恋よりも暖かい

冬の寒さに澄み渡る空気。周りに明かりのないこの家からは星が良く見える。

縁側から夜空を見上げて星座を探していると、背後からにゃあと可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。少しだけ開いた戸の隙間から顔を出した彼女がもう寝るよと言わんばかりにこちらを見ている。

「ごめん、今行くよ」

俺と彼女だけの家はひどく静かだった。

刑期を終えて出所した俺を待っていたのは明墨先生だった。

「お久しぶりです、緋山さん」

立ち話もなんだからと誘われた喫茶店で世間話をしたあと、先生がこう切り出した。

「今日は緋山さんにお願いがあって来ました」

先生にそう言われると昔を思い出して身構えてしまう。そんな俺を見て先生は緊張しなくても大丈夫だと笑った。以前より少し雰囲気が柔らかくなった気がする。

「実は知り合いの教授が助手を探していてね。ただ場所が悪くてなかなか見つからないそうなんです」

仕事が見つかるまでの間で構わないからその人の手伝いをしてやって欲しいと頼まれ、出所後の身の振り方についてまだ考えていなかった俺は二つ返事で了承した。

明墨先生の知り合いというその人は有名大学の名誉教授で、今も大学で時々講義をしているらしい。それでもほとんど引退している状態で今は都内から少し離れた田舎の一軒家で研究を続けているという。大学教授なんて気難しいイメージがあり、上手くやれるだろうかと心配だったが杞憂だった。出迎えてくれた教授は穏やかで、明墨先生が俺の境遇を包み隠さず説明するとかえって同情してくれて、研究の手伝いをして欲しいと頼まれた。研究の手伝いとは言っても俺に専門的なことがわかるはずもないので、やるのは教授の指示通りに資料を分類したり、書庫を整理したりと主に雑用だ。

始めの頃は近くに部屋を借りて通いで手伝いをしていたが、やがて空き部屋があるからとそこに住むことを提案された。多くない給料の大半を家賃に持っていかれていたのでありがたくその申し出を受けて、住み込みで働くこととなった。

この頃にはもう彼のことを親しみを込めて先生と呼び、彼の飼い猫である10歳の雌猫・ナオにもようやくシャーと威嚇されなくなった。

「先生、休憩にしませんか」

温かいお茶と街の小さな和菓子店で買って来た先生の好物である最中をテーブルに並べる。分厚い資料とにらめっこしていた先生はぱっと顔を上げて表情を緩めた。

「緋山くんが来てくれてから調子がいいよ」

「先生、放っておいたら休憩もせずにずっと研究しているからですよ」

研究に没頭し始めると平気で食事も忘れてしまうのが常だったらしい。今は俺がいるので強制的に朝昼晩の食事に加えて三時のおやつと健康的な生活が続いている。

「料理も上手だしお嫁に行かれたら困るな」

「俺は男ですよ。行くなら婿でしょう」

俺のことを息子のようにかわいがってくれる先生はそう冗談を言って笑った。両親をすでに亡くした俺にとって先生は親のようでもあった。親孝行できなかった罪滅ぼしとして、先生が快適に暮らせるよう尽くしている。

先生には娘さんがいて、近くの街で暮らしているから時々この家にも顔を出す。先生に似て穏やかで温かい人だ。しかし高齢の先生のことは心配なようで来る度に一緒に暮らさないかと提案しているのを知っている。

 最近は庭の畑で野菜を作ってみたりなんかして、さらに充実した日々を送っていた。先生の方も研究をまとめた本を出版するらしく、毎日その原稿と向き合っていた。

秋から冬へ季節は移り変わり気温も下がり始めた頃、先生の原稿も締切が近づき、少しだけ家の空気がピリついていた。俺は先生が執筆に集中できるよう、静かに家事や資料整理をしていた。そんなある日、珍しくお客さんがやってきた。

呼び鈴が鳴り、夕飯を作っていた手を止めて玄関へ向かう。昼過ぎに郵便はもう来ていたから配達の類ではないだろう。近所の人が何かおすそ分けに来てくれたのだろうか。考えを巡らせながら玄関の扉を開けるとそこには懐かしい人がいた。

