沈黙と秋

ぷつんと糸が切れたように、突然その日はやってきた。

声が出なくなった。
風邪を引いたわけでもないのに話そうとしても空気が通り抜けるだけで音が出てこない。
自分で声が出ないことに気がついたのは朝起きて、ベッドの上で欠伸をした時だった。いつもの癖で欠伸の後に声を出そうとして違和感に気付いた。思わず片手で喉を押さえる。とくに痛みもないし、なぜ声が出ないのかわからない。意識して声を出そうとしてもヒューっと空気が通り抜けただけだった。
まずい。これでは仕事にならない。慌てて枕元のスマホを手に取り、スケジュールを確認する。幸いにも裁判の予定は二週間後まで入っていなかった。依頼人との打合せも来週まで入っていない。
示し合わせたように、仕事に支障のないタイミングで声を失った自分の喉にほっとするやら呆れるやら。でもやっぱり不安が勝った。なんで声が出ないんだろう。

「赤峰さん? 時間ですよ…って起きてるじゃないですか」
しばらくベッドに腰掛けて呆然としていると、時間になっても起きてこない僕を心配して緋山さんが寝室のドアから顔を出した。起きてベッドに座っているのに喉を押さえたまま一言も発さない僕に緋山さんが近づいてくる。
「どうしたんですか? 具合でも悪いんですか」
心配そうに顔を覗き込まれたので首を振る。説明しようとしてやっぱり声が出ない。仕方ないのでスマホのメモに打ち込む。
―声が出ないんです
それだけ打ち込んでスマホの画面を緋山さんに見せる。彼は不思議そうに画面を覗き込んで書いてあることを確認するとますます心配そうな表情になった。
「え? 喉が痛くてですか?」
緋山さんからの問いかけに首を振る。
―起きたら声が出なくて
もう一度スマホで打ち込んで画面を見せる。緋山さんは少し考え込んだあと、僕の腕を引いた。
「とりあえず朝ごはん食べましょう」
いつもより優しい声色で僕を気遣ってくれているのが伝わってきて、少しだけ不安が和らいだ。

「検査結果ですが、とくにこれといった異常はなかったのでおそらく精神的なものですね」
寝起きで声が出ないだけかも、と一瞬思ったが午後になっても一向に声が出ない僕を見かねて緋山さんに病院へ連れてこられた。一通りの検査を終えて医者から身体的にはとくに異常なしでストレスだろうと言われてしまった。ゆっくり休むように言われたものの、根本的な解決方法が得られずがっかりする。
待合室にいる緋山さんの元へ戻り、隣に座る。
「原因わかりました?」
問いかけに首を振ってスマホに文字を打ち込む。
―とくに異常なしでたぶんストレスだって言われました
スマホを覗き込んで内容を確認すると緋山さんは困ったような表情になってしまった。
「そうですか…それなら帰ってゆっくり休みましょう」
程なくして名前が呼ばれたので会計をして、病院をあとにした。

