数メートル、距離を開けて座り込む。机も画板も何もないので、卒業アルバムの上に紙を広げた。鉛筆はいらない。消しゴムもいらない。ただどこにでもあるボールペンが、私の唯一の画材である。描き方なんて我流だ。描きたいと思った場所から描いていく。彼の場合、どこから描こうか。じっくりと彼を見つめると、足首を絡ませ伸ばした手を膝に乗せた彼に妖しく微笑まれた。……そうだ、膝から、描いてみよう。何もない空間に、点が生まれ落ちる。ゼロ次元が一次元に変わる。この瞬間はいつも、奇跡だと思う。
「祐月くん。さっきの話、しましょう」
 彼の膝は、スラックスの上からでもなんとなくその凹凸の程が分かる。その彼の細さ、儚さ、同時に男のひとらしさを、描きたいと思った。紙の上にイメージを膨らませ、まずはスラックスの輪郭。その中に隠された脚を想像できるように、皺を加えていく。
「『今でも、僕を好きなのかい』」
 彼はもう一度それを呟いた。私は顔を上げないままに笑った。
「好きじゃないと、思ったんですか? あれだけ叫んだのに伝わってなかったなんて、酷いですよ、そんなの」
「……はは。そうかもしれませんね」
「好きですよ。あなたがずっと、好き」
 斜線を重ねたり、線の太さを変えたりしながら、無機質な線たちにタッチを加えていく。無彩色。グレイさえもない世界だけど、そこに彩りを加えていくのはひたすらに線だ。描き込みは足首に到達していた。スラックスの裾と踝までの靴下の間から覗く、少しの肌色。ひとの色。角度がついて強調された足首の骨は、絶対に失敗出来ない。ゆっくりと丁寧に、ただし線がぶれないようにさらりと、一息で線を抜き切った。美しかった。
「……みょうじさん」
「はい、」
「……どうして、やめないんですか」
「……?」
 スリッパの先を描くため顔を上げると、さっきまで斜め下を見つめていた彼が、正面を、私を見ていた。瞳が強い赤色で私を貫くようで、でも届いていない。体育の授業の、遠くに投げようにもなぜか途中で落っこちてしまう、野球ボールの描いた力ない曲線を思い出した。彼の姿は弱く、ちいさかった。あの日の夜駆け込んだときの彼を彷彿とさせる、ちいさなか弱い生き物のように見えた。どうしてそんな残酷な問いをしておいて、そんな暗い顔をしているのか。不思議だった。
 それでも私はペンの走りをとめない。彼の足は意外と大きい。見た目の細さに似合わないほどアンバランスで、そこがまた人形のような雰囲気を醸し出しているのだが、でも彼には確かな命が宿っていることをもう私は知っている。生きている風に、描きたいと思った。気張るように少し上を向いた親指と、ほか四本の指。清純な印象の白い靴下が逆になまめかしく、官能的であった。
「形見の意味、もう知っているんでしょう」
「……あなたは、ここの世界のひとじゃないから、もう帰っちゃう、ってこと?」
「はい。それに、さっき見せたでしょう。僕は元々人間じゃない、獣で、ポケモンで、」
「あっあの、さっき、すごい祐月くん可愛くて……もふもふのふわふわさらさらで……めっちゃかわいくて……」
「……。可愛いとか、そういうのをもう言われる歳じゃ……」
「……。拗ねました?」
「拗ねてないです……」
 アルバムを盾にして視線だけで彼を覗くと、ぷいと不機嫌そうな横顔。どうやら可愛いと言われるのは好きじゃないらしい。ほぼ一年を彼と過ごしたというのに、まだ知らない彼の表情があると思うと、もっと長く一緒にいたかったな、という気持ちも当然湧いてくる。その寂しさは隠しておいて、ただ、笑うだけでいた。
 彼が拗ねたままでいるのをいいことに、私はそそくさとペンを走らせる。下半身から書き上げてしまうという後先考えない脳味噌のせいで、かなりこの先の難易度が上がってしまった。視線であたりをつけ、想像を紙の上に焼き込んで行く。その結果、胴を描こうと思った。彼の細腰である。何度か抱き着いたときのことを思い出して、ほんのりと甘い感情に包まれた。腰に溜まったシャツの皺を握り締めたことを思い出しながら、輪郭を辿っていく。
「僕の問題は、世界と種族のことだけじゃない。僕は、もうあなたの知る僕じゃない」