「突然すみません」

申し訳なさそうな表情でそこに立っていたのは、明墨法律事務所の弁護士・赤峰さんだった。

「赤峰さん!」

驚いて思わず大きな声を出してしまった。何事かとナオがにゃーんと鳴きながら廊下を走ってきた。

「あ、とりあえずどうぞ」

声を落として、ナオが外に出ないよう赤峰さんを玄関に入れて扉を閉める。突然、知らない人がやってきたのでナオが赤峰さんにシャーと威嚇している。

「こら、ダメだよ」

毛を逆立てている彼女を抱き上げて宥める。

少しだけ俺に撫でられたあと、ナオはするりと俺の腕を抜け出して部屋に戻っていった。

「かわいい猫ですね」

「先生の…ここの家の教授の飼い猫なんです」

警戒心の強い子だからきっともう顔を出さないだろう。知らない人が来るとだいたい遠くから様子を窺っていることが多い。

「それで、急にどうされたんですか?」

赤峰さんと最後に会ったのは裁判の時だったはず。先生から俺のことを聞いたのだろうか。

「近くの街まで仕事で来たので緋山さんの顔を見ようと思って…でもお忙しそうなのでもう帰りますね」

夕飯の支度中だったのでエプロンを身につけたままだった俺を見て赤峰さんは苦笑した。

「すみません、ちょうど夕飯を作っていて」

「いえ、急に来た僕が悪いので。よろしければ連絡先を教えてくれませんか? また改めて来ます」

「はい。ちょっと待っててください」

急いでスマホを取りに行き、赤峰さんと連絡先を交換する。

「ではまた」

「はい。連絡待ってます」

玄関で赤峰さんを見送って振り返ると、先生が書斎から顔を覗かせていた。

「誰か来たのかい?」

「明墨先生のところの弁護士さんが。昔お世話になって」

「おや、帰してしまってよかったのかい?」

原稿の進捗が良いのか先生はそのまま部屋から出てくる。

「ちょうど夕飯を作っているところだったので…また改めて来るそうです」

「来週以降なら私も落ち着いているだろうから、呼んであげなさい」

「わかりました」

今週が執筆作業の華僑らしい。台所に戻った俺の手元を覗き込む先生にちょうど出来上がったばかりの煮物を少しだけ味見させてあげた。

次の週、赤峰さんは本当にやってきた。先生を赤峰さんにも紹介して、用意した茶菓子を食べながらのんびりと過ごす。ナオは赤峰さんが来て早々シャーと威嚇して隠れてしまった。俺が来たばかりの頃もそうだったから仕方ない。

