absolute(形):絶対の。絶対的な。
英語の発音は、発音記号の読み方を覚える機会に覚え損ねたので電子辞書に言わせて覚える派だ。あぶそりゅーと。あぶそりゅーと。あぶそりゅ……あぶそる。アブソルは絶対カッコイイ。アブソルは絶対。アブソル、絶対。よし、これなら忘れない。6限の小テストもこれで一点は稼げる。多分。ついでにうろ覚えのアブソルを隅っこにらくがきして、完璧。
使い古して表紙はボロボロ、覚えられないページに開き癖のついてしまった単語帳。高校入学時に学校で買わされた奴だ。使い始めた当時は難しすぎて、自分には関係ないレベルのことばっかだと思っていたが、こうしてそれなりの大学を目指す者となってしまった今はそんな悠長なこと言ってる場合ではない。ピカチュウだのアブソルだの何だの言いながらでも覚えないと困るのは自分なのだ。
意気込む私と対照的に、彼は今日も相変わらず昼休みを悠々自適に眩しく過ごしている。あれから、ルート3だった私と彼の距離は1になった。それだけじゃない、心の距離――なんて言ったら漫画みたいだ――とにかく形容し難いのだけど、お互いいないものとして扱おうとしていたのが、お互いを認識した上でそこにいるという空気に変わったとでも言おうか。なんとなしに首を横に捻れば、彼がいる。彼もふと視線を横に流せば、私がいる。猫背を直そうとバキボキ体を捻っていると、彼がこちらを見ていたときもあった。少しずつ感覚も麻痺してきたとはいえ、目と目が合ったときのあの圧倒的な色彩と造形の美が飛び込んでくるのだけはどうしても慣れない。バキッ! ……。息が止まる。感覚が、視覚だけになる。彼は煙草から口を離すと、ひとつ、瞬きをする。それから口許にやわらかな微笑みを溶かす。
今日もそのパターンであった。普通に勉強と家族に連れ回されるだけで終わったゴールデンウィークを終え、季節は初夏。多くの男子生徒がそうであるように彼もブレザーやセーターを脱ぎ払い、ワイシャツを片腕だけ捲っている。春先には見えなかった露出である。彼は線が細そうに見えて、意外にも逞しい。私にはない、板状の筋肉が通っている。斜めからの光によるハイライトのおかげで、その作り物のように整った造形が強調されている。やはり、彼は神様の作り物だ。彼を作った神様と握手がしたい。あんたと私、最高に趣味合うね。
「大変そうですね」
「オギャッ」
「あはは、何が生まれたんですか」
強いて言うなら今笑われたことへの感動と羞恥だろうか。だがそんなことを言うわけにもいかないので、とりあえず単語帳に顔を押し付けて赤い頬を隠した。目から上だけ出して彼を覗くと、彼はくすくすと口元に軽く手を添え笑っていた。どうやら彼にしては相当笑っているのを堪えているらしい。それでも破顔とまではいかず、鏡の前で整えたままのような笑顔だから彼はやはり神様の作り物だと思った。
「た、……単語の小テストが、あるので……うう」
「すいません。そういえばそうでしたっけ」
「あ……グレード違うから多分ちがう、かと、」
「……そうでしたっけ」
いまいちよく分からないというように顎に手を添えて思索する様子の彼。この学校の英語の授業は二年のときから習熟度別の教室に分けられていて、私は二番目、彼は一番上のグレードにいる。だから英語の授業の時だけ、彼は隣の席ではなく隣のクラスにいる。おかげで英語だけ授業中の集中力が半端ない。ただし世界が灰色だが。
「……ああ、そうですね。いつもみょうじさんが隣にいる印象が強くて」
「あ……、私も、そうか、も……って、!?」
「また急にどうしました」
待て、待て待て待て!(こういう時に待てって言うのは大概オタクだと聞いたことがある。生粋のオタク気質はやめられない)単語帳が手からこぼれ落ち膝上のスカートにキャッチされる。おかげで隠していた赤い頬、しかも現在進行形で色が濃くなるのがばれてしまい、でも手は単語帳を持っていた顔の辺りで未だプルプル震えているし。彼はきょとんとした瞳で微笑んだまま、首を傾げる。結わえた髪がその仕草と同時にさらと靡いていた。そして、もう一度同じ、生涯で最も多く聞く言葉があの唇で紡がれる。
――みょうじさん。
名前、いつのまに知られていたのだろう。
「……あの、」
「はい」
「……意外と、周りのこと、見てるんですね……ぜんぜん、興味ないんだと思って、た……」
「いや、見てないから隣の人が変わってることにも気付いてないんだと、」
「ちが……っ!だってわ、わたしのっ、」
「あ、名前ですか。みょうじさんでしょう。みょうじ、なまえさん」
あああああまたサラッと言わないでほしい! あなたをこれだけ崇めて拝んで毎日日記に事細かにあなたの美しさを書いてるような穢らわしい奴の名を何故そんなファミレスのメニューの如くアッサリ言えるのか! 私なんかの名前を! また声にならない呻き声を上げて単語帳に顔を埋めた私を、彼は面白く感じたらしかった。なんと恐るべきことにこちらへと歩みを進めてきたのだ。だからといって逃げるわけにもいかず、私は最早震えながら彼を待つことしかできない。顔を合わせなければまだ大丈夫だから一生懸命に俯いてるけど、それでも気配はどうしても伝わってくる。隣に座ったらしい、熱い男の子の温度が、空気越しに腕へと伝わる。身を縮めて単語帳に夢中なふりをするけど、字は全く頭に入って来なかった。
