見られた。もしかしたら、聞かれたかもしれない。思い切り、自分を曝け出すところを! ガラスにぴったり引っ付いた彼らの手や鼻先やらはまるで軽いホラーのようであったが、私にとってはそんな視覚上の恐怖よりも「見られた」ことへの恐怖のほうがよほど深刻だった。だって、あの夜を見られているのだしもう今更なのかもしれないけれど、純粋無垢な彼ら、しかも彼の家族のような存在とあれば尚更恥ずかしくてたまらないじゃないか。助けを求めるように彼のほうを見れば、困ったように眉を下げながら曖昧に微笑むのみ。ひ、ひどい! 彼らが思い切ったのか扉を破ってこちらへと入ってくると、もう消え入りたい気持ちでいっぱいである。穴があったら入りたい。あー、やっぱり死にたーい!
「祐月ー! ねえねえ、今何しようとし……!?」
「馬鹿彼方あんたほんっと空気を! 読め! デリカシーって知ってる!?」
「……? でりかしー、って、おかし?」
「うーん、あとで理央が教えてくれるってよ。てか祐月、そろそろタイムリミットだぞ。あいつが言ってたの、卒業式の日没までだからな」
「漣、まだもう少しだけ時間はあるから大丈夫だよ。ごめんね祐月、みんな出てきちゃって……」
「いえ、僕も遅くなってごめんなさい。ギリギリなのは分かっているんですけど、もう一言だけ彼女に伝えたいことがあって……、みょうじさん?」
「あれ、みょうじ先輩?」
 彼らの声で、ぴた、と私の足が止まる。彼らが賑やかに囃し立てる間に私はこっそりと輪を抜け出し、さっさと逃走しようとしていたのだが、最後の最後でばれるとは不覚である。ぎく! と自分でも顔に書いてあるのが分かった。だって、あんな公開処刑の空間に居られるわけない、あまりにも羞恥が過ぎる。つい振り返ってしまった顔をギギギと戻すと、弾けるように逃げ出してしまった。
「みょうじ先輩!」
「な……っ、みょうじさん! 待って!」
 物凄い勢いで扉を開き階段を駆け下りていく中、彼らの声が階段の上から響いてくる。聞こえないよう、わざとばたばた喧しい足音を立てて駆け下りていたのに、ああ、恋は盲目になるだけではなく、耳さえも可笑しくしてしまうのだろうか。貫く矢のように、彼の声が真っ直ぐに耳へ入ってきて、思わず逃げる意思が揺らぎそうになる。彼があんなに焦る声、初めて聞いた。
「ヒナリさんすみません、もう少しだけ! すぐに戻りますから!」
「う、うん! 待ってる!」
 それでも何とか逃げていたのに、屋上の扉が勢い良く音を立て閉まる音が聞こえてきたかと思うと、後ろから何やら思い切り階段を駆け下りてくる音。言わずもがな、その正体は分かっている。分かっているけど、振り返り方が分からなかった。でも、彼には、そういう私のだめなところを、恥ずかしいくらいに把握され尽くしている。
「みょうじさん! 待って……!」
 高い天井は、その声をまるで舞台のように大きく響かす。囁き声ですら、私の単純なこころは簡単に捕まってしまうというのに、そんな響く声で、必死に、彼が私を呼んでいる。私の名前を、呼んでいる。
 こんなの、不可抗力だ。急ブレーキ、回れ、右。
「……みょうじさん、待っ、て」
 私の数段上で、膝に手を置いて肩で息をする彼。相変わらず掃除は雑なままらしい、私と彼が駆け抜けて宙に舞い上がった埃が、屋上の扉の窓から差し込む斜陽に反射するのが、まるで幻想の世界のようだった。
 彼が、ゆっくりと、顔を上げる。金色の儚くも眩しい髪の隙間から覗いた彼の瞳は、赤く、ただ赤く。燃え尽き滅びゆく太陽の色をしていて、私はその恐ろしさと美しさにひたすら屈服し、心臓を止めることしか出来ないのであった。