「緋山くんは手先が器用で家事全般やってくれるし料理上手だから助かってるよ」

いつも作るのはたいした料理じゃないが、先生は亡くなった奥さんの手料理を思い出すと喜んで食べてくれる。

「いいなぁ、僕なんて外食ばっかりですよ」

「良かったら今日夕飯食べていきなさい。と言っても作るのは緋山くんだから緋山くんがよければ、だけど」

「二人分も三人分もそんなに変わらないから大丈夫ですよ。赤峰さん時間は大丈夫ですか?」

「はい。明日も休みなので」

「じゃあ夕飯食べて行ってください」

普段先生と二人きりだから食卓が賑やかなのは大歓迎だ。

いつもより少しだけ張り切って夕飯を作ると赤峰さんは食卓を見て目を輝かせた。

「うわ、すごい。緋山さんって料理上手だったんですね」

「緋山くん、和食も上手だから助かってるよ」

「今は何でもネットで調べられますから。見よう見まねです」

「本当に美味しいです! 外食だと味が濃いものが多いから出汁が沁みる…これを毎日食べているなんて先生羨ましいです」

「はっはっはっ、赤峰くんも遠慮せず遊びに来なさい」

「作るのは俺なんですけどね」

得意げな先生と、また食べに来ますと意気込んでいる赤峰さんに苦笑する。少し作りすぎたかと思ったおかずも赤峰さんがいるおかげで綺麗になくなった。

「実は少し心配していたんです、緋山さんのこと」

食後にお茶を飲んでいると赤峰さんがぽつりと呟いた。

「でも安心しました。昔より笑顔も多いし」

「あの時は必死だったので」

「お仕事も合っているみたいですし、良かったです」

すっかり遅くなってしまったので赤峰さんはそのまま泊っていくことになった。客間は火を入れていないから寒いということで俺の部屋に布団を並べて敷く。

「何から何まですみません」

「久しぶりのお客さんで先生も嬉しかったんだと思います」

赤峰さんには俺の部屋着を貸したけど、ラフな格好が見慣れなくて新鮮だ。電気を消して布団に入る。

「寒くないですか?」

「はい。大丈夫です」

夜は冷え込むから布団を蹴ってしまうと夜中に目が覚める。

「こんな田舎までわざわざありがとうございます」

先週は仕事だったと言っていたが今日はこのためだけにここまで来てくれたのだろう。最後に会ったのは随分と前なのに気にかけてくれるなんて真面目な人だ。

「緋山さんがどうしているか気になってしまって。明墨先生にも様子を見てきて欲しいと頼まれたんです」

「明墨先生には感謝してもしきれません。せっかく出所したのに路頭に迷うところでしたから」

家族もいない俺は出所したからといって行くところなんてなかった。ここでの暮らしは穏やかで、贅沢はできないけれど俺には十分すぎる。もう少しお金が貯まったら、俺が傷つけてしまった人たちへきちんと償いもしようと考えている。

「本当にまた、ご飯食べにきていいですか?」

暗い部屋に少し慣れた目で赤峰さんの方を見ると彼もこちらを見ていた。目があったのでこくりと頷く。

「ぜひ。ただ、こっちは雪もけっこう降るみたいなので気を付けてくださいね」

「じゃあ緋山さんのご飯食べるために頑張って来ます」

その言葉通り、赤峰さんはそれから幾度かこの家を訪れた。

山の方で初雪が降って、もうすぐこの辺りも雪が降る。

そんな気温がぐっと下がったある日、買い物から戻ると先生のものではない靴が玄関に並んでいた。

「戻りましたー。先生、お客さんですか?」

居間へ行くとそこでは先生と赤峰さんが将棋を指していた。

「赤峰さんでしたか」

「あ、緋山さん! おかえりなさい!」

すっかりこの家に馴染んでいる赤峰さんが顔を上げて笑いかけてくれる。

「おかえり。今なかなかいい勝負なんだよ」

「赤峰さん、将棋得意なんですか?」

買って来た食材を台所に置いて、盤上を覗き込む。俺もたまに先生に誘われて指すことはあるけど、俺には難しすぎる。

「いえ。小さい頃に祖父と少しやったくらいですよ」

「それでこれならなかなか筋がいい。いや、緋山くんの定石を無視した豪快な手も嫌いじゃないがね」

「それ、バカにしてますよね」

「いやいや本当のことだよ! 何事も新たな発見がなくては面白くないからね」

「はぁ」

そんな俺と先生のやりとりを見て、赤峰さんはおかしそうに笑っていた。

「赤峰さん、昼まだですよね?」

「はい! ご馳走になるつもりで来ました!」

びし、と敬礼をする素直な彼に思わず笑ってしまう。

「じゃあ二人でゆっくり将棋指しててください」

すっかりこの家に馴染んでいる赤峰さん。先生も俺と二人の時より心なしか明るい気がする。この穏やかな時間がいつまでも続けばいいのに、そう願わずにはいられなかった。しかし、そう上手くはいかないのが人生である。

ちらちらと雪の降るある日、先生が倒れた。持病が悪化して自宅で倒れた先生。すぐに救急車を呼んで、幸いにも命には別状がないとのことだった。それでも入院を余儀無くされて、年末年始は家に帰られないと告げられた。

「緋山くんが作ったおせち食べたかったんだけどね」

「そんなのいつでも作りますから。まずは元気になって帰って来てください」

入院先の病室でベッドの横に置かれた小さな丸椅子に座る。

倒れた時はどうなることかと思ったけど、こうしていると元気そうで安心した。でも先生は少し困ったような表情を見せる。

「それが、娘たちに一緒に暮らさないかと言われてね」

「そうですか……」

以前から娘さんは先生のことを気にかけていた。俺は知らなかったけど、持病のこともあったのだろう。

「ずっと断っていたんだけど、今回の入院でとうとう私も強く断れなくて」

ここを退院してからしばらくは娘さんの家で療養することになったらしい。

「でもできればあの家に戻りたいから、家の管理とナオの世話を頼めるかい?」

申し訳なさそうにする先生の手を握って強く頷く。

「もちろんです!」

「ありがとう。…すまないね」

「何言ってるんですか。それに、俺には他に帰る場所なんてないんです。だから先生はゆっくり治療に専念してください」

俺の言葉に先生は少しだけ悲しそうに笑った。

その後、改めて娘さんにも家の管理と猫の世話を頼まれて俺はそれまで通り先生の自宅で生活をしている。先生が入院したばかりの頃、ナオは先生の帰りを待ってじっと玄関を見つめていることもあったけど一週間もすると先生が帰ってこないことを理解したのか、俺に甘えてくるようになった。

