卒業式の「あの事件」以来近寄らないようにしていたから、この階段も少し懐かしい。ここの廊下の掃除係はA組だったっけ、角に綿埃が溜まってる。T字ほうきでちゃんと掃かないと、というか、最早ほうき自体が汚いんじゃないか。アスファルトの上でごりごりするとほうきの先にこびり付いた埃も取れるよ、あ、これ中学時代の先生の豆知識……。
なんて、私が取り留めのないことを考えているのは何故か。その答えは「硝子窓の奥にいるであろう彼の姿が視界に入るのが怖くて、下を向いているから」。「私が極度の混乱状態/緊張状態にあるから」だと、さんかくで3点くらいかな。登場人物がどういう状態にあるのか、コンテキスト――文脈を掴まないといけない。
だから、次の問題もまずは誰が何をしているのか、場面状況を掴まなきゃ。彼は(気のせいかもしれないけれど)私の目の前を通るという行動で、私をこの屋上へと導いた。つまり私は、彼に誘われているわけだ。……やっぱり、誘うという言い方には語弊があるかもしれない。でも、おいでとあの人で言われたからには、答えなければならない気がした。他ならないあの彼ならば尚更だ。私にとっての彼の絶対性は、強い。すごく。彼に死ねと言われたら、心臓をくり抜かれ夢見心地のまま屋上を飛び降りれるような気がする。まあその前に、彼と目が合った時点で既にまともな思考は止まるのだろうけど。
「……あ」
そうやって、油断していたのがまずかった。気が付けば最後の段をも登りきり、端っこに溜まった埃もなくなっていて、私はあまりにも違和感なく顔を上げてしまったのだ。いつかの感覚がそのままに、私の血管の中を駆け巡る。彼の、横顔。どこに視線をやるわけでもなく、ただ遠く彼方へ投げられたワイン色の瞳に、笑わない唇。鳥肌が立つ。逃げなきゃ、さもなければ死んでしまうと、脳内シグナルがちかちかする。それでも足を踏み出してしまったのは、多分、彼のワイン色に酔わされていたのだろう。実際、脳内シグナルは徐々に麻痺してゆき、かわりに甘く滑らかな肌触りの色が脳内をぐるりと支配する。
心臓が、速い。手首や脹脛や、からだの至る所から脈拍を感じて、揺れている。これじゃあ本当に酩酊状態みたいだ。握った金属製のドアノブが妙に冷たくて、やっぱり火照りまで来てるんだ、と思った。そして、ギィと音を立てて、重い鉄の扉を、開く。
春の、突風が吹き抜ける。下界の木々が葉を揺らしているらしい、ざああという音。入学したての一年生が外でお昼を食べているらしい、きゃあという声。それら全ての雑音が遠く響いて、まるでここは空から全てを見下ろす傍観者の席のようだ。私には、似合わない。私は下界で、吹きつけてくる風に翻弄されるだけの惨めで価値のない落ち葉みたいなものだ。こういう席は、やはり、彼のような美しいひとの座すべき席だと思う。
ドアが開く音で気がついたらしい、私の存在に認知した彼は、ふと首を捻ってこちらを向いた。まだやわらかな風に吹かれる髪の靡きは、ひとつの芸術のような曲線を描いている。片腕を手摺に預けたまま、彼の視線は私を捉え、おや、とばかりに瞬きをした。ちいさな星が散るようなその仕草に、このちっぽけな心臓が抉り抜かれるどころの騒ぎではない。呼吸が止まる。酸素が、脳に回らない。
「……、」
彼が、無言で微笑んで、私を見てる。足が竦む。視線ががくがくと震えているのが自分でもわかる。何か言え、せめて近寄れ、それができなければ今すぐ逃げろ。機能しなくなった脳の代わりに脊髄が文句を言っているのには気付いているけど、どの指令もうまく届かない。
そんな私を見かねたのか、彼は少しだけ視線を下げ、静かな足音で近寄ってくる。その靴は私と同じ、ただの紺色のスリッパのはずなのに。それがハイヒールのように見えたのは、彼の高い頭身をつくる脚の長さからだろうか。そんな妄想のハイヒールの音が、ふと止まる。私の目の前で、止まったようだ。頭がふらふらぐるぐるして、考えればすぐ分かるようなことにも自信がなかった。