「……記憶が戻ったんですよね」
「だから今の僕は、あなたの知るこの世界の僕と、ヒナリさんたちといる向こうの世界の僕が混ざった僕だ。あなたが好きなのは、」
「私が好きなのは、祐月くんですよ」
「そう、なら、その僕はもう半分いないに等しい」
 腰から上へと線を登らせていくと、必然的に腕へと繋がる。最初は膝の上に手を乗せていたが、徐々に体勢が楽になってきているのか、手はコンクリートに付けられていた。背中も柵に凭れかかっていたので、普段なら風に従うままに吹かれる髪は部分的にしか揺らめかない。それはそれで美しいのだが、折角だし少し勿体無いと感じたので、最初のに戻って欲しいと伝えると、楽にしていいって言ったのにと少し不服げに上半身をやわらかく前に倒した。狐さんのはずだが、その仕草はまるで気高い猫さんのようだと、以前から思っている。いっそのことその姿を描いてみようかとも思ったが、膝を描き切ってしまっていたのであえなく断念。修正液はご法度なのだ。やっぱり手を横についてもらうようお願いすると、また不服そうに、でもなんだかおかしそうに笑われた。楽にしていいはずじゃないんですか。やっぱりだめです。かたじけなし。
「それと、みょうじさん、漣さんから聞いた話なんですが」
「漣せんせーから?」
「僕が向こうの世界に戻れば、僕の中から、あなたの――この世界の記憶は消える、この世界の、あなたの好きな僕は消える」
「……ああ」
「そして同時に、あなたの中から、僕にまつわる記憶の全て――つまり、僕を好きだというあなたの記憶自体が、そもそも消える」
「……」
「もしかしたら、この世界の存在ごと消えるかもしれない、とかも、あるって」
 肩から腕の輪郭を辿っていく。彼の肩幅はやはり男の人だけあってそれなりに広いのだが、何せ薄い。脂肪という脂肪を削り取った病的な薄さ、しかし耽美な絵画のモデルの如く筋肉だけを残した彼の体。一度漣せんせーと並んでいるのを見た時に、ものすごく驚いた。せんせーは多分標準よりも少し筋肉質なくらいのほぼ標準なのだが、彼と並んだが為にまるでせんせーがムキムキのようだった。シャツの余っている部分の柔らかさを意識しながら、入りや抜き、曲線の具合を調節していく。結わえた髪から少しこぼれた髪のところは、まだ空白にしておいた。首の周り、デコルテのあたりを描き込もうとしていたときであった。
「だから、みょうじさん」
「……はい?」
「ごめんなさい」
 ペンが止まる。
 止まったまま、顔を上げられなかった。首無しの彼と見つめ合ったまま、彼の絞り出したみたいな呟きに耳を傾けた。
「ごめんなさい、みょうじさん」
 ごめんなさい。それは、彼が私を殺せなかったあのときと、同じ台詞であった。相変わらず、言葉の足りないひと。まだ春先の頃、彼の曖昧な言葉にウンウン唸って悩まされたことが懐かしい。彼は、一体何のことについて謝っているのだろう。もしかしたら、彼自身も分かっていないのかもしれないと、ふと思った。彼が感覚のまま口にした言葉なのかもしれない。何か私に対して、彼の中に足りないものがあって、それを感じ取って、詫びているのだと思った。
 だ、なんて、うそ。
 今、彼が曖昧だとか、何か足りないものだとか、ぼやかして言ってみたけれど、それこそ私のぼやかし、まやかしと、もう気付いている。文脈は、もうすらすらと読めるようになってしまったのだ。考えるまでもなく、単純に、私は彼にフラれた、彼は私を好きじゃない。事実はそれだけだ。彼に足りないのは、私への恋心。それだけだ。
 沈黙が、場違いな風に、戸惑いながらそこにいた。
「……」
「……」
(あ〜、あ)
 声にならない熱い声が雫になり、紙の上に落っこちて、ボールペンの油性インクを滲ませた。
 最初から分かっていた、はず。そのはずだ。当然だ。彼が、どうして私を好きになるだろうか。私の何を彼が評価してくれると言うのだろうか。今までのはずっと、ただの気紛れな優しさだと、分かりきっていたはずだった。彼は優しいのだ。ああして一見何も興味のない風に装っておきながらも、案外周りをしっかり見ていて、気を使いながら暮らしているひとなのだ。みんな知らないけど、彼は途轍もなく優しいひとだ。傷付き疲れたひとの心にどう寄り添えばいいのかを熟知したひとだ。彼は、そういうひとなのだ。なのに一瞬、その優しさを愛と思おうとした私がいただろう。さっきまでの自分の、余裕の態度を一気に恥じた。全て分かっていた。分かっていたのに、彼の言葉のちからは、強かった。
