「私ね、受験、だめでした」
口にした途端、早速心臓が石になったみたいに重くなった。
視線であたりを取るところは同じ。どのくらいの角度にしようか。少し首を傾げたくらいは、何だか子供のようでもあるし、大人びた誘いのようにも見える。正面だと、直視できないほどの力強い瞳が描ける。悩ましいところだ。
「第一も、第二も、第三も。一般で受けたところはね、ぜんぶ、だめでした。結局行くことになったのはセンターで受かったところで、もうどこそれ、って感じの。でも一応名前はそれなりに通ってるらしいし、まあ、いっかなーって」
彼は何も口にしない。黙ったまま、何を考えているのか分からないような、悲しそうでもあり微笑んでいるようでもある不思議な無表情でそこにいる。私の好きな顔。うん、これが描きたい、と思った。彼らしい、私の好きな、恐ろしいほど美しい、だからこそ儚く物哀しい彼の姿。私の、とうといひと。私の好きなひと。
「なんか、あれだけ頑張ってきたのになんだったのかなーって感じ。だって、私の行きたい学部無かったから諦めたけど、私の第一志望に校内推薦でスイスイ入ってった子だっているんですよ、友達に。いつもそうなんですけど、なんか、頑張れば頑張るほど、空回りっていうか、私生きるの下手くそだなーっていうか、だから、……」
くす、と彼が俯きがちに笑った。くちびるが揺らめいて、瞳がスッと細まる。赤い血のような色が細長い鋭さを増し、胸に突き刺さってくる。口許に寄せられた指先の不気味さが、彼の『微笑み』という現象がまるで異界の出来事のようであることを強調している。私はまだ彼の向く方向に迷っていた。ペンが何度も紙の数センチ上を彷徨っている。
「……だから、死にたかった?」
「……あはは。別に私、悪いことはしてないんです、周りに迷惑を掛けるような大悪人でもないんです、ただ、生きている上でどうしようもないことが、当たり前のことが苦痛なんです。苦痛からの、上手い切り抜け方が、いつまで経ってもわからないんです、だから。普通なら、賢い切り抜け方をもっと早くに知ってるんでしょうかね。でもきっと、誰も切り抜け方なんて知らないと思うんです。みんな悩んでて、みんな苦しくて、みんな泣いてるんだと思うんです。私もそのうちの一人だけど、そこからひょいっと飛躍して、死にたいなって言葉を知っちゃっただけで、切り抜け方のひとつに、死ぬ、っていう選択肢があることを知っただけで」
「もしかして、それは僕のせい?」
「そうですよ。でも、私はそれで救われたんですよ。だって、死にたいなんて言える資格もないと思ってたんです、私。あなたのせいで、死にたいって、苦しいって、言ってもいいんだって思えた。あなたに、私の苦しみを認めてもらえたから」
言っていて、笑えてしまう。もっともっと、漫画や小説みたいにちゃんと語れて、客観的に見てもそれは苦しいね、死にたくなるよね、って言ってもらえるような人生だったら良かった。ヒナリちゃんみたいに、あからさまないじめでも受けてみたかった。彼のように、家族を喪うとか凄惨な過去を持ってみたかった。そんなこと言えるわけない、思うのすら罪だと感じる。だって、私には彼らの本当の苦しみとか、なーんにもわからないのだ。奥の奥の自分が答えれば答えるほど、私は「本当の自分」とやらの薄っぺらさ、つまらなさ、浅ましさに絶望していた。本当の私は、ただ誰かに、苦しかったね、と言われたいだけだった。誰かに、私を見てほしかった。ただ、隣にいてくれるひとが欲しかった。本心から分かり合うなんて、どうせ無理なのだから、ただ隣にいてくれて、私を否定も肯定もしないひとが欲しかった。それが彼だった。
「あなたがはじめて、誰も見えなかった、私のしょうもない生き辛さを見つけて、抱き締めてくれたんです、祐月くん」