 彼のスリッパが落とされる度、階段のステンレスがカシャン、カシャンと鳴る。緩慢な歩み。私は、目を逸らした。突然脱兎の如く逃走したかと思えば、呆気なく彼の術に嵌り、視線と声だけで捕らえられているというシチュエーションにどうすればいいのかなんて、受験問題では出てこなかったからだ。やっぱり、文脈を読むしかないのかと思い、記憶を遡る。彼は確か、私にもう一つ伝えることがあると言っていた。一体何を言おうというのだろう。実はずっとスカートの前後逆じゃないかとか、ほっぺに睫毛ついてるとか、髪に芋けんぴはついてないと思うけど、歯に青のりついてるとかだったら本当に今すぐ飛び降りてやる。悶々と考えすぎているうちに、彼はいつの間にやら私を通り越していて、ばっと首だけで振り返ると、真近に彼の微笑。階段のせいで身長差が縮まっているのだった。まさに鼻先に鼻先が触れ合うような距離で、思わず一段上へ登る。そうすれば、当たり前のように彼も一段登る。無言のままイタチごっこが続くのかと思われたそのとき、彼がクスリと笑った。口許に手を添えて瞳を細め、少し意地悪そうに私を見つめる。
「……はは。あんまり登りすぎると、また見られちゃいますよ。いいんですか?」
「え……! あ、え、えっと」
 はっと振り返れば、ヒナリちゃんや漣せんせーたちの後ろ姿が扉のガラス窓越しに見える。このまま踊り場まで登りつめてしまえば、確かにまた、先輩でも生徒でもなくただの女である私を見られることになる。それはもう、無理だ。想像しただけで羞恥が体いっぱいに広がって蒸気が出る。でも、だからと言って逃げずにいたら何故かこんなにも綺麗で大好きで恋しいひとの顔がすぐそばにあって、まるで、今にも口付けてしまいそうな距離で、そう勘違いしてしまいそうな距離で。見えない壁に阻まれ二進も三進もいかなくて、とにかく彼の意図が全く読めない。斜め下を向きながらガタガタ震える声で彼に尋ねる。
「ゆ、ゆゆ、祐月くん、あの、これは、どうゆうことでしょう……」
「……? 何がですか?」
「あの、……その、近すぎると思うんですけど、その、色々危ない……」
「危ないって……危ないことはしませんよ、あっでも、捉えようによっては……」
「な……! なななにを! すると!」
「え、……言いますか? キ」
「はあああああー!?」
 思わず目も見開いて叫んでしまった。待ってほしい。あの、待ってほしい。理解ができない。つい相手が誰なのかも忘れて私は彼の肩をがっちり掴み思い切り揺さぶりながら壊れたマシンガンの如く叫び続ける。
「あのっ! そういうのは! すごくそのっ、大事なことで! そんなノリとか記念とか思い出とかそういうのはほんと駄目だし良くないと思うしむりっ、てゆーか、あのっ、というか、ちゃんと好きな人とするもんでしょ! 私のこと好きじゃないでしょ祐月くん!」
「……え? 好きですよ?」
「ほらー! ちゃんと大事に……へ?」
「……あれ? 言ってませんでしたっけ?」
「……え? は?」
 は?
 彼にしては珍しすぎる、純粋に不思議そうな声が上がり、突如私のマシンガンの銃口が塞がれる。いや、本当に、待ってほしい。さっきから訳が分からない。衝撃が続きすぎてもう何も分からない。何を言ってるんだろう。今何を好きと言ったんだ。そう、文脈を読もう、文脈、文脈……、おかしい。どう考えたって、おかしい。
 肩を掴んだまま慌てふためく私をよそに、どうやら彼の中で納得が出来たらしい。肩にあった私の手を、彼はそっと取り外す。その手が、彼の両手に包まれる。握り締めるのではなく、優しく、羽根のような軽さで。彼の骨ばった手が、彼の、あの儚く美しい手が。私の両手をまるで愛おしいみたいに包んでいる。訳が分からずぽかんとしていた隙に、彼がニコリと微笑んだ。それは、私の好きな、あの薄い水晶の結界を張るような微笑み方。でもその結界は、彼を守るものではなく、彼と私を世界から隔離してふたりきりになるためのもののような気がした。
「……みょうじさん。伝えていないこと、あともう二つでした」
 彼は瞳を伏せる。そして、捕らえた私の手を引っ張って、額と額をぶつける。息が止まった。足元しか、見れなかった。