ちょっとゆっくり休めばすぐに声も出るようになるだろう。そんな楽観的な僕の考え方とは裏腹に三日経っても声は出なかった。事務所にかかってきた電話は緋山さんが取ってくれるし、自分の携帯にかかってきた電話にはチャットやメールで返したりして声が出なくてもとくに問題が無いように躱していたが、とうとう紫ノ宮さんから打合せがしたいと連絡が来てしまった。
「明墨先生のところの皆さんには言っておいた方がいいんじゃないですか?」
あまり大事にしたくなくて緋山さん以外、僕の声が出なくなったことを知らない。でも流石にこれ以上は無理か、と諦めて紫ノ宮さんに声が出ないことを伝えた。紫ノ宮さんに返信のメールを送ってすぐに事務所の電話が鳴る。
「はい、赤峰法律事務所です…あ、紫ノ宮さん」
案の定、電話をかけてきたのは紫ノ宮さんのようで緋山さんが事情を説明している。
「はい、今日で三日目で…明墨先生にですか?」
おそらく先生に伝えて良いかということだろう、僕の方をちらりと見た緋山さんに頷く。
「大丈夫です。仕事は普通にしてるので電話以外であれば打合せもできるかと」
こんなに元気なのに声だけ出ないのが不思議でならない。最近はそんな難しい案件もなかったしストレスもかかっていなかったような気がするのだけど。私生活も安定していて、緋山さんとの関係も良好そのものだ。原因が思い当たらなくてどうしようもない状況に焦りが生まれて来た。このまま声が出なくなったらどうしよう。
「紫ノ宮さん、すごく心配されてましたよ」
電話を切った緋山さんがそう伝えてくれた。すぐに紫ノ宮さんからメールが返って来て、打合せはまだ急がないから声が出るようになったら教えて欲しいと書いてあった。
声、出るようになるんだろうか。不安になって声を出そうと挑戦してみるがやっぱり空気が喉を通り抜けるだけで声は出なかった。そんな僕の様子に気がついたのか緋山さんが立ち上がって僕の後ろに立つと、そっと優しく抱き締めてくれる。
「無理しないでください。赤峰さんの声が出なくても、俺は側にいますから」
優しいその言葉に胸がきゅっと締め付けられる。それでも不安が拭えなくて、パソコンに文字を打ち込む。
―ずっと出なくても?
振り返ると僕の打ち込んだ言葉を確認した緋山さんが泣きそうな顔で笑った。
「当たり前じゃないですか」
さっきよりもぎゅっと強く抱き締められて、その腕の暖かさに安心する。
「その時は田舎でのんびり暮らしましょう。俺の地元、何もないけど空気は綺麗だし良いとこですよ」
ぽん、と僕の肩を叩いて自分のデスクに戻った緋山さんは穏やかに笑った。

声が出なくなってから五日経った。今日も何とか仕事を終えて、部屋に戻る。いつも通り緋山さんの手料理を食べて、ゆっくりお風呂にも入った。こんなにリラックスしてるというのに何で声は出ないのか。緋山さんが入れてくれた入浴剤の香りのおかげでとくに今日はリラックスできている気がする。
いつもうるさくしている僕が静かなことをはじめは不思議がっていた愛犬のモカだが、何日も自分の名前はおろか声を発しない僕に気付いて最近は心配そうに寄り添ってくれる。今もソファに座る僕の膝に顔を乗せて、時々僕の様子を伺っている。
スマホの検索欄はどうやったら声を取り戻せるか、関連のワードで検索履歴が並んでいる。
「赤峰さん、もう寝ましょう」
お風呂からあがった緋山さんが側までやってきて、僕のスマホを没収した。開きっぱなしだった検索画面を見て、一瞬表情が曇ったがすぐに僕の手を引いて寝室へ向かう。
「明日はお休みなので散歩にでも行きましょうか。ついでに食料品の買い出しもしないと」
いつもは僕が誘わないと一緒に寝てくれないのに、声が出なくなってからは何も言わず毎日一緒に寝てくれる緋山さん。すぐ隣に感じる体温にほっとする。提案された明日の予定に頷いて、緋山さんの唇に触れるだけのキスを贈った。口パクで『すきです』と伝えて、もう一度キスをする。
「俺も好きですよ」
目を瞑ると緋山さんはおまじないのようにおでこにキスをしてくれた。