あの夏。抱き締めてくれたあなたの温度が、どれほど私を救ったか。
思い出しただけで、緩んだ涙腺がまた熱くなりそうだった。けど、耐える。肺一杯に息を吸い込み、吐き出し、顔を上げた。私の興奮とは逆に穏やかな彼の笑顔が、こてんと小首を傾げて揺れた。その動きに遅れて、まぶしい髪の数本がはらりと零れ落ちた。ぐ、と心臓が圧縮されるのを堪え、私はペンを握り直す。まだ、角度は決まらない。
「でも、その死にたさも、中途半端な夢だった。芸術の道に結局進まなかったのと同じです。私、やっぱりだめなんです。全部全部途中で折れちゃって、だめで、普通で、でもひたすら苦しくて、生きていることが苦しくて、悲しくて、そうやってなんとなしに今も生きている、これからも、きっと。世界中の人を条件で絞ってネット検索したら、私は何百万ヒットのうちの一人だろうって、思うんです。どうやって条件を絞ったら、みょうじなまえという一人に辿り着けるだろうかって。どうやっても無理なんです。当たり前なんですけど、それが、苦しいんです」
両親ともに離婚もせず健在。高校三年生。性別女。成績は中の上。美術部員。賞とかは取ったことがない。根暗。友達付き合いが下手くそ。趣味はゲーム、時々お絵描き。強いて人口が少なそうなのは画材にボールペンを使うことくらいかな。それでも、どう頑張ったって私と似たような人は日本中、世界中のどこにでもいると思う。特筆できることが何もない。そんなの私だけではない、ほとんどの人がそうだ、なんて、分かりきっている。けどそれが苦しい。苦しくて苦しくて、死んでしまいたくなるほどに苦しくて泣いている。きっかけがあれば死ねるのかと言われても、結局人並みの生への執着を捨て切れない。そうして、なんとなく普通のレールに乗っかって、目的もなく生きている。きっと、これからもそのレールを外れることはないのだろう。ただの女子高生Bだった私はこれからただの女子大生Bになり、そのうちは就活生B、フリーターの女B、もしくは社畜Bとかになるのだろう。そうやって、生きるのだろう。個性のないマジョリティとして箱詰めにされて生きるのだろう。
彼が、少し俯いた。空気を含んだ前髪がふわりと彼の腕に被さった。私があんまりにも暗い話をするから、どういう顔をしたらいいのか分からないのかもしれない、と思った。あなたはあなたらしく、不干渉主義の、どこか冷ややかな微笑みを浮かべてくれたら、私はそれでいいんだけどなあ。彼の不器用な優しさを感じてしまって、不満に思うと同時に愛しい。つい、笑ってしまった。笑うと彼がちらりとこちらを覗いてくる。やわらかく枝垂れ落ちた金色の影から伺ってくる視線は、色付いたいちょうの葉に隠れて覗く狐の瞳のようであった。
「祐月くん、私もう泣いたりなんかしませんよ。悲しい話じゃないんです。私は幸福なんです。私、今、幸せなんです。せかいいち幸せです、他の誰より。ヒナリちゃんより、祐月くんより、ずっとずっと幸せです」
「……、どう、して?」
そんなの、愚問だ。スッポンにだって、わかったことだ。彼の疑ぐるような視線に、私は瞳を緩めて返した。そして、ひとつ深呼吸をしてから、ぐっと空気の塊を飲み干す。頬が熱くなっていくのを感じながら、ペンを握りなおし、私は紙に視線を落としたままふやけた口元で、呟く。
「あなたを好きになったからです」
恋しい人を思う心。幸福だけど、苦しい。苦しいけれど、幸福。世界一の幸福。
「私の幸福は、あなたのおかげです、祐月くん」
あなたに恋をしたこと。それが、何よりもの私の幸福。そうなんだよ、祐月くん。
