物心ついたときから、気がつけば紙とペンを握っていた。
最初はただのぐるぐるだった。ぐぢゃぐぢゃ重なり合う円の、偶然できた隙間を同じような線で埋めていく。紙が真っ黒になって、鉛筆も真っ黒になって、手も真っ黒になった頃親が紙を変えなさいと言ってきて、泣き喚いていたらしい。
そのつぎは、ピカチュウ。この頃にはものの輪郭が分かってきたらしい。ぴょこんと両耳が生えた顔と、まあるいほっぺ。目も口もアンバランスで、まさに子供の絵って感じだ。ちなみにこれは親が何故か気に入ったらしく、ちいさな額縁に入って未だに下駄箱の上で私を見守ってくれている。苦痛だからやめてほしい。
そういえばその頃、私はクレヨンを買い与えられていたらしい。だからピカチュウのまるいほっぺだけ、赤く塗った跡が残っている。でもそれは、私が塗ったものではなく、親がお手本として私に教えようとしたときのものだ。当の私はクレヨンにも色鉛筆にもクーピーにも全く興味を持たず、ただ鉛筆やボールペンで幾何学模様を書き続けていたらしい。色盲かと疑われていたらしいけど、ちゃんと赤も緑も白もピンクも判別できる様子を見て、両親も娘が変な個性の持ち主だというを認めてくれたという。
こうして語るために自分の過去を振り返ると、ああ、確かに今の私に繋がっていると思う。今は部活に入っているし、油彩なんていう書いた線を塗りつぶすような技法にまで手を出してはいるが、やはり私が好きなのはペン画とか、ひたすら線を書き、線で表現することだ。線は、世界を区切る。それだけじゃつまらないけれど、その区切られた世界の中に、同じ線が無限の可能性を広げる。それは、こうして学生や社会人やいろいろな立場という線で区切られながらも、思想と想像の自由を認められたひとたちの姿に思えるのだ。
だから中学も高校も、当然のように美術部に来た。コミュ障を発揮したせいで友達はごく僅かだったが、逆にその「黙ってるくせに気持ち悪い絵を描き続けてる人」というレッテルのおかげで制作活動には物凄く集中できた。油絵と違って、ペン画は下を向いて書ける。だから余計な人の姿も入ってこない。でもやはり、はたから見れば変な人だ。普段は没個性を極めている私けれど、そこだけは、私の「変」という周りとのちいさな格差。それが誇りだった。ちいさな、あまりにもちっぽけな、プライドだった。
「……」
一息つくと、彼が単語帳のアブソルを見ていた。伏せた睫毛を線にするならば、どうやって表現しようか。目の周りの筋肉はおもしろい。漫画やアニメの可愛いイラストでは省略されてしまうだろうけど、彼を描くならば、できるだけ微細な筋肉も事細かに描いたほうが彼の美しさに近づける気がした。伏せた睫毛に乗った光は、点描で描ききれるだろうか……。そう思って注視していた睫毛がピクリと震え、持ち上がる。赤色にぞっとした。彼のお陰で、最近は色彩の怖さをつくづく思い知る。
「それで、続きは?」
「う、……」
将来は? と突然訊かれ出すのは、中学三年の頃だ。そもそも、将来という聞き方が悪い。職業は?という聞き方にしていたら、もう少し具体的なことを考えただろう。将来なんていう漠然とした言葉で考えても、なんとなくお絵描きしてなんとなく学生やってたい、という怠惰な答えしか出ないに決まってる。だからその通りの答えを当時の担任に伝えたら「じゃあ普通科高校受験だな、頑張れ」という至極平々凡々な答えを得ることになったし、私もそうなることを望んでいた。脇道に逸れるのは、怖かった。
結局美術部の栄えている第一志望は通らず、なんとなしにばらばら絵を描いてる第二希望のここに来たわけだけど、別に第一と第二の差はそんなになかったし、まあ絵を描くなんて個人作業なのだから最悪美術部なんてなくてもいい。それで、入学してからずっと。小学生時代から引き摺る微妙な優等生意識を満たす程度の成績を取りながら、私はひたすら部活に励んだ。ただ、好きな絵を描き続けていた。それだけだった。
将来は? というまた曖昧な言葉を聞かれるようになったのは、高校二年生の頃。頭の中ではスピッツ犬みたいな甲高い鳴き声で文句を騒いでいても、現実ではもにょもにょ俯きがちにどもる私に、当時の担任はこう言った。
「聞き方が悪かったな。大学進学は決まってるんだろう。なら、四年間自由な時間が手に入ったとくらい思っておけ。好きな勉強をするのが一番だ」
自由な時間。好きな勉強。もっとちゃんと考えろとか、入ったら変えられないとか、脅し文句を学年主任や進学資料から浴び続けノイローゼだった高校二年生の私には、中年教師の適当さが妙に新鮮だった。やりたいこと、いちばんやっていて後悔がない、好きなことってなんだろう。
答えには、さして悩まなかった。
ただし、覚悟は必要だった。はじめて、脇道に逸れるのだ。普通という、退屈だけどこれ以上ない安寧を飛び出さなくてはならないのだ。そこでようやく、ほんとうの意味で「将来」を考えたのだと思う。結果、絵を描いて生きていくしかないのだという結論に至った。医者に救われた人が医者になるように、絵を描くことに救われた私は絵描きになるしかないのだ。そういえば当時は、自己実現という言葉が私の中のブームだった。自己実現をするには、私は、絵を描くしかないのだ。職業にするということの険しさ厳しさも残酷さも、分かっているつもりだった。それでも頑張る根性は、幾つか制作を続ける中で養われているつもりだった。才能が足りなかったとしても、私は頑張ることができるのだから、絶対足掻いてみせる。そんな、よく分からない希望論が当時の私を占める主流であった。
親に土下座をした。莫大な費用が掛かるのは、自分の努力でもどうにもならないものだ。アルバイトが出来たら良かったけど、不幸なことにうちはバイト禁止の高校だった。芸術の道の厳しさも散々説かれた。それでもどうか、一生掛けてこの借金を返済するから。その根気にまず母が折れて、父も渋々という形で首を縦に振ってくれた。
担任にも相談した。顧問の先生にも相談した。信頼できる友達にも相談した。そうするうちに、周りからは「この子は美大志望」という私の像が固められていくのをひしひしと感じた。それを、望んでいた。自分一人だけの欲望では逃げ出してしまう気がしたからだ。事実それで私は踏み出し始めていた。顧問から改めてデッサンの基礎を学んだ。まだ無茶苦茶だけど、筋はあると言われた。展示会に行っても、見る目が変わっていた。この絵はどこが評価されているのか、どういう特徴が挙げられるのか、どういう技法を使えばこういう絵が描けるのか。苦手な色彩も、少しずつ複雑味を増してきた。そうして、気がつけば高校二年の十一月。それは、文化祭の二日目でのことだった。