彼が、小さく息を吸い込む声さえも聞こえてしまった、そのときである。ふと、視界に細長い指先が映る。彼の右手は、顔立ちの儚さとは裏腹、骨張って大きな、男のひとの手のひらだった。また心拍も脳内も麻痺させられていたから、その指先が示す私のお弁当に気がつくには、彼の言葉が必要だった。
「……お昼、食べる場所ないんでしょう?」
あれ、こんな、声だっけ。物静かで、大抵のことを微笑み一つでこなしてしまうから、彼の声を聞けるのは授業であてられた時か、とにかくどうしてもという必要に迫られたときだけだ。こんなに、やさしい声だっけ。すこし吐息交じりで、どこか含みのある甘い声色。
顔を上げれば、あの薄い微笑みを浮かべているのだろうか。でもそんなのをこんな調子の私が直視できるわけもなく、コンクリートの平行な地面と視線は90度、ぴったり垂直で重なっている。お弁当を握る手にも、力が篭る。
「……、……っ、ぁ、えっと、」
絞りかすみたいな声だと自分で即座に笑いたかった。でも仕方ないと思う。まず肺が息が上手に吸えていないのだし、喉は風邪っぴきのときのように締め付けられている。声帯が震えただけでも奇跡だ。まあ、私にとってはそうだとしても、これで彼に私の状態を察されてしまったことには変わりないのだが。
意識した途端込み上げる羞恥に堪えようと、また全身の変な筋肉がキュッと収縮すら一方、視界の端では、菜の花色がゆらめく気配を感じた。まごうことなき、彼の髪の色だ。小首を、傾げたようだった。
……死ぬ。直感から下を向いたまま眼をきつく瞑り彼のまばゆさを遮断する。だが今度は目を開くタイミングを見失ってしまって、また死を予感する。なんだこの踏んだり蹴ったり。彼が呆れていなくなることを期待しながら、薄っすらと細目になりながら開くと、今度はほんとうに死んでしまった。だって、膝を曲げてしゃがんだ彼が、私を見上げている。薄く唇を横に引いた、あの尊い微笑を、私に向けているのだ。圧倒的なその美を堪能する余裕などなかった。まず、ギャアと品も女子力も何もない声を上げた。次に、コンクリートに向けて容赦なく後ろへドシンと転んだ。要するに、尻餅をついた。彼が、瞬きをしている。ブロンドの長い睫毛が一緒に音を立てている、その奥の赤い瞳孔が真ん丸になっている。滅多に見ない驚き顔に、ちょっとかわいい、なんていう珍しい感想を思う間もなく、またさっきの尊い微笑に戻っていたから、私はずっこけた情けない格好のまま動けるはずがなかった。体がぴくりともせず、目の前の彼へと視界が固定されている。そんな固定カメラを向けられた彼は、動じることもなく儚くも妖しげな薄い唇をほんのりと開き、瞳を細めた。
「やっと顔見てくれたので、時間は取らせません、質問、いいですか。まずは一つ目」
私がただただ現実としての許容量を超えたせいで、血の気の抜けていきそうな感覚を味わう間にも、彼は笑顔でそう話しているようだ。人差し指を伸ばしたらしい、彼。細い皮だけのような指だけれど、関節のところの骨が極端に浮き出ていて、どことなく化け物じみた美が宿っていた。
「お昼を食べる場所がないんでしょう?」
倒れる前にも言っていたことだ。答えは当然イエスなのだけれど、声を出そうにもさっきみたいに嗄れた声しか出ない自信があったので、とりあえずカクカクと頷く。まるでコンビニ強盗に遭って脅迫される深夜アルバイターみたいだとか、よくわからないことを咄嗟に思った。
そんな私はともかく、彼はなぜか満足げなようだ。小首を傾げて笑うと、長い横髪が頬を伝い、はらりと零れ落ちる。その一本一本の金糸に目も心も奪われていると、彼はちょうど私の視線がそこに集中しているのに気付いたらしい。彼は人差し指を立てていた右手を唇の前へと持ってくると、すっと中指をも伸ばした。
「なら、ここで食べるのはどうですか」
「……ほぇあ!?」
「あ、喋った」
素っ頓狂な私の声が眩しい春の青空へと吸い込まれ、さらに羞恥に見舞われる。そんな私の奇行を前に瞬きを繰り返す彼は、不意に素直すぎる一言を漏らすと、また微笑んで私の心を盗んでいった。
ことばでも魔法でもないなにか