彼の顔は見れなかった。見ないほうが、私は幸福に酔えるから。落ちてきた髪の束をカーテンにして、彼の表情を隠す。もしかしたら、私はもう、彼すら必要ではないのかもしれない。なんて自己完結、はた迷惑な愛のかたち。でも、最後だから許してほしい。どうせ忘れるのなら、今全てを曝け出したい。私が如何に幸福か。あなたに恋をしたことが、どれだけ私を絶望させ、私を救ったのか。
「あなたが私をどう思おうと、私は、あなたと出会えて、あなたのそばにいて、あなたに、恋をしたんです。だから私は幸福です、私は今、世界一、幸福なんです。今までのことにも、何か意味があるような気さえするくらい」
ああ、もう、恋とは、麻薬ですね、祐月くん。ずっと辛くて辛くて泣いちゃうようなことが、今全て幸せの欠片に思えるのだから。本当に好きなことを諦めたこと、友達にハブられたこと、受験に落ちたこと、あなたにふられたこと、辛いこと、悲しいこと、全部全部に、まるで今までの私を育ててくれた親のような親愛を覚える。どう考えたって、おかしいことだ。どれだけ私が泣いて喚いて叫んで苦しんだのか、私はもう嫌という程知っているのに、全てが幸福だった、なんて。おかしいでしょう。でも、本当。私は、幸福で、幸福で、恐ろしいほどに幸福だ。
胸が熱くなる。鼻の奥がツンとする。瞳の奥も熱くなって、じわり、じわりと湧き上がるそれをぎゅっと瞼を閉じることで防いだつもりが、逆に絞り出すみたいになって一滴頬を伝ってしまった。あーあ、泣かないと言ったのに。でも、これは幸福の涙だから許してほしい。幸せすぎて、幸せすぎるから泣いているのだ。その証拠にと、私はまた笑った。彼に、心の底から笑顔を見せた。歯を食いしばった不器用な私の笑顔。彼は一瞬おののいたように瞬きをしたが、それから何故か、彼も泣きそうな風に瞳を細めた。その綺麗なかたちがやわらかく崩れるのが愛しくて、私のためにそんな顔をしてくれるのがもっと愛しくて、私はまた意地っ張りに笑いながら泣く。幸福の涙をはらはらと花弁のように落としながら、笑いながら、心からの歓喜を彼に捧げた。
「あなたは、私に宝物をくれたんですよ、祐月くん! 何だと、思いますか」
最初はそれが、希死という、あなたと死にたいという、すごく綺麗な感情だったんです、でもそれが壊れてから、今度は私一人の宝物が出来た。
彼は答えない。ただただ柔和なあの瞳で微笑んで、黙って私の答えを促す。それはまるで私を想っていると勘違いをしてしまいそうなほど優しい、潤んだ綺麗な瞳で、私は負け惜しみのように表情を崩しながら笑う。
「私の宝物はね、恋なんですよ、この、恋なんです。あなたに恋をしたこの想いが、私の、やっと手に入れた、綺麗な宝物なんだよ、祐月くん。あなたがいなくなっても大丈夫って思えるの、だって、わたしはもう私だって、言えるから!」
たとえ世界がどれだけ私たちの記憶を操ろうとも、あなたに恋をしたこの気持ちだけは、絶対に手離さない。もう、彼に恋をする前の私になんて、絶対に戻れないのだから。別れは、仕方ないのかもしれない。だって彼らの正しい世界は、ヒナリちゃんたちといる世界だ。それでも、この革命、この恋だけは、愛だけは、絶対なかったことになんてさせない。またあのセンセイをぶん殴ってでも、必ず取り戻すだろう。また全員のW私Wで、立ち向かって殴るだろう。もう、W私Wたちは強いのだ。扉を打ち破ってしまったのだ。
「でもね、別れが辛くないわけじゃないんですよ、私、やっぱりあなたのそばにいたい、ずっとここにいたい、あなたの隣にいたい、でもね、……でもね、自信があるんです」
息を吐ききったあと、じっとあなたの瞳を見つめる。ああ、私の、とうといひと。すきなひと。あいするひと。優しい彼の微笑みに包まれる幸福のまま、私はありのままの心の有様を零していった。
