「祐月くん」
「こん」
「あの、だいぶ前に借りた本、読みました」
「こん」
一人と一匹、座り込んで、冷たい手すりに背中を預け、空に近いこの場所から空を見上げる。小春日和。陽射しが雲をとおりぬけ、やわらかな温度だけがここにぽかぽかと伝わる。淡色の雲たちは薄く空を透かしながら、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。その動きを刻んでゆくような、私の心音。おだやかすぎて、まるで年老いたようだと思った。今なら何もかもを受け入れられる、そんな心の音だった。
「面白かったし、なんていうか、読んで良かったって思える話、で、それでね、祐月くん」
「こん」
「考えてみたんです。祐月くん、私を、かず子に似てるって言ったでしょう。それで多分、祐月くんはね、きっと、直治になりたかったんでしょ? あっさり死ねた、直治に」
獣の姿でも変わらない、くすくすと口元を尻尾の一本で隠しながら糸目になる彼。図星なんだな、と思った。
「でも、祐月くん、絶対、上原さんです。お酒が、煙草に変わっただけ。命を縮めながら、だらだら錆付かせていく、あなたはわるいひとなんだから」
そう唱えていたら、なんだか胸のうちが熱くなって、恋の心が水彩のように滲み出してくる。唇の端がふわふわと揺らいでいって、頭の中が優しい綿毛みたいな感覚で埋め尽くされる。幸福。恋の幸福。
祐月くんは、私の言葉に少し俯いて笑った。でも耳元がぴくついてるので、動揺してるの、ばればれです。かと思えばふわりと風が舞ってあっという間にひとの姿に戻っていたので、流石に少し驚いた。彼は片脚あぐらをかくように座り、もう片方の立てた脚の方を抱いて、膝に頬を付けて微笑んだ。薄黄色の花のような髪の毛先が、コンクリートについてゆるやかな曲線を描く。上目遣いに微笑む熟れた苺の果肉みたいな色に、ぐ、と息を飲んだ。でももう、すぐに私も微笑みで返すことが出来る。
「……僕は札付きの不良?」
「ちがいますか?」
「……違わない。参りました、あなたには」
祐月くんは、ぐっと後ろに背中を伸ばす。その横顔の輪郭を目線でなぞる。鼻の付け根で少し角度のつく姿。顎から耳の後ろにかけての立体の美しさ。薄い唇が横にぎゅっと張られ、気持ちよさそうに笑っていた。
「……返します。長いこと借りちゃってごめんなさい、ありがとうございました」
一度読んでから、お守りがわりに持ち歩くのが習慣となったこの本。貰った時より少し紙の端がやわらかくなってしまったそれを両手で彼に差し出すけれど、彼はそれをやんわりと拒み、瞼を伏して微笑んだ。
「あなたが、持っていてください」
「でも、」
「あなたに、持っていてほしい」
「なんで……」
「僕の形見」
「……」
「それに、僕が上原なら、あなたはかず子なんでしょう」
その瞬間だけ瞼を持ち上げ、その熟した甘い赤色で私の瞳を突き貫く。気障ったらしい、でも不思議と様にになってしまう台詞であった。彼はふと私の手から本を取ると、ぱらぱらとページを捲った。かなり最後の場面だった。数行を読めば、もう分かる。お酒を飲んだ帰りに上原さんとかず子が並んで歩く場面。骸骨のように、骨と皮だけの彼の長い指。私の好きな人差し指が紙の上を右から左に辿っていって、ぴたりと一点で止まった。読まれる台詞は分かっていた。喉のところで空気の塊がつっかえて言えなかったその言葉を、彼は薄い唇の隙間から漏らす。まるであの煙臭い毒のように、するりと彼は、甘い毒を漏らす。
「『今でも、僕を好きなのかい』」
彼はちらりと横目で私を見た。私はその視線をじっと見つめ返した。
私は答えなかった。