 失恋。愛は幾重にも積ろうとも、出来事は、現実は、あんまりにもあっけない。
 失恋。彼のひとことで、全てが今、終わった。そういえば、私がスッポン君を振ったときの最初の言葉も、「ごめん」だった。
「……。みょうじさ、」
「だめっ、」
 止まっていた空気が不意に揺らめく気配がして、反射でつい幽かに鋭く叫んだ。言って、顔を上げてから気付いた。プールの中みたいに歪んだ世界の中で、彼が腰を上げようとしていた。叫んで、正解だと思った。今、彼がこちら側に来ては、だめなのだ。優しい彼が隣に来ては、だめなのだ。向かい合わなきゃ、だめなのだ。全てを委ねていた私がはじめて、自分から壁を作った瞬間であった。
「だめ、です……」
 ゆらゆら波を打ちながら揺れる彼のぼやけた姿は、静かにコンクリートの水底へと戻り、また元の、私が伝えたポーズに戻っていく。美しい人形のような人間のあなた。対象のあなた。あなたと私はもう、同じになんかなれない。もう、足首に繋がれていた希死の赤い糸は、千切れてどこかへ流れてしまった。それで今度は足首じゃなくて、掌の小指で赤い糸を繋いでみたかったけど、それも駄目だった。あなたと私は、同じになれない。あなたは対象。私とは違うひと。個と個なの、もうばらばらなの。
 でも、ばらばらになったから、こんなにも、恋をした。革命を起こせた。革命は成功した。
 ――恋と革命。恋は、革命。
 合言葉が降ってきた途端、心を人差し指でピンと弾かれたような感覚がした。
 そうだ。革命は既に、私の勝利だ。私は、彼という他者に恋をしたことで、ようやく私自身を変えたのだ。そのことに何の変わりもない、フラれようが、なんだろうが。それは私の誇り。アイデンティティ。
 嗚呼、本当は、恋をしたことなんてどうでもいいのかもしれない。ただ私が私をつかまえるための通過儀礼だったのかもしれないとさえ思えた。そう思ったら、さっきまでの惨めさや感傷や弱々しい心は鳥肌と一緒に吹飛んでいく。代わりに膨れ上がっていくのは、勝利。私は勝った。誰よりも己自身に勝ったのだ、革命は成功したのだ。そのことが、何よりもの私の土台となり、力となり、誇りとなる。ああ、なんだ、そういうことだったのか。
 不安げに眉を下げながら私を伺う彼の視線には、気付いていた。気付きながら敢えて無視して俯いて、潤んだ視界を制服の袖で拭い払い、んー! と小さく唸った。赤ん坊みたいにわんわん泣き叫びたいエネルギーが内側に溜まっているのが自分でも分かる。もうゲージは一杯で、溢れかえりそうなのも分かっている。でも、私はもう泣かなかった。泣かないと、決めたのだ。泣く代わりに、その溜まりに溜まったエネルギーを使って、お腹の底から心の底から思い切り、大口をあげてニッと笑った。
「祐月くん!」
 私の不器用で無理やりな笑顔に、彼がはっと目を見開いた。
「……あなたらしく、ない。そんな、まるで私に自分から諦めてほしいみたいじゃないですか。実際、そうなんでしょう? 私に諦めてほしいんでしょう」
 濡れてしまった紙をぽんぽんとティッシュで叩く。絵とはいえ、彼は彼だ。叩くなんて行為は少し気が引けたので、できるだけ優しく、涙を拭うように紙の上の彼に触れた。それから顔を上げて本物の彼を見つめると、そちらも何だか空気に溶けて消え入りそうなか弱い表情をしていて、ティッシュで涙を拭きたくなるくらい、愛しくなった。
「……祐月くん、お願いがあります」
「はい」
「私の話を、私のことを、聞いていてください」
「……」
 それは、私の幸福論。そうしたら、私の革命は、私の報復は、本当の意味で完成する。
 残すところは首から上だけ。私の大好きな、彼の顔。悔いのないように、語りつくそうと思った。
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