「また、あなたの元に駆けていく自信。また違う世界でも、あなたに出会って、あなたに惑わされて、あなたに恋をする自信。あっでも、センセイが祐月くんたちの世界には私いないって言ってたんだけど……でも、不思議だけど、またあなたを見つけられる自信があるんです」
私がにっ、と口角をあげると、彼も笑う。そして私は、唱える。他の私にも、どの世界の私にも聞こえるように、言い聞かせるように。
「だから、待っていて、祐月くん! どんな世界でも、絶対、私はあなたに出会うの。あなたに恋をするの、どんな暗闇でも、あなたという光を目指して、私、迷わないで、走っていくから……」
幸せのまま、胸に手を当てて、目を閉じた。深く息を吸い込めば、胸が膨らむ。吐き出せば、胸が小さくなる。そうして、ここにいる私を、この想いを確かめた。それから目を開けると、数メートル先の愛しいひとは、とても優しい顔をして、ただ真っ直ぐに私を見ていてくれた。その、何も言わない、数メートルの有難さ。苦しいけど、幸福。幸福だけど、苦しい。でも、幸福。熱い想いを吐き出しきって、ああ、これこそ幸福の飽和点なのだと思った。革命を遂げたのだと思った。たとえこれからどんなに不幸が待っていても、私はこのときを思い出せばまた幸福に戻れるのだと、思った。
私が言葉を止めたその瞬間、春風が彼の髪を揺らした。そして彼はふと、顔を逸らす。斜め下に落ちた視線が、ちょうどやってきた花びらを追い掛けて、ゆるやかに動き、そして舞い上がったのにつられてその横顔が上へと持ち上がる。その動きを、私はまるでスローモーションのように見ていた。まるで、映画のワンシーンのようだった。花びらを舞い上げた風は同時に彼の髪をゆるく靡かせ、淡い桜の色と物哀しい夕暮れのグラデーションの中に、油菜の花をどろりと流したよう。その先に、半分ほど伏した瞼の中に、濃赤の、血液のいろをそのままに映し出す瞳。特徴的な角度の鼻の輪郭や、薄く開いた上唇の先、長い睫毛には、優しくも眩しい春の夕陽が乗っかってきらきらと光る。仄かに黄みがかったその光は、彼の薄い赤味の肌を焦がすようだ。それでも彼は気にすることなく、ごく自然な流れの中の仕草でその光を浴び続けている。
心臓が抉り取られる、あの感覚。思考の全てを奪われるあの感覚、時も空間も止められたようなあの感覚。私の、とうといひと。好きなひと。奪われた心臓の位置に空いた穴に、春風が吹き抜ける。それと同時に、涙が出た。美しいことが、あまりにも儚すぎて、恐ろしすぎて、哀しかった。
ふと彼が視線でこちらを向いたことで、はっとした。そうだ。これだ、私が探していた彼の美の頂点はここだ。鋭く彼の名を叫ぶ。ビクッと目を丸くする彼にも構わず私はもう一度叫ぶ。相手が誰なのかも忘れ、ただあの瞬間を留めるため、必死だった。
「祐月くん! 今の向きっ、そのまま!」
「えっと、……今の、ってどこ、」
「向こう! 向こう、あっもうちょっと遠く! いいからこっち見ないで! ……ください!」
傍らに置いていたペンを再度握り締め、網膜に焼き付けた彼の横顔を、頭の中で紙の上に焼き付ける。決まってしまえば、もうペンに全てを任せてしまえる。からっぽになった心臓のまま、ただ熱さに駆られてペンを走らせる。少し左肩に傾いた首の角度、うなじの曲線、揺れる耳の横の髪。可能な限り綿密に、リアルに、髪の一本一本まで描き込んでいく。途中でペンを投げ捨てた。0.5では太すぎた。確か持っていたはずの0.28のボールペンを探すもごちゃごちゃでなかなか見つからないのにキレて、筆箱の中身を思い切り地面にぶち撒けた。ガラガラとパチンコ玉が転がるみたいなけたたましく響いた音に彼が驚く間に、お目当のボールペンの蓋を投げ捨てまた描き込む。細い線。これなら彼の睫毛の先まで描きこめるに違いない。気味が悪いまでにみっちりと描き込まれた髪に負けないよう、服の皺や影を細かく重ねていく。しめたとばかりに熱中する私に密かに突き刺さる彼の視線には気付いていても、それよりも紙の上の彼の方に熱中していた。
