のような、真っ直ぐな強さを感じた。それは、凡庸だなんて呼べるようなものではなかった。彼女にしか持ち得ない、強い、強い瞳だった。
「……みょうじせんぱい!」
「は、なんで、みょうじ!?」
「誰これ…って文化祭のときのー!」
ヒナリさんや漣さん、理央くんたちの声に彼女は視線を配りもしなかった。ただ真っ直ぐ、そこに僕だけしかいないかのように、か弱くも逞しいその脚が立ち上がる。そして、僕の名前を、確かな僕の名前を、彼女は叫んだ。
「祐月くん!!」
捕まった。そう、思った。おどおどとあやうく、僕の思惑の中でぎこちなく踊り続けていた彼女はもういない。不器用な強引さで僕をひっ捕らえにきた、彼女はハンターだ。……。ハンターというのは、似合わないかもしれない。ちょうど彼女に貸した、あの女主人公を思い出した。そうか、彼女も、革命家。そっちのほうが、よく似合う。
彼女はその叫びを合図に、弾丸の如く僕の胸に飛び付いた。力強いその腕の力は到底人間のものとは思えない。まるで猿だ。そして彼女は、僕のシャツに顔を押し付け、空気を通さず直接に僕の胸へ言葉の弾丸を撃ち込んできたのだ。
「私っ、大好き、あなたが好き! あなたの強いところも弱いところもっ、とんでもなくかっこいいとこも、ひとりぼっちなとこも、悲しそうなとこも、突然下の名前呼んだり意地悪なとこも、……あっあと顔とか見た目も全部! 全部全部好き! すきなの、恋してるの、愛してるのっ、だいすきなのー!」
そのときは、呆気にとられて何も思えなかった。驚きが過ぎてしまって、何も考えられなかったのだ。今思い出してようやく、初めて僕が彼女にこんなに激しく愛されていたことに気が付いた。彼女を舐めていたのだと気が付いた。たとえ世の中にさまざまな形の恋や愛が溢れているとしても、こんなにも全てを投げ打って、全身全霊で誰かを愛せるひとなんて、そういないのではないだろうか。彼女は、そして彼女に愛された僕は、なんて奇特な人なのだろう。
彼女は涙や鼻水で溢れかえった顔を乱暴に拭うと、あの力強い視線を至近距離で向けてきた。涙に濡れた、艶やかな黒い瞳。どこからか当たった月に照らされて、強く強く輝いている。息を飲んだ。心臓が、どくんと大きな一拍を鳴らした。そしてそれに反応する間もなく、この空間を支配した彼女は、叫び、そして僕のネクタイを思いっきり引っ張ったのだった。
「あなたが好き、大好き、恋してる、愛してる……! だから、だから!」
――あなたも、私に、恋してみてよ!
まなこは、開いたままだった。彼女の瞳に見惚れているうちに、唇と唇が重なっていた。あまりにも暴力的すぎるくちづけ。押し付けるだけの、何の色気もないくちづけ。そのはずなのに、彼女が爪先立ちで背伸びして、僕のうなじに震える手のひらを滑りこませ、一生懸命に唇を押し付ける姿に、不思議と僕は頭の奥で、官能を感じた。初めて彼女自身を見たのだと思った。ねえさんでもなく、都合のいい依存先でもなく、彼女自身、みょうじなまえという女の人を、僕はまざまざと見せつけられた。みょうじさん。あなたは、なんて恐ろしく、狂気に満ちた、美しい女の人だろう。
彼女が僕の心臓へと掌を滑らせた。心臓が、ぽっかりと抉り抜かれたようだった。彼女の掌から響く力強い脈拍に支配されて、僕は僕という個を無くしてしまったかのようだった。圧倒的な、彼女の存在の美しさ。
ほんとうに美しいものを見ると、人はどうしてか儚さや悲哀、恐ろしさを覚える。そんな誰かの言葉が、頭の中で反芻する。彼女の禍々しいまでの生命は、力強く逞しく、美しかった。だけど同時に、その涙は、その掌は、その唇は、あまりに哀しく恐ろしく、儚かった。花火のように鮮やかに咲き誇ったかと思えば今にもいなくなって、散ってしまうようだった。それが怖くて、そっとその腰に手を回そうと、指先に神経を走らせたそのときに、彼女はゆっくりと伏していた瞼を持ち上げ、唇を離していく。濡羽色が艶やかに僕を射抜く。まさに烏の濡れた翼のような、色めいた、真黒の伏し目がちな瞳。妖艶だと、思った。
「祐月くん、すきだよ」
ここまで乱暴な愛情表現をしておいたにも関わらず、最後に彼女はしおらしい素ぶりでそっと僕の胸に頬を寄せた。驚いたままの僕に、彼女はひとつ微笑みを贈ったあと、颯爽とスカートを翻し駆け出していく。迷いのない足取りで、僕から去っていく。彼女は、まさに弾丸、台風のように、僕らの目の前に現れ、そして消えていった。
結局、僕は彼女のことを、どう思っているのだろう。
最初は、ただ面白いだけの、隣の席のひとだった。気がつけば、ねえさんに少し似た、奇妙な親愛を抱く仲になっていた。彼女の何も言い出さない臆病な優しさに、依存さえしかけたときもあった。僕の思惑のまま、無愛想な表情を微妙に動かして僕を笑わせてくれた彼女。よく泣いて、泣いて、僕を縋った彼女。正論で無慈悲に攻撃するのではなく、同じ立場から僕の死、そして彼女自身の死を望んだ彼女。捨て身で僕に恋をして、僕を愛した彼女。
もう、とっくに、特別なことは分かっている。
でも恋は、分からない。僕の好きな人は、今も昔も永遠にねえさんだ。それに、ヒナリさんや、彼方くんたちもいる。ヒナリさんたちへの穏やかな愛情と同じものかと言われれば、また少し違うと思う。彼女たちと一緒に行かない、元の世界に帰らないという選択肢は僕の頭の中に存在しない。そのくらいには、ヒナリさんたちといられるこの居場所が、好きだ。ここに、僕の幸福がある。恋はなくとも、幸福がある。
じゃあ彼女は何なのだと、また最初の問いに戻ってしまい、結局は堂々巡りに頭を悩ませる。理央くんはじめみんながやいやい言い合う声がだんだん大きくなってきて、正直かなり頭痛に響く。そんな僕の表情を察してか、こらっ! という可愛い声があがると、皆がしゅんと黙り込む。彼女は、やはり僕達のトレーナーだ。
「遊ぶなら、もうちょっと離れよう、今祐月、悩んでるんだから」
「はぁーい……」
「それと、祐月。祐月はちゃんと、悩んでね。悩まないと駄目だよ」
彼女はじっと僕を見て、そして僕を越えた少し遠くへ笑い掛けた。
「先輩が学祭に出展してた絵、祐月も見たでしょう? 先輩は、あのくらい繊細なひとだよ。きっと、すごく些細なことでも悩む人だと思うの。祐月のことでも、きっとものすごく、悩んだと思う」
「……」
「だからその分、今先輩の苦悩を味わって、ちゃんと、受け止めて。先輩と同じくらいに悩んで。私の大好きな先輩を、軽く扱わないで、……お願い」
ああ、そうだ、彼女も、幼いながらにれっきとした女性だ。逞しく強く、同時に儚い女のひとだ。ふわりと瞳を和らげて笑った彼女に、僕はちいさく頷いた。
悩もう。彼女について、それから、僕自身の感情について。一から十まで全部思おう。それが、卒業式までに課された、僕への宿題だ。二月の夜空はよく澄み渡っていて、彼女の住む街のひかりを探したくなった。