「あなたに言われてから、自分とよく向き合ってみたんです。あなたのことを、あれからずっと考えていた」
「あ、わ……、えっと」
「僕にとってのあなたがどういう存在なのか。あなたの気持ちはよく知ってるけど、僕自身のことを僕はちゃんと知らなかった。だけど、ようやく、わかった」
 みょうじさん。
 その声は、まるで彼が初めて私の名を呼ぶように新鮮で、耳が擽ったくなるような低く甘い声であった。彼のやわい吐息が、そのまま鼓膜を掠り、私は体じゅうを走り抜ける己の震えにただただ、堪えることしかできなかった。
「でも、みょうじさん。愛を、語られたい?」
「……っ、なんで、そういうこと言うんですかぁ……」
「だって、僕はそんなに言葉が上手じゃないでしょう? 言葉だと、上手く伝わらない気がして」
「……ほんっと、に、そうですよっ、だってさっきごめんなさいって言ったじゃないですかっ」
「それは、なんというか……世界とか、記憶とかで、苦しい思いをさせてしまったということについてですね」
「ヒナリちゃんたちのことだってあるし、」
「彼女たちは恩人です。彼女たちに出会わなければ、僕は前を向けなかった。けど、あなたがいるのと、いないのとでは、僕の未来は違っていた。僕が、もう一度ひとを好きになる未来なんて、あなたなしにはなかったんですよ。みょうじさん」
「……っ、こんな、私だしっ! 可愛くないし!」
「そんなあなただからじゃないですか。側にいたあなたが。不器用なあなたが。……あと、あなたが思ってる以上にみょうじさんは可愛いと思います、うさぎみたいで」
「……う、うさぎっ!?」
「あんまり表情変わらなくても耳でばれてる、ちょっと臆病で泣き虫のうさぎさんって感じで。ポケモンで言うならブラッキーですかね? せっかくの綺麗な黒髪だし」
「うっ……ううっ、うううううわああゆづきくんのばかぁタラシぃだいすきぃぃぃ」
「はいはい。よしよーし」
 悲しみも喜びも涙になることは知っていたが、驚きも過ぎれば涙になることは今日初めて知った。真っ赤になるわ大泣きするわ腰も抜けそうだわで、なんというか、別れのシーンとしてはものすごくかっこ悪い私を、一段下の彼はクスクス笑いながら抱き締め、背中を優しく叩いてあやす。なん、なんだ。一体ホントに、何で、どうして、両思いってことになったんだ。どう考えてもおかしい、何か、それこそ革命か天変地異でも起こらないとこんなのあり得ない。私が起こしたのは、私自身の革命だったはずなのに、一体どこで彼をも変えてしまったんだろう。これじゃあ、本物の革命になってしまったじゃないか。突然神様からの特大プレゼントを貰ってしまった気分だ。彼の甘すぎる台詞を受け止めきれなくて、訳がわからなくて、私はもう容赦無く彼に猿みたいに抱きついてわんわん醜く泣き叫ぶことしか出来なかった。ほんと、なんで、こんな私を好きって言うのよ。祐月くん、やっぱりわけわかんない。
「……みょうじさん。そろそろ顔上げてみませんか」
「……むりです」
「みょうじさーん、もういじわるしないから」
「……やだ」
「……」
「……。いやです、」
「なまえさん」
 言ってるそばから、このひとは、案外悪戯好きの確信犯の策士である。鼓膜に響く、甘く艶やかな彼の声。わざと低い声で、私が、どう足掻いても彼という存在自体に惚れ込んでいることを利用した技だ。頭がふんわりと真っ白になって、力が抜けて座り込みそうになったところを、彼は自分の腕を回して支え、無理矢理に立たせてくる。そしてもう片方の手で私の顎を持ち上げ、また、コツン、額を合わせてくる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼の冷たい指先に拭われ終えてから、恐る恐る、瞼の隙間からうっすらと開いていく。そして、息を飲む。
 ゆづきくん。
 祐月くん。