だが、ふ、とその集中の糸が切れる。突然、掌に篭った熱が冷めて、呼吸の荒さに気がつく。アドレナリンの値が急激に減少グラフを描き、我に返っていく。残るのはただ呼吸音。上がって下がる自分の肩が、まるで他人のもののような感覚がした。
「……みょうじさん」
「あと、顔だけ……、描かなきゃ。大丈夫です」
「一度落ち着いた方が、」
「だいじょうぶです……、だいじょうぶだから、こっちを、向かないでください……」
私の気迫に押されたのか、彼は少し私を覗き見ながらも、先ほどの美の頂点へと戻ってゆく。ああ、これだ、これが、彼だ。0.28のボールペンを持ち直し、念入りに彼を写しこんでから、線を刻む。世界を刻む。彼の存在する、この世界を、写し取って刻み込む。眦の窪みから、慎重に。彼の睫毛は、よく見ると密集しているというよりも、一本一本に力があるといったほうが正しい。不自然に上を向かされていない、凛とした強さのある睫毛。瞳の丸い曲線を描くのは、完全に区切るのではなく光の当たる部分を避けて、点描のように線を引く。色は、まだ塗らないでおく。瞼の厚さも書き込んだ。何度も思うのだが、彼はそこまで彫りが深い訳ではない。鼻はツンと高いが、彼の顔の造形は意外にも薄く、儚い。瞼もそうで、確かに重なってはいるのだけれど、肉感というよりも皮が重なっているようだ。点描で微かに影をつけながらも、できるだけ濃くならないよう、単純に描いていく。それから涙袋の柔らかさを薄く書き込み、下睫毛を細かく、点描ひとつひとつを狙いながら重ねる。鼻の造形をやはり濃くなりすぎないようにつけたら、ペンの先はくちびるへ。薄い唇。ただ、他の白い肌よりも淡く色付いただけのようなくちびる。私から口付けた、あのくちびる。皺のひとつひとつを細かく、しかし見ていて心地よい具合につけていく。風に吹かれた髪の先が少しだけその端を隠しているのが、またどこか秘密めいた彼の空気感を強調する。
「……、よし」
そして、とうとう辿り着いた。私がいちばん好きな、いちばん惑わされた、彼の瞳。黒から赤へとをボールペンを持ち変え、もう一度顔を上げる。上げた時、あ、と彼が小さく掠れ声を上げた。彼が、瞳だけでこちらをこっそりと見ていたのだった。さっきまで、真っ直ぐに遠くを見ていた瞳が、こちらを、私を写している。目と目が、重なる。凡庸の黒と、奇抜の赤が、重なる。固まってしまった私に、彼は柔らかく、瞳の色で微笑んだ。零れ落ちそうな赤。詰め込んだ血の色が、愛の色に変異して、滲んでいくようだと思った。
彼が、私の名前を呼んでいた。くちびるだけで、音にはせず。誘うようなその行為を受けても、私は動けなかった。もう、あなたしか、見えない。あなたの世界しか、見えない。その甘く蕩けた脳のまま、私はぼんやりと、危うい手つきで、瞳の中を描いていく。
血液をそのままに写した色は、熱く煮え滾ったようでもあり、冷め切った儚さを湛えているようでもあった。それはきっと、彼の瞳の中で、赤と黒が澱んだように渦を巻いているからだ。ボールペンを何度も持ち替えながら、その淀み、濁りを描き込んでいく。瞳孔の奥には細かな掛け網をいくつも重ねて、息詰まるようなほの苦い部分と、儚く輝く部分とを区別する。赤色はその濃い掛け網に所々折り込んだが、ある部分は濃く滲むように、ある部分は掠れて光るようにと、筆圧を調整していく。光は、はっきりと線にはしない。柔らかな日差しの元にいる彼の瞳は、世界と線を引いて決別するのではなく、この空間に溶けるように見えたから。悩みながら手順を重ねてゆき、最後に赤で瞳孔を重ね塗りし、私はとうとうペンを手放した。
