桃の節句

「ちらし寿司?珍しいですね」
今日は定時で上がってくださいね、と緋山さんに念を押されたので残業せずに家に戻るとテーブルには彩豊かなちらし寿司が並んでいた。
「今日はひなまつりですよ」
そう言われてやっと納得した。馴染みがないからあまり気にしたことがなかったというのが本音だ。
「うちにはモカという女の子がいますからね」
緋山さんは今日のために買っていたらしい犬用のケーキを冷蔵庫から取り出してモカを呼んだ。普段とは違う食べ物を貰えると気がついてモカは緋山さんの足元をうろうろする。
「お座り。待て。…よし」
きちんと緋山さんの言う事を聞いてケーキを貰ったモカは嬉しそうに、口の周りにケーキがつくのもおかまいなしに食べている。
「かわいいケーキですね。ひなまつり仕様なんですか?」
「いえ。ただピンクのやつを選んだだけです」
見た目が薄いピンクで可愛らしかったのでひなまつり用なのかと思ったが流石に違ったみたいだ。
「赤峰さんのもちゃんと買ってきたので安心してください」
「本当ですか?やった!」
甘いものを食べ過ぎると体に悪いと緋山さんに叱られるので最近控えめにしていたから嬉しい。
「ご飯食べてからにしてくださいね」
「わかってますよ。せっかく緋山さんが作ってくれたんだし」
すぐにケーキを食べ終えたモカの口周りをウェットティッシュで拭いてあげてから食卓について、いただきますと手を合わせる。
「ちらし寿司なんて久しぶりです」
「たしかになかなか食べることないですよね」
今朝の番組でちらし寿司が紹介されていて作りたくなったらしい。海鮮ものっていて豪華だ。
「ん、おいしいです!」
「よかった。といってもちらし寿司のもとを混ぜただけですけどね」
そうは言うものの錦糸卵は綺麗に細く切られているし手間はかかっているだろう。
「緋山さんってけっこうイベントごと、好きですよね」
バレンタインのことを思い出しながら何の気なしにそう口にすると緋山さんは気まずそうに目を逸らした。
「俺が好きというか、赤峰さんが好きそうだなって思って……」
一瞬何を言われたかわからずフリーズする。じわじわと意味を理解して思わず箸を置いて顔を手で覆った。
「え、赤峰さん?」
突然の僕の行動に戸惑った声が聞こえてくるが、僕は今緋山さんからの愛を噛み締めるので忙しい。少しして視界を塞いでいた手を外すと心配そうな表情の緋山さんが目に入った。
「そんなふうに考えてくれてたんですね、嬉しいです」
素直な気持ちを伝えると彼はようやくほっとした表情を見せた。
「僕も緋山さんと同じです。一人ならイベントなんてそこまで興味なかったですけど、緋山さんとだから一つ一つ思い出に加えていきたいです」
テーブルの上に置かれていた手をそっと握ると緋山さんは照れくさそうに笑った。本当はこのまま抱きしめたいけどまずはせっかく彼が作ってくれたご飯を平らげてからだ。
「デザート、ケーキじゃなくて緋山さんがいいなぁ」
「何言ってるんですか」
ちらし寿司を食べながらそう呟くと緋山さんは呆れ顔で笑った。僕は大真面目なのに。
先にちらし寿司を食べ終わった緋山さんが食器を持って立ち上がる。
「仕方ないので今日はどっちも食べていいですよ」
そう言い残してキッチンへと向かった彼にまたしても箸が止まる。
「…え!」
一拍遅れて思わず立ち上がった僕に、食後のおやすみタイムに入っていたモカがなんだなんだと起き上がって僕の足元までやってきた。
「はぁ、反則でしょ」
普段は控えめなのに時々こうして爆弾を落としてくるから、いつまで経っても僕は振り回されっぱなしだ。
愛犬を撫でながらこのあとの甘いひとときへ期待を巡らせて、口元が緩むのを抑えられなかった。