 燃え尽きる寸前のような眩しい夕陽の赤。ぼやけて、輪郭のないその光は、私という矮小な存在さえも照らす希望の光、道標の光、誘蛾灯、そして、破滅へと導く光であった。破滅を、滅びを含んでいるからこそ、彼の瞳はこんなにも美しいのだと思う。僅かな陰りをもたらす、揺れる金の糸たち。鼻のまわりに落ちたその曲線の緩やかさ。心臓が、抉り抜かれたように何もない。
 ああ、激しさはなくとも、凛としなやかに麗しく生きる、彼というひとりの存在。
 何度だって思おう。
 私は、このひとが、好きだ。
「ゆづきくん……すき、私の、とうといひと、好きなひと……、うつくしい、ひと……」
 煙のように唇の隙間から漏れ出た言葉に、彼もまた、あの真白い煙のように、つたない言葉を返した。
「あなたのほうが、ずっと、うつくしい。僕の、破滅のひと。革命のひと、恋のひと、いとしいひと」
 そうして私と彼は、目を閉じた。
 合図はなかった。言葉も、もうなかった。あやうい唇同士がただ重なれば、もう、からだや肉体や言葉なんていう生々しいものは、どこかへ消え去ってしまった。私たちの間に、もう境界線など存在しない。彼の思いが、彼の心がそのままにわかる。彼も、私の思い、私の心を、そのままにわかる。あのとき希死で繋がったのと同じであった。違うのは、私たちを繋ぐものが、ただ愛であること。ありふれた、恋であること。赤い糸が、足首から小指に移ったこと。
 ああ、私があなたのことだけを想うように、あなたも私のことだけを想っている。互いのことを、願っている。
 愛してる。
 好きだ。このひとが、好きだ。
 このひとに愛されたい。このひとと、もっと愛し合いたい。このひとの全てが欲しい。
 安易に触れてしまえばこちらが壊れてしまいそうなほど力強い、互いの胸に溢れる形のないそれを今、ようやくこの胸で受け入れられて、一雫、誰のものでもない涙が通りすぎる感覚がした。
 彼の手が私の後ろの髪に触れる。卒業式だからと気張って整えてきた髪だけど、走ったり夢中になって絵を描いたりしていれば、あっという間にぼさぼさに膨らんでしまった私の髪。彼の指先が私の絡まった毛先を柔らかく触る。あなたが私らしいと言ってくれたこの髪。あなたが触れた瞬間から特別になった髪。また、褒めてくれた。彼から私への愛おしさがそのまま波紋のように伝わる。愛されるという初めての出来事があんまりにもくすぐったくて、恥ずかしくて嬉しくて、私も彼の腰に恐る恐る腕を回した。
 でも、無情に、時は過ぎている。互いを求める気持ちが強くなればなるほどに、はらはらと桜のはなびらのように記憶が散りはじめる。散ってゆく間際、最後にはなびらが見せる記憶のひとつひとつを、私たちは慈しみながら見送った。窓越しに微笑まれた記憶、隣の席になった記憶、屋上に誘われた記憶、煙を共有して、夏に泣いて、抱き締められて、保健室で、文化祭で、終業式で――。数えきれないほどのはなびらが呆気なく宙を舞い、空間の狭間で霧になって溶けてゆく。全てが、なかったことになってゆく。だんだんと彼のことも、いや、彼だったのか、性別も分からない。はなびらにいつも映るこのひとは、誰だろう。でも、とても愛おしい。愛おしさだけは、この愛だけは、決して薄れることがなかった。手放さなかった。何もかもを失っても、愛だけはここにあった。このひとと私は、ただ懐かしみながら全てを見送り切ると、私たちはくちびるを離さないまま泣いた。どうして泣いているのかも分からず、泣いた。
 ――こんなにも、このひとが好きなのに、どうして、離れなければならないのだろう!
 ふたりの意識のどちらから生まれた感情なのかは分からない。でもそれはすぐにふたりの間を稲妻のように走り抜け、はっと目を開いてしまった。綺麗な血液の色の瞳と、その奥に映るま黒い瞳は、違う色なのに全く同じ色をしているようだった。瞳と瞳が繋がった瞬間、私たちはまたひらひらと涙を流した。
 ――離れたくない! ぼくは、わたしは、もっとこのひとと同じ思いで溶け合っていたい、このまま、時が止まればいい……!