「……祐月くん」
ああ、私の、とうといひと。うつくしいひと。すきなひと。
私の絵は、確かに彼女のものと比べたら見劣りする。決定的に、何かが足りない。それはきっと、無垢だろう。無知ゆえの、さわやかな無垢。でも今、私は彼女に負けないと思った。勝ったとすら、圧倒的な勝利すら、感じた。私にだって、誇れるものがあるではないか。それは彼女が、まだ得る事ができないもの。いつかは追いつかれるかもしれないけれど、でも、今、彼女には絶対に負けないと思える宝物を、私も手にした。
愛。自分ではない、誰かへの、愛。
自己の可能性でも、自己嫌悪の程でもない。私が、私の中で、いちばん誇らしく美しく、そして儚い宝物。この絵には、その、愛が篭った。愛を、描けた。私がこの絵で本当に描きたかったものは、彼の美しさでも彼の儚さでも、ましてや彼を閉じ込めておきたかったわけでもなく、ただ、私の愛だ。それは、初めて成し遂げた、私だけの宝物であった。
卒業アルバムをケースから取り出し、自分のクラスの頁を開く。ぽっかりと空白の、彼のいるはずだった場所。そこを指でなぞった後、自分の描いた絵を挟んだ。これで本当に、完成だ。私の青春の全ては、この中に閉じ込められた。
もう一度ケースに閉まってから、抱き締めていると、彼がそっとこちらへと歩いて来た。腰を折って、はらりと落ちてきた髪を耳に掛けながら顔を近寄せる彼を見上げる。アルバムを抱き締めたまま彼の顔を見ていると、とうとう愛おしさがポロポロ漏れてしまったらしかった。彼の綺麗な瞳に映った私は、微笑みながら涙を流していた。幸福の涙だった。幸福のまま、拙く垢抜けない言葉を口にしていた。
「祐月くん、ありがとう、あなたに出会えて、あなたに恋して、私はせかいいち幸福です」
言っていて、もう込み上げてきてしまって、彼の表情がゆらゆらと水面越しのように滲んでいく。本当は、もっと泣いて、幸福を叫びたかった。この世の幸福を、彼に恋をした幸福を、叫び散らして回りたかった。けれど、その泣き声はぐっと堪える。堪えて、笑った。最後に彼の瞳に映る私の姿は、可能な限り笑顔でいたかった。もうすぐに、全ての記憶が無くなると分かっていても、最後に思う私の姿が笑顔であってほしかった。口角をグイッと上げる。叫んで回りたい衝動を、すべて不器用な笑顔に変えた。ああ、確かに、幸福。四方の壁から、嘆きの声が聞こえてきても、これじゃあ確かに幸福よ。
濡れて潤んだ視界の向こうで、彼がまた微かに笑ったような気がした。そして、くちびるが揺らめいていた。それが、まるで私の名前を呼んでいるような動きに錯覚してしまって、私ははっと息を詰まらせる。その間に、彼はもう一度同じくちびるの動きを繰り返していた。今度は、音で聞こえた、その言葉。
「……みょうじさん」
「はい……」
「伝えておきたいことが、もうひとつ、あって、……」
彼の儚い指先が、ゆっくりと私の目元の涙へと伸ばされる。熱い頬に冷たい指の温度差に驚いて、気配だけでびくりと震えてしまった。ぎゅっと目を閉じて、その指先が触れるのを待つけれど、いつまで経っても彼のあの冷たい指の感覚はやって来ない。うすらぼんやり、瞼を半分開いて様子を伺った瞬間、彼の手はすっと何事もなかったように引っ込められ、彼は視線を逸らす。瞳に溜まっていた涙もその途端ぱっと引っ込んで、一気に視界が開ける。彼の視線の先を辿ってみると、彼らが――彼方くんたち、彼の仲間たちが、顔をぎゅうぎゅうに押し込め合いながら扉の小窓からこちらを覗いていたのだった。しまった、と思った時にはもう遅い。ぱちりと五人分の瞳と目が合ってしまい、私は沸騰したやかんのように熱を登らせて、最終的には「……あ、ばれちゃいましたね」という彼の一言で爆発させられることとなったのであった。