「二人きりになっちゃったね」

居間でいつも先生が座っていた椅子に座ると、ナオが膝に乗ってきた。静かだ。それに一人だと寒さが堪える。

一頻り俺に撫でられて満足したのか、ナオは俺の上から飛び降りるとストーブの前で丸くなった。先生に持って来て欲しいと頼まれた本でも探しておこうかと廊下に出たところで玄関の呼び鈴が鳴る。そのまま扉を開けるとそこには赤峰さんが立っていた。

「赤峰さん」

彼と明墨先生には教授が入院したと連絡してあったから、しばらくは来ないものだと思っていたので少し驚く。

「突然すみません。お邪魔してもいいですか?」

もちろん、と頷いて彼を居間に案内する。ナオもすっかり赤峰さんに慣れたので彼が来ても、ちらりと見るだけですぐにまたストーブの前で丸くなる。そんな彼女を赤峰さんは少しだけ撫でて俺に向き直った。

「先生、持病があったんですね」

「そうなんです。俺も知らなくて…でも今はもう体調も安定していて元気そうですよ」

「そっか、よかった…!」

赤峰さんは少しだけ表情を緩めた。

「緋山さんは変わらずここに?」

「はい。家の管理とナオのことを頼まれたので」

先生が戻るまで留守を頼まれたことを伝えると赤峰さんは少しだけ考えて口を開く。

「じゃあ僕も変わらず、ご飯食べに来ますね」

誰かと暮らすことに慣れてしまうと、一人での食事は味気なく感じてしまっていたから願ってもない申し出だった。

「ぜひ、いつでも来てください」

いつでも歓迎だと伝えると彼は嬉しそうに笑った。

その後、今日は様子を見に来ただけだからと赤峰さんはコーヒーだけ飲んで立ち上がった。

「コーヒーご馳走様でした」

今日は夕飯を一緒に食べていってくれないのか、と落胆する。でもここから都内へは時間もかかる。平日だし赤峰さんは明日も仕事だろう。

「緋山さん?」

ぐるぐるとそんなことを考えていると赤峰さんが心配そうな表情で俺の顔を覗き込んだ。

「あ、すみません。カップもらいます」

赤峰さんからカップを受け取って、誤魔化すようにそれを流しへ持って行く。そのまま玄関へ向かった赤峰さんの後ろ姿を追いかけた。

「それじゃあまた来ますね」

「…はい」

帰らないで欲しい。そんなの俺の我儘だ。急に寒くなったから気持ちも落ち込んでいるだけだろう。笑顔を取り繕って彼を見送った。赤峰さんもそんな俺に何も言わず、玄関から出る。

でも数歩だけ歩いてくるりとこちらを振り返った。

「年末年始! 僕、何も予定ないんです」

「え?」

突然の話題に首を傾げる。そんな俺のところに戻って来て、赤峰さんが笑った。

「だから、泊まりに来てもいいですか?」

広いこの家に一人きり。そのことに寂しさを感じている俺に気づいたのかもしれない。気を遣わせてしまった申し訳なさと、それ以上に彼の優しさが嬉しかった。

「ご馳走作って待ってますね」

今度はちゃんと笑えていたと思う。

仕事を納めた赤峰さんは大きな荷物を持ってやってきた。

赤峰さんが来るまでには全て済ませておこうと思っていた大掃除が全然終わっていなかったので、結局彼に手伝ってもらいながら家を隅々まで綺麗にした。

大掃除に疲れて居間にあるソファの上で寝転ぶ彼の上にはナオが乗り、一人と一匹はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。起こすのも忍びなかったけど、毛布もかけずに寝ているから風邪を引いても大変だしと理由をつけて彼を起こす。