「そういえば、僕の名前は知ってますか」
「え……え、」
逆に知らないと思われているんだろうか。ただ、口に出すのはあまりにも畏れ多くて、ばちが当たりそうな気がして、未だに彼の名を呼べないだけだ。まさか呼ばれた次は、呼べと言うの……? 恐々としながら横目で一瞬チラ見すると、期待するかのように柔らかな笑顔で彼はそこにいる。即視線を単語帳に飛ばし、ぐるぐる悶絶していると今度は「あ……すみません、覚えてませんよね」なんて少しトーンを落として言われてしまい。ドタバタ慌てて彼のほうを向いて正座して顔を上げると、そこにはさっき声から伝わってきた申し訳なさなんて全然ない。むしろ、余裕と多少の嘲りを口元に含んで笑っている。私の目を見て、体育座りをしていた彼は腰から上を少しだけ前に倒した。前髪が膝にかかって、ゆるやかなカーブを描いている。その仕草の意味を翻訳するならば、いつでもいいよ、待ってる、というところだろうか。この人、確信犯だった。私の複雑な感情を知った上で遊んでいるのだ。羞恥でカアアと顔が蒸気する。もう、こうなったらヤケクソだ。平泳ぎのときみたいな息継ぎを繰り返したあと、「知ってます!」と空まで響く大声を上げた。膝の上の拳が、震えている。
「……その、」
「はい」
「……、むりです」
「頑張ってください」
「そんな雑な……」
「頑張れみょうじさん」
「ああああもう!もう……!」
――ゆ、づきくん。
月を冠した、その名前。女性の名前にも間違われそうだけど、少なくとも私の中ではこの音の響きはそんな間違いが挟み込まれる間も無く彼の尊い微笑みを想起させる。柔らかい音の連続のあと、鋭く尖る最後の音。彼の名前をつけたひとは、きっと彼のそういう本質を見抜いて名付けたのだと思う。
ああもう絶対呪われる。地獄に落ちる。モーセの十戒のひとつを破ってしまったのだから。それなのに肝心の神様である彼は――ゆづきくんは、ありがとうございますとすこし低い位置から私を見上げ、赤い瞳を緩めてくる。余裕というか、どこか達観した雰囲気は変わらないのだけれど、それは教室にいるときのようなあからさまに作られた拒絶の笑顔ではなかった。嘘がなかったのだ。ほんものの、ほんとうに嬉しいときの笑顔だった。確信はない。ただの直感で、ただの錯覚に違いない。でもそういう客観性を押し退けるほど、私の神経は彼の奥のほうにあるほんとうに反応していた。
「……あの」
「はい」
「……もしかして、今日、ご機嫌ですか」
「そうかもしれないです」
照れたりせず、綺麗に整えられた笑顔をひとつも変えずにそう言うところが彼らしい。
「……あの」
「はい」
ご機嫌なら、少しだけ、話しかけても大丈夫だろうか。次の言葉を持つ彼の視線と表情に耐えきれなくて目線をふらつかせると、それは開いたままの単語帳と、端っこに描かれたアブソルのらくがきで止まった。
ひとつだけ、彼に聞いてみたいことがあった。ご機嫌なら彼には、重い話かもしれないけれど。意を決して、ようやく私から目を合わせることが出来た。ルビー色が、すこし意外という風に瞬きで星を零していた。
「あの、……卒業したら、どう、するの……ですか」
彼の結界から、一切漂わない「未来」「将来」の香り。煙草といい、なんといい、恐らく彼は刹那主義に近いのではないだろうか。そんな彼の、未来。何か大切なものを教われるような期待をしていたのだけれど、彼はきょとんと目を丸くしてから自分の顎を触り、そしてまたどことなくご機嫌な笑顔を作るとこう答えたのだ。
「あなたは、どうですか。みょうじさん」
「……! し、質問に質問は、ず、ずるい、」
「あなたが何かを得たいんでしょう。自分がどうすべきなのかの答えを。それなら、あなたの話を聞いたほうが早い。違いますか」
顎に触れていた親指と人差し指が離れコンクリートに降り立ったと思うと、私の単語帳にそっと触れた。アブソルのらくがき。つい癖で、塗りつぶす掛け網や影の斜線の入れ方がデッサンをやった人間独特のものになってしまっている。女子高生っぽいゆるふわデフォルメイラストにしておけば良かったと、今更になって後悔した。
彼は笑う。恥ずかしくなって俯いた。一体、どこまで知っているのだろう。親にも先生にも、全ての詳細を話したことはないのに、彼には何故全て見透かされているのだろう。不気味さで湧いた嫌な汗が背中のシャツをじめつかせる。けれど、もういっそ全て知られているのなら、これは私の言葉で今までのことを整理する良い機会なのかもしれない。今までのこと。地味で根暗で、誰にも言えずにいたこと。言うのも憚かるくらい、しようもないこと。
やはり今日の彼はご機嫌だ。いつもなら放っておくような無言の時間にも、私の様子を伺うように覗き込んでくるのがわかる。淡い色の髪がちらちらと視界の隅で揺れている。ならもう、彼のご機嫌に甘えてしまおう。すでに熱くなりかけた目尻を抑えて、私は初めて彼の前で微笑んだ。