仰げば尊しー、我が師の恩ー。
恩っていうか怨、我が師への私怨だわ、このやろー!
出す手の順番が左右逆になったくらいで、何なく私の卒業証書授与は終わり、合唱とかその他諸々各方面からの長いお話も頂いて、卒業式は厳かなままに幕を閉じた。終わってしまえば、号泣するも写真を撮りまくるも後輩が挨拶しに来るのを待つも、勿論さっさと帰るも自由である。私はというと、友達と取り囲んで配られたばかりの卒業アルバムを広げていた。最後のページにメッセージの書きあいっこをしながらも、分厚いページを一枚一枚めくっていく。
彼の姿は、どこにもなかった。綺麗さっぱり、どこにもない。私の隣、夕焼けの眩しい窓際の一番後ろの彼の席は空席で、ここ一年誰も座らず椅子と机が寂しそうにしている。彼だけではなかった。秋頃に美術部全員で撮った写真、私なんかの隣に率先して立候補したヒナリちゃんの姿も、ぽっかり後から加工されたみたいに消えている。おかげで私の隣は無人、その隣には別の子が笑っていて、まるで私がハブられたみたいになっていて、ちょっと胸に刺さる写真になった。サッカー部のところを見ても、所属していたはずの彼方くんはいない、教員のところを見ても漣せんせーはいない、ついでに空間さんと呼べばいいのか、パルキアさんと呼べばいいのか、あのセンセイの姿もない。センセイの言ったことは、本当だった。彼らに纏わる一切の出来事は、もうこの世界にないのだ。彼らのいない世界が、この世界のほんとうにあるべき姿なのだろうか。そうであるならば、彼らの記憶を残したままの私は、一体どういう存在になってしまったんだろうか。
試しに、目の前で誰かのアルバムにメッセージを書いている友達に聞いてみた。あのとき、私をビッチ呼ばわりした理系の彼女である。廊下ですれ違った途端「なまえー!」と大声で叫んで駆け寄ってきたのだった。すっかりあの出来事から萎縮してしまっているので、思わず小さく悲鳴をあげてしまった。それにも関わらずずかずかと私の防御壁をぶっ壊して来た彼女だったが、その表情に裏は何もない。机に頬を引っ付けてうだうだ言いながら油性ペンを滑らせる彼女に、私はまだ震える声でねえ、と呟いた。
「なに?」
「ねえ、……ゆづきくん、今日、いないのかな」
「……。えっと、それ誰? ごめんあたし知らない人だわ、同じ学年の人?」
わざととぼけているわけではなさそうだ。彼女は本気で顔を顰め、三年いて同じ学年に知らない人いるってあり得なくない? とぶつぶつ漏らしている。やっぱり、彼の記憶は全て消えてしまったのだ。私だけに残る彼の記憶。何だか寂しいようで、嬉しい。だから、彼女の問いにも少しふざけて答えてしまった。
「てか、その、ゆづきさん? がどうしたの、あんたなんか関係ある人な訳?」
「うん。……好きなひと、だから」
はああ!? と全力で叫んで動揺する彼女に、私は少し得意げに微笑む。でも「あんたからそんな恋愛トーク聞くようになるなんて何十年先になるかと思ってた」という一言には流石にむかついたのでデコピンをお見舞いしておいた。口の悪さは相変わらずらしい。
「……あの、みょうじ、いる?」
そんな風に、乱暴に問い詰める彼女をあしらっていたときだった。聞きなれない声で、不意にドアのほうから名前を呼ばれて振り返る。確か、英語のクラスで隣だった、月とスッポンのスッポン君だ。しばらく見ないうちに、長く鬱陶しかった髪がさっぱりと切られていて、なんだか好印象の青年へと変身している。大学デビューかな。そういう悪口は心の中に仕舞っておいて、きょとんと首をひねると、彼は「ちょっと来て欲しいんだけど、」と小声でボソボソ呟く。思わず理系の彼女と目を合わせた。あんた一体どうしたの、とその目が語っている。私にも分からないよと私も目で語ったあと、ひとり彼の歩く方向へ着いていった。
渡り廊下の影に着くと、彼はくるりと振り返り、そしてなんと、まさか、驚いたことに、私を好きだと言ったのだ。あんぐり開いた口が閉じられずにいると、彼は俯きながらぼそぼそと語り始めた。一年の頃からずっと視線で追いかけていたこと。英語で隣の席になったときは頭が大混乱して、正直授業どころではなかったこと。小テストの答え合わせで隣同士交換して採点するときなんか、もうどうしたらいいのかわからなかったこと。エトセトラ、エトセトラ。もう赤い耳を隠してはくれない彼の髪が、ふるふると揺れるのを私は呆然と見ていた。もしかして、私が彼に好きだって言っちゃった時も、彼はこんな気持ちをしていたのかもしれない。何も考えられない。頭上にハテナしか浮かばない。なんだこれ。なんだ、これ。