「赤峰さん、ご飯できましたよ」

肩を叩くと彼は眠そうに目を擦りながら身体を起こした。同時にナオも起きて彼の上から逃げていく。

「すみません、いつのまにか寝てました」

「いえ。むしろ手伝わせてしまってすみません」

「お腹を減らした方がご飯も美味しく感じますから!」

そうじゃなくても緋山さんのご飯は美味しいけど、と笑った赤峰さんが普段より幼く見えた。

夕食を終えて、風呂にも入りそろそろ眠くなって来た。赤峰さんには客間を用意していたのだけど、暖房費も勿体無いからといつかのように俺の部屋で一緒に寝ることになった。先生が入院してから俺と一緒に寝るようになったナオもついてくる。

「ナオ、今日は僕と一緒に寝ない?」

先に布団に入った赤峰さんが布団をめくってナオを呼ぶが、彼女は知らんぷりだ。結局電気を消して俺が布団へ潜り込むと彼女は俺の布団に一緒に入って来た。

「ちぇ、だめかー」

「けっこう赤峰さんにも慣れたと思うんですけどね」

「最初はめちゃくちゃ威嚇されてましたからね! それを思えばだいぶ距離縮まったと思うんだけどなー」

彼女に振られた赤峰さんは拗ねたまま目を閉じた。その後ややもすると隣から寝息が聞こえてくる。すぐ側に彼がいる安心感に包まれながら俺も意識を手放した。

目の前に赤が広がる。拭っても拭っても、手についた赤が取れない。これは人を殺した瞬間の記憶だ。

飛び起きると、寒い室内に反してびっしょりと汗をかいていた。いきなり飛び起きた俺に驚いてナオが布団から飛び出して行く。そのまま隣で眠る赤峰さんの首元から無理やり彼の布団に潜り込んでいった。

「ん、ナオ?」

赤峰さんが起きてしまう。それまでに悪夢のせいで乱れた呼吸を落ち着けないと。焦れば焦るほど呼吸が乱れて、息の仕方がわからなくなる。ひゅーひゅーと乱れた呼吸に喉が鳴った。

「緋山さん?」

異変に気づいた赤峰さんが起き上がって隣に座る。

「緋山さん、落ち着いて。深呼吸を」

背中を撫でながら呼びかけてくれるが、一度こうなってしまうとパニックで何もわからなくなる。この家に住み始めてからは過呼吸になったことがなかったから完全に油断していた。応急処置に使えそうな袋の類はこの部屋になかった。

「何か、」

赤峰さんがきょろきょろと辺りを探してくれているが、彼の布団を敷くためにちょうど片付けをしたところだったから余計なものがこの部屋にはない。

「すみません緋山さん」

赤峰さんが切羽詰まった表情で俺の顔を覗き込んだ。そしてそのまま唇を塞がれる。

「っ!」

驚いて一瞬呼吸が止まる。そのまま呼吸をコントロールするかのように彼の唇が離れてはくっついてを繰り返す。それを何度か繰り返しているうちに俺の呼吸は落ち着いていった。

「すみません、これ以外思いつかなくて」

目尻を伝った涙を彼の指が拭ってくれた。過呼吸のせいでごっそり体力を持って行かれて、隣に座る赤峰さんに凭れ掛かる。

そんな俺を引き寄せて、赤峰さんは俺を落ち着かせるように抱きしめてくれた。彼の体温にほっとする。

落ち着いてきたら汗が冷えて部屋の寒さを感じる。

「さむい」

呟きながら赤峰さんの背中に腕を回す。すると赤峰さんは俺を抱きしめたまま布団に寝転んだ。どさり、とそのまま俺も一緒に倒れ込む。

「二人で寝れば暖かいですよ」

赤峰さんがそっと俺の頭を撫でてくれてほっと息をつく。

「ほら、ナオもおいで」

赤峰さんが布団を捲りながら呼ぶとナオもやってきた。そのまま二人と一匹、狭い布団で身体を寄せ合って眠りについた。

「ん、…っ!」

翌朝、目が覚めると目の前に赤峰さんの顔があって驚く。でもすぐに昨夜の記憶が蘇って、見苦しいところを見せてしまったと落ち込んだ。先に起きていたナオに朝ごはんの催促をされたので赤峰さんを起こさないようにそっと布団から出る。

