「ここ、意外と涼しいんですよ。コンクリートだから夏場暑いですけど、いつもどこかに日陰は出来るし。鍵が壊れてるのも僕以外知らないらしいので、誰も来ないし。まあ昼休みの逃げ場にはちょうど良いかと」
 広がる一面のコンクリートを見渡しながら、彼はつらつらと言葉を止めない。それからもこの場所を少し得意げに語り続ける彼はまるで不動産屋にでもなりきってるように見える。でも不動産屋さんと彼の大きく違う点は、彼が私の、なんというかその、……崇拝する人であること。彼はそんなことに気付いていないのか、それとも気付いている上での確信犯なのか、その唇の紡いだ言葉一つで私の心臓をいとも簡単に射止めてくる。「ここで食べるのはどうですか」。それは、この一年間お昼ご飯を彼と一緒に過ごす、ということか。無理だ。そんなの私がもつはずない。ただでさえいつの間にか受験戦争のスタートラインに立たされて、元からないような自分らしさってやつを見失いかけているところだと言うのに。
 ずっこけて尻餅をついたまま顔を逸らしているというのに視界が揺れるのは、どうやら心拍が大きすぎるからのようだ。ぐらぐらして酔いそう。それでも断らなくちゃ、昼休みの時間も単語帳広げるだとかしなきゃやばいんだ、私の成績。彼のせいで私の大学進学が危うくなってしまうのは、いやだ。万一受験に落ちたとして、あの時彼を断りきれなかったから落ちたと思いたくない。だから心臓発作や心臓麻痺が起ころうとも、何が何でも声を絞り出そうとした時だった。はたと、またあの滑らかな声質が耳を通り抜けていく。
「それに、あなたには貸しがあるので、お礼もしなきゃいけないと思って」
 途端に凍りつく。視界の震度がどんどん増している。さっきのが軽い程度に思えるくらいだ。貸し、だとか。思い当たる節はひとつしかない。というか、あの時にしか私と彼の接点は無いのだから。やはり返事を出来ずにびくびく怯えていると、彼はしゃがんだまま、ポケットを弄って「それ」を取り出した。
「覚えてませんか? これ」
 覚えるも何も、出来ることなら忘れた方が私の精神は健康だった。スローモーションで顔を戻すと、その手には軽い力で何気無く人差し指と中指で挟まれた、細長い筒。反対の手には、白地に蔦が絡まったデザインの小さな紙箱と、真昼の太陽を反射して白く光る銀の楕円筒が揃っている。……ああ。あの日は、私の夢でも妄想でも無かったのだと知らしめられる。硝子窓を通して見た光景。目の前にあるこの指が、この唇に触れて、この瞳が私を捉えたのだ。夢や幻想のような出来事が、色の濃いインクのように肌に染み込んで、私の中へとやってくる。恐ろしい。ただそう感じた。それに追い打ちを掛けるように、彼は僅かに小首を傾げ前髪の毛先を揺らした。
「ね、これ、黙っていてくれたでしょう」
「……、はっ、ははっ……はい……」
 浅い呼吸のまま、やっとのことで呟くと、煙草の奥の瞳が笑う。ほのかに漂う、甘く苦い香り。
「ひとに借りを作ったら、返すものだと思うんです。……ここにいても僕は何もしませんし、悪い条件ではないかと思うんですが」
「は、……はい、じゃ、あの、ええと……う、うん、はい……」
「交渉成立ですか?」
「はい……、ええと、はい……」
「そうですか。良かった」
「はい、……はい?」
「はい。宜しくお願いしますね」
 ニコリという微笑はいつも通り、私の心臓をピタリと止めるが、今回ばかりは心臓麻痺起こしている場合ではなかった。今、彼の唇は何て言葉を紡いだ? 怯えきって「はい」しか言えないくらいだったから、会話ログは相当曖昧だけど、確か「交渉成立」だの「宜しくお願いします」だの、そんな声が聞こえたような気がする。でもこれは混乱状態だ、正確な情報とは言えない。まるで英語長文で意味分かんない単語が出てきたときのような、ぽっかり空白の状態。こういうときはどうすればいいんだっけ……叩き込まれた受験ノウハウの引き出しをあちこち探し回って、見つけたカードの裏の言葉――分からない単語で詰まらず、とりあえず速読しろ。前後の文脈から、状況を掴んで意味を推測せよ。それだ!
 とりあえず、彼の言動を待って、この空白の穴を推測するのだ。身の危険だとは分かっているが、それでも何とか視線で彼を捉える。視界は相変わらず震えているし、瞬きのしすぎでドライアイになりそうだけど、それでも何とか見た、ぞ。自分で自分を鼓舞し続ける。偉いぞ私!
 幸い、彼はちょうど私に背を向け立ち上がり、開けた屋上の中央まで数歩足を進めているところだった。まどやかな春の微風に、彼の髪がそよと揺れる。下からそれを見上げるのは初めてで、こんなにもやさしい黄色に埋め尽くされるのか、まるで絵画の世界に閉じ込められたようだ。ぼんやりとその世界に圧倒されていると、不意に黄色が新体操のリボンのように、横へと舞う。彼が振り返ったのだった。反射的に硬直する私はどうやらその視界に入っているらしく、キュッと内臓が縮まる。だが、さっき彼が何と言ったのか。私はその大問を解かなければならないのだ。
「……、あの」
「……はひっ」
 情けない声である。
「僕は、普段ここにいますので。……お好きな場所にどうぞ」
 そう言って屋上の右端の隅で足を止めて微笑する彼。さあ、読解のための材料はこれで揃った。目を閉じて、頭の中にさっきの彼の言葉を文字に変換して、浮かべる。「ここ」とは。恐らく今彼が指し示した、屋上の右端の奥のことだろう。そのことを踏まえて考えると、「お好きな」の主語は私、そして「場所」は、屋上の中の場所のひとつ。よって、結論は。
 なんて、わざわざ噛み砕かないと分からないほど、私は馬鹿じゃない。勉強はずっと中の上の成績を取ってきたし、国語はその中でも得意分野だ。交渉成立も、宜しくお願いしますも、私の聞き間違いでも空耳でも妄想でもなく、ただの事実。イコール、私は一年間、昼休み45分間を彼と同じ空間で息をする。イコール、死。さようなら、最後の高校生活。
「……あの」
 屋上の隅で、鉄の柵に背中を預ける彼。春の風が、彼の長い前髪を揺らして遊んでいる。その奥で見え隠れする瞳の、おそろしいほどの赤色。そんな目元がふと、唇と一緒に笑った。
「……いつまで転んでるんですか」
「あ……」
 赤・黄色・緑の信号三つが脳内に並び、一個、二個、三個目が点灯したところで運動神経が繋がった。自分の状態とか、忘れてた。角度によればこれ確実にパンツ見える。急発進するみたいに、もはや記号でしか表せない悲鳴をあげながら立ち上がる私を笑った彼の指には、いつのまにか細い煙を吐き出す煙草が挟まれていた。

葬られた青春を拾う
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