「好きなんだ。……ごめん」
「え、いや、えっと……謝らなくても」
「だって、困っただろ」
「……まあ」
ついそう言ってしまうと、彼は深い溜息をついた。こういう時に嘘がつけないのは私のかなり致命的な欠点だと思う。
でもその会話のおかげか、私の頭は急速に回転し始めた。自分でも驚いた。急に彼についての算段を始めたのだ。このスッポン君と付き合ったら、私はどうなるんだろう。たくさん愛してもらえる気は、した。三年も思い続けてくれたことと、この態度が何よりもの証拠だ。私が、家族じゃない、友達でもない、男の人に愛される。私から片思いして、私から誰かを好きになって愛することには慣れてしまったけど、好かれる、恋される、愛されるって、どういうことだろう。分からないからこその、浮かれた妄想が脳を奪う。彼は大学、どこいくんだろう。遠距離になるのかな、そうしたら、毎日電話して好きって言ってもらえるのかな。でも、スッポン君はお世辞にもイケメンとは呼べない人なので、到底自慢できるような彼ではない……、けど、あんまり華やかでキラキラした人よりも、このくらい地味で落ち着いた人の方が一緒にいて安心できるんだろうか。こんな邪な条件を並べ立ててひとを評価することが初めてで、なんだか自分で自分に驚いてしまった。でも、一番大事なことをまだ考えていない。
目の前のこのひとに、私は恋することができるかということ。私が彼を好きになって、愛することができるのかということ。彼にも、同じことを思わせたのだろう。だからこそ、ちゃんと受けとめて、言おうと思った。照れ臭そうに私の様子を伺う彼の瞳を、視線でしっかりと捕まえた。彼が少し震えた。そして、口を開く。
「……ごめん、他に好きな人が、いる」
「……」
「……ごめん、ね」
彼の瞳が、ゆっくりと濁り、瞼が伏せられていく。ごめんね、でも、私は嘘があんまり得意じゃないのだ。私の好きな人は、祐月くんは、もうこの世界から存在ごといなくなっているのだろう。私の記憶に、彼のことが残り続けるのかどうかはわからない。私が世界で一番好きな人は、もう世界のどこにもいない。目の前で自分を好きと言ってくれる人と付き合ったら、きっと未来の私は愛に溢れて幸せだろうと思う。でも、やっぱり、私の好きな人は祐月くんだ。祐月くんしか、いないのだ。多分、あとで彼と付き合っておけば良かったって、少しくらい思うだろう。でも、仕方ない。恋は、損得という理性を超えてしまうからこそ、恋なのだ。
彼はしばらく沈黙を続けた。罪悪感が湧いたけど、受け止めてもらうしかないと思った。私も、彼の気持ちを受け止めた上での答えだ。でも不意に顔を上げた彼の表情は、予想に反して明るいはにかみであった。
「……そっか。よかった」
「……」
「おまえに、ちゃんとフラれて、よかった。フラれないとさ、大学行ってもずるずる引き摺りそうで、嫌だったんだ」
「……ちょっと、わかるかもしれない」
それは、私が革命だと言って立ち上がったときにも思ったことだ。ああ、そうか。彼もまた、私と同じ革命家。彼はそれまでの薄暗い雰囲気から一転、私に背を向けるとぐっと上に背伸びをした。そして身軽になったせいか、ぺらぺらと空を見上げながら語り続ける。
「あー、なんかさ、すっきりした! 好きな人がいるんならしょうがないよな、好きな人を思う気持ちはおれにもよくわかるからさ。幸せだけど、苦しいよな。苦しいけど、幸せだよな、この世で一番幸せだよな」
「……うん」
彼の言う通りだと思った。
「なあ、そいつに告った?」
「……告った」
「……返事は、どうだった」
「もらってない……多分フラれた、と思うけど」
「あ、……なんか、ごめん」
「いいよ、というか、ありがとう」
何気なくそう言うと、私のほうを見るのを避けていた彼が不意に振り向く。瞳が、少し潤んでいた。だからやけに上を向いていたんだ。その涙も、この目でしっかり見つめなければならないものだと思った。やっと恥ずかしさが湧いてきて、赤く火照った頬の温度を感じながら、私は彼に告げる。気が付けば、不器用にはにかんでいた。
「好きって、言ってもらえて、私もなんか勇気出た……っていうか、なんていうのかな、」
「……」
「……えっと。私を、好きになってくれて、ありがとう……」
覚束ない唇で言って、沈黙が続いて、やっと羞恥が襲ってくる。真っ直ぐに見つめ続けることに急に耐えられなくなって、結局視線を外してしまうと、彼の照れ臭そうな笑い声が聞こえた。