「すっかり秋ですね」
翌日の午前中、散歩兼買い出しに出かけると外の空気はすっかり秋だった。この間までの暑さはようやく落ち着いて、過ごしやすい気温だ。ちなみに今朝も起きてすぐに試してみたが、やっぱり声は出なかった。
最近買い物はもっぱら車で行っていたけど、今日はのんびりとスーパーまで二人で歩いて向かう。足りなくなった食材と秋らしい果物を少し買って、家までの道のりを少し遠回りしながら歩いた。
「この気温ならもう昼間にモカの散歩しても大丈夫そう」
夏場は地面が熱くなってしまうからと、早朝と夜遅くに行っていた愛犬の散歩も時間を選ばすに行けそうだ。何なら今も連れてきてあげればよかったな。
「モカのこと置いてきちゃったからあとでもう一回散歩ですね」
考えていることが一緒で何だか嬉しくなりながらそう言って振り返った緋山さんに頷く。
僕より少し先を歩いていた緋山さんがちょうど信号が青に変わった横断歩道を渡ろうとした時、トラックが勢いよく左折してきた。そのまま横断歩道を渡ろうとする緋山さんと勢いよく曲がってくるトラックがスローモーションのように僕の視界で再生される。
「っ! 緋山さん!」
咄嗟に彼の腕を引いて、自分の方へ引き寄せた。
間一髪、彼のすぐ横を通っていったトラックにほっと胸を撫で下ろす。勢いよく引っ張ったから彼の持っていた買い物袋からりんごが一つ落ちて、地面をころころと転がっていった。
「危ないな。どこ見てたんだあのトラック…緋山さん、大丈夫ですか?」
転がったりんごを拾って緋山さんのところに戻ると彼が泣きそうな顔で僕を見ていた。
「えっ? どこか痛いですか?」
避けたと思ったけどトラックが掠ったのかも、何て考えていると緋山さんが持っていた買い物袋を地面にどさりと落として抱きついてきた。
「声…! 出たじゃないですか…!」
そこでようやく自分の声が出ていることに気がついた。
「あっ、ほんとだ…!」
「ほんとだ、じゃないですよ…よかった…っ!」
呑気に自分の喉に手をあてる僕に緋山さんは泣きながら呆れていた。自分よりも緋山さんのほうがずっと心配してくれていたんだとわかって胸がぎゅっと締め付けられる。
「心配かけてすみません」
しばらく喋っていなかったからか、心なしか掠れてはいるが一度出てしまえば問題なく発声できるようになった。
「本当に良かった……」
彼の背中に腕を回してぎゅっと抱き締め返す。
「最初に発した言葉が緋山さんって…愛の力ですかね?」
もう大丈夫だから、とあえて明るくそう言えば緋山さんは僕を抱き締めていた腕を緩めて呆れていた。目尻に残った涙を僕のシャツの袖でそっと拭う。
「本当に心配したんですからね。もう赤峰さんの声を聞けないんじゃないかって……」
「僕も不安でしたけど…でも緋山さんが側にいてくれたんで」
このまま声が出なくても、一緒に居てくれると言ってくれたから。声が出ない不安に押し潰されずに済んだ。
「支えてくれてありがとうございます。…ずっと一緒にいたらまたこんなことがあるかもしれないけど、その時も見捨てないでくれますか?」
ずるい質問だとわかりながら、まだ涙できらきらと光る彼の瞳をじっと見つめる。
「当たり前じゃないですか。赤峰さんこそ、俺のこと捨てないでくださいね」
ようやく笑ってくれた彼に安心して、地面に落ちた買い物袋を拾い上げる。
「さて、それじゃあ帰りますか! 明日から打合せ三昧だ〜」
「まずはモカのこと、呼んであげてくださいね」
「しばらく離してもらえなさそう……」
「そりゃあそうですよ。モカも赤峰さんがずっとだんまりで心配してたんですから」
溜まった仕事からはとりあえず目を逸らして、まずは愛犬と思う存分遊ぶことにしよう。
「緋山さん」
「はい?」
突然立ち止まった僕に合わせて足を止めて、不思議そうに返事をした彼の手を取る。
「好きです」
「どうしたんですか突然」
突然の告白に少し照れながら困惑する彼を他所に、僕はいちいちスマホに打ち込まなくても伝えられる言葉に感動していた。
「言いたくなっただけです!」
繋いだ手をそのままに家までのあと少しの道のりをご機嫌で帰った。

声が出ないだけでこんなに不便になるとは思ってもみなかった。それでも周りからの愛を感じて、決して無駄な時間ではなかったのだと今になって感じる。自分一人で何でも出来るようになったような気がしていたけれど、全然そんなことはなくて。色んな人の支えや、そして愛する一人と一匹がいつも側にいてくれるから僕は頑張れるのだと、改めて実感した六日間だった。





COMIC CITY ONLINE -240922-にてWEB公開していた作品の再録です。