 ふたりとも、そう思った。同じ瞬間、同じ感情を抱いて、お互いを求めた。そのひとの腕の力がぐっと強まる。軽く食むだけだったそのひとのくちづけが深くなる。私も同じときにそのひとの服を握り締め、きつい皺を作った。
 でも、くちびるを先に離したのは、私のほうだった。
 きつく瞑ったそのひとの瞼、その睫毛のきらめきに愛おしさを覚えながらも、私は瞳を開いていく。回した腕を外し、その手をそのひとの肩に乗せる。そして、押した。はっと瞳を開き、涙をまだ頬に伝わせながら私を見つめるそのひとに、私は微笑んだ。私も泣いていた。苦しかった。声を絞り出すので精一杯だった。でも、意地で笑った。笑って言わなきゃ、いけないことだ。
「だいじょうぶ、ですよ。私、また、あなたのところに、走っていくから」
「……――さん、」
「だいじょうぶ、だから、一度だけ、さようならをしましょう、――くん」
 置いてけぼりにされた幼子のようなそのひとの滲んだ表情に思わず胸がときめき、そのひとの髪を撫でながら、私のほうからキスをした。
 かなしい、かなしい恋の成就。
 そんな、あの本の言葉が蘇った。そのひとはゆっくりと、寂しそうに愛しそうに微笑んで、そして頷いた。
 そのひとは、ゆっくりとした歩みで階段を上っていく。私を振り返ることなくただ無心に上ってゆき、光に満ちたあの世界へと、飲み込まれていく。それでももう、大丈夫よ。私はもう、大丈夫。私も階段を下って、日常の、私の世界へと帰ろうとした瞬間であった。
「――さん!」
 どうしてか、私が呼ばれたと思った。振り返れば、見知らぬひとが、光を背中に浴びながら私に笑っていた。くしゃりとした、朗らかで愛おしい嘘のない笑顔で、私はそれを見た途端息が詰まった。詰まった息が、涙になってボロボロと情けなく溢れ出した。
「――さん、言い忘れたこと! 僕を、好きになってくれて、ありがとう、――さんっ」
 そのひとは、それだけ言い残すと、淡い金色の髪を閃かせて扉を開く。一瞬激しく目を焼く光を漏らした後、あっけなく閉まった扉。その途端、世界の色が一気に燻んだ。しん、という音が聞こえそうなほど、何もない世界だった。立ち竦む私は、ただ、ぼんやりと屋上へと続く階段を眺めていた。
 沈黙の階段。嗚呼、一体、私はここで何をしていたのだろう。何か大切なことをしていた気がする。ただ、ただ、何かこの胸に宿る宝物が、愛というかたちの宝物があって、それだけはピカピカと美しく鮮やかな色彩を放っている。きっとその愛を向けたひとはあの扉の奥に消えたこと、もう会えないこと、それすらもう薄れて自信のない記憶だけど、そんな、気がした。
「……――くん、……っ、あああっ、……!」
 胸が熱い。吐きそうなくらいに肺と喉が熱い。呼び慣れたそのひとの名前を呼びたいと喉が、唇が、こんなにも叫んでいるのに、声になるのはただの喘ぎで、悲しくて、愛しくて、濡れた頬にまた涙が重なる。きっと学校の人かもしれない、そう思って貰ったばかりの卒業アルバムを鞄の中から取り出す。勢いよく開くと、一枚の紙がひらひらと宙を舞った。風に吹かれて、数段上に落下したそれを拾い上げると、そこには私の絵があった。誰か、途轍もなく美しいひと。そのひとの、優しい瞳。赤く染まった綺麗な瞳。一目見て、自分の絵のはずなのに、はっと心を奪われた。心臓が抉り抜かれたみたいに何もない。私は、呆然と、その絵を見つめていた。でも暫くして、また、声にならない声が喉から叫ばれる。愛おしいのに苦しい。苦しいのに愛おしい。愛おしくて、幸福。そんな、どこかで経験したような思いが内側から溢れてきて、それはまた涙になってぼたぼたと床を濡らした。
 前を向く。屋上の上の世界。私は、なぜかそこを向きたいと思った。扉の窓から、眩しい光が私を刺す。
 あのひとの名前を呼びたい。叫びたい。
 両の拳をかたく握り締め、大きく息を吸い込んで、私は泣いた。忘れてしまった名前を叫んだ。愛しいひとへの思いを永遠に永遠に、言葉にならない思いのありったけを、そのままに、ただ、何度も何度も叫び続けて、愛だけ残ったこのからだを滅ぼすように、そのひとの名前を、愛を、叫んだ。


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