そのかわり、深呼吸をした。わざとらしいほど、彼に聞かせるための深呼吸をした。それで、彼の甘い毒を、この肌で、この口で、この目で全てを吸い尽くす。それはやがて私の内部にまでしみ込んできて、幸福のつめ綿を真赤に、愛の色に染め上げる。かき氷の苺味というと、可愛らしすぎる。雪に鮮血が染み込んでいくように、彼の毒は私の内部を支配する。その幸福、熱い熱い幸福。体の中の一杯に詰め込まれて膨らんだその熱さを飲み込み切った。
俯いて、火照った頬を両手でぺちぺち冷やした後、私は不意に顔をあげた。少しだけ瞳を丸くした彼に、私はへにゃりと瞳と唇を和らげた。
「祐月くん」
その声が、自分でも聞いたことないくらいに甘くとろけた、好きな人を呼ぶ声で、自分で驚きながら、幸福だった。
「祐月くん、ひとつ、お願いがあるんです。私もあなたに形見を、送らせてくれませんか」
「……」
てっきり質問の答えが来ると思っていたのだろう、彼は拍子抜けしたかのようにその綺麗な赤い瞳をちいさく、丸くしていた。彼が、私の手の内で転がるのは、新鮮だ。だいぶ私も彼に遊ばれたのだから、お互い様である。
「贈りたいんです。貰ってばかりじゃ、悪いから」
「……みょうじさん」
「話は、それからじゃ、だめ?」
少し上目遣いに、媚びた風に彼を見上げると、彼は息が詰まったみたいに一瞬固まった。そのまま無言のうちの視線の戦いがあって、最終的に折れたのは彼のほうだった。抱えたままの膝をゆっくりと伸ばすと、彼の脚の不自然なまでの細長さが改めて強調される。そのまま彼は少しだけ伏せ、髪をカーテン代わりにして表情を隠し数秒黙りこくっていた。そして次に顔をあげた時には、少し照れ臭そうに眉を下げ、あどけなく私へはにかんでいたのだった。
「……みょうじさん、いつの間にそんな逞しくなったんですか」
「あなたのせいですよ、祐月くん」
あなたに恋したことが、私をこんなにも変えてしまった。
「それは、参ったなあ……」
顔を合わせないまま人差し指で頬を引っ掻いてみせる彼は、まるで本物の高校生のように気さくだ。
「それで、あなたは僕に何をくれるんですか?」
「……それは、ですね」
すこし期待するようにきらめいた視線で、彼は詰まった私の言葉すらこくんと頷いて続きを促してくる。私が鞄をがさがさ漁るうちにもじっと見つめてくるものだから、正直大したものではないことが恥ずかしくなってきてしまう。それでもなんとか私がコンクリートの上に並べたのは、まっさらなコピー用紙と、使い慣れたボールペン。彼もそれを見て、どうやら徐々に察したようだった。四つん這いで移動して、彼の目の前に正座し直す。初めて、こんなに真っ直ぐ、彼に正面から向き合った。薄い水晶の膜も、涙のフィルターも、何もない。堂々と背筋を伸ばして、顔を上げた。均整の取れた顔のパーツは、相変わらず神様の作り物のように美しく恐ろしいが、今はその中に人がいる、と思った。ただ整っただけの作り物ではなく、ちゃんとそこに「彼」がいる。彼がここに生きていると、はっきりと確信した。意味深に笑った彼に、もう一度、その名前を呼びたくなった。
「祐月くん」
「……描いてくれるんですか」
「……はい」
あなたの姿を、嘘偽りのないあなたの姿を、写し取ってみたい。
花開くように、彼がくちびると瞳を微かにゆるめて微笑むと、少し風が吹いて髪が揺れた。それで、彼ももう一度、呼びたくなったようだった。さっきの私の口調を真似るように、彼は私を呼ぶ。
「みょうじさん」
優しいその音に、初めて名前を呼ばれたときのような、淡く胸が色付く心地がした。嬉しくて、嬉しすぎて、久しぶりに嬉し泣きをしそうになったけど、ぐっと堪えて私は笑っていた。