「あははっ、なんか、その一言でおれの三年間全部報われたわ……、よかった、告って」
「うん……」
「みょうじを好きになって、よかった」
「うん……」
視線の行き場がなくて、ただ、彼のローファーだけを見つめていた。けどそのローファーが、一歩、二歩、私との距離を詰める。そして彼は私の片手をそっと無骨な両手で覆い包んだ。顔を上げられない私は、まだ下を向いたままである。
「みょうじ、ごめん、これだけ許して」
彼の手は、震えていた。私の手も震えていた。お互いに手汗をかいて湿ってきた手のひらが、するりと滑って握手をしようとしていた。怖かったけど、受け止めなければならない思いだ。そっと私も、力を込めようとした、その、コンマ何秒か前の出来事であった。
――みょうじさん。
ああ。
ひととせで耳に馴染んだような、いつまでも馴染まないような。空気をりんと澄ませるさわやかさ、儚さ、でも奥のほうで溶けた甘い滅びの誘惑と、優しさ。祐月くん。私のとうといひと。私の、すきなひと。すきなひとの声が、どこか遠くから聞こえてくる。
はっとして顔を上げると、降ろした私の重い髪が勢いよく舞った。見回しても彼の姿はない、けれど、ちらりと棟の中に入っていく薄黄色の影。そうしたらもう、止められない。目の前のスッポン君もそんな私の様子に手を握ったまま目をパチクリしていた。彼ともう一度目を合わせると、さっきまでの浮ついた私はどこにもいない。真っ直ぐ目指す光を、見つけてしまった。
「ごめん! ちょっとその好きな人見つけたからっ、追いかけてくる! 本当にありがとっ、私、ほんとに嬉しかった!」
「……そっか、応援してる」
「ありがと! スッポンのこと、私すごいいい奴だなって思ってるから! じゃあっ!」
それだけ言い放って、ぱっと彼が手を離した途端、弾けたように踵を返し駆け出す。渡り廊下のすのこをガタガタ鳴らして走っていく私の背中に、「スッポン……?」と不思議そうに呟いていたのはほとんど聞こえていなかった。だって、もう全ての五感、いや、第六感でさえも彼の全てへ向けられている。彼が、いる。彼はいる。まだ、この世界にいるのだ。記憶からなくなってしまっても、まだ、彼の存在はここにある。心臓がぎゅうと苦しくなって、同時に熱さが滲んできた。嗚呼、嗚呼、彼がいる。彼が、彼が、私と同じ世界にいてくれる。居ても立っても居られない感覚、花に惹かれる蝶のように、月明かりに集う蛾のように、最初の昼休み、視線で合図を送ってきた彼に私が夢中になったように。気がつけば、駆けていた。彼が手招く方向へ。革命はまだ、終われない。
廊下をまずは右左、確認してみる。端に寄ってそれぞれ屯する卒業生や後輩たちが邪魔だが、とりあえず、いない。とりあえずは右に駆け出そうとした途端、反対から彼の声が聞こえた気がした。ブンと勢い良く振り向くと、ずっと遠くの階段のほうで、彼の長い髪がひらめいていた。すぐにフレームアウトしてしまったけど、それを目掛けて思いっきり駆け抜ける。階段を駆け上がり、三階、二年の教室、ひとはほとんどいなくて、ただ上履きの色の違う下級生が歩いているだけ。ここじゃない、もっと上、四階、一年生の教室、きっとここでもない。もう、予測はついていた。息が切れる。視界が揺れる。それでも駆け上がり、駆け抜けて、はしりぬけ、とおりぬけ。いつか彼と手を繋いで駆けたように。ついにはさっきまでとは段違いに埃っぽいあの階段を登って、踊り場に辿り着いたとき、それはちょうどドアが閉まった瞬間だった。
嗚呼、彼だ。彼が、私のとうといひとが、私の、好きなひとが、この世界にいてくれる。寒くもないのに鳥肌が立った。既に目の奥がじんと熱い。硝子の向こうに、一瞬また黄色がはためいた。それを合図に、ドアノブを握る。一回下にぐっと押してから、ギィと鈍い音を立てて、重い鉄の扉を開く。
――祐月くん!
春の、突風が吹き抜ける。下界の木々が葉を揺らしているらしい、ざああという音。外の卒業生やその両親たちが屯っているらしいらしい、きゃあという声。それら全ての雑音が遠く響いて、まるでここは空から全てを見下ろす傍観者の席のようだ。夕焼けの中、そこに座する、美しいひと。まだやわらかな風に靡くその淡い黄金は、私が足を進めるとくるりと振り向いた。血を詰めた瓶の底、私を奪う瞳の色。私の好きな、彼の色。目に飛び込むのはその二色のみ。そう、二色のみ。
「……祐月くん」
「……」
「祐月くん、でしょう」
彼は――そこにいた九尾の狐、キュウコンは、ちょこんと座り込んで微笑みながら、私をじっと見つめてひとつ、「こん」と鳴いたのであった。