今日は大晦日だ。夕飯は二人でしゃぶしゃぶにしようと決めていたから、朝食はあっさりとしたものを用意する。味噌汁を作って最後に味見をしようと、一口分だけよそった小皿に唇をつけたところで赤峰さんの唇の感触を思い出してしまった。

「あつっ」

動揺して一気に味噌汁を飲んでしまい思わず叫ぶ。軽く火傷をしたような気がする。

一人、台所でバタバタとしていると赤峰さんが起きてきた。

「おはようございます。ちょうど朝ごはんできましたよ」

意識していつも通りにそう声をかけると赤峰さんは安心したように微笑んだ。

「おはようございます。良い匂い」

「今並べますから少し待っていてください」

定位置に座った赤峰さんは欠伸を一つ溢したあと、ぐっと伸びをしていた。誰かのいる食卓はこんなにも安心するものだっただろうか。

大掃除は昨日で終わっていたから夕方までごろごろして過ごした。そうしてお腹が減ってきた頃にしゃぶしゃぶの準備を始める。高そうなお肉は赤峰さんがふるさと納税で頼んだものを持って来てくれた。

「一年おつかれさまでした」

「おつかれさまでした」

二人で乾杯する。程よくサシの入ったお肉は口の中でとろけるようだ。

「今年は緋山さんとも再会できたし、良い年でした」

「俺も、まさか赤峰さんや明墨先生と再会できるとは思いませんでした」

俺にとっては唯一、自分を弁護してくれた法律事務所の先生たちだが彼らにとって俺は数多いる依頼人の一人にすぎない。それでもこうして気にかけてもらえて、こんなふうに一緒にご飯を食べてくれるだなんて想像もしていなかったことだ。

用意した食材をあらかた食べ終えたので言うタイミングを失っていた話題を口にする。

「それから、今朝のこと…すみません」

箸を置いた俺を見て赤峰さんは首を振った。

「なんで謝るんですか。驚きはしましたけど…もしかしてずっと?」

「いえ。ここに来てからは落ち着いていたんですけど」

「その前はよくなっていたんですか?」

「…はい。悪夢を見るんです。人を殺した瞬間の」

誰にも言ったことはなかった。服役中は過呼吸の発作を起こしてもすぐに刑務官が飛んできたし、僅かにあった一人暮らしの期間は寝る時常に枕元にビニール袋を用意していたから大事には至らなかった。ここへ住むようになってからは一度も起きていなかったからもう克服したと思っていた。

「カウンセリングとかは受けたことありますか?」

「いえ。そんなに頻繁に起こるわけでもなかったので」

加害者向けのカウンセリングがあることも知っていたがどうしても行く気にはなれなかった。そんな俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、赤峰さんがテーブルの上で固く握りしめていた拳の上からそっと俺の手を握ってくれた。

「そうですか。僕でよければいつでも相談してください。話を聞くことくらいしかできませんが」

もう何度も彼に救われていた。この広い家は一人で過ごすには広すぎる。

「…そうだ。年が明けたら初日の出、見に行きましょう!」

「え?」

「今夜は晴れみたいですし、きっと綺麗に見えますよ」

突然の申し出に驚いたが、ちょうど歩ける距離に見晴らしの良い丘があったはずだ。

「それなら近くの丘まで行ってみましょう。歩いて10分くらいだと思います」

「いいですね! 今日は早く寝ないと」

年越し蕎麦を食べて、テレビのカウントダウンを見る。あっという間に新年はやってきた。挨拶もそこそこに初日の出を見に行くために早々に寝ることにした。

いつも通り布団を敷いて電気を消すと、布団に入って上半身だけ起こしている赤峰さんに腕を引かれた。

「緋山さん、今日寒くないですか」

僕、寒いです。彼の言葉に甘えて手を引かれるまま彼の布団に入ろうとした瞬間、部屋の外からにゃーん! と抗議をするような鳴き声が聞こえた。

「あ、ごめんナオ」

部屋に入れてあげるのをすっかり忘れていた。扉を開けると隙間からするりと彼女が入ってくる。そしてそのまま赤峰さんの布団に潜り込むと早くと言わんばかりに俺を呼んだ。

「ほら、ナオも寒いって」

赤峰さんが優しく微笑んでいるのが暗闇でもわかった。ナオを潰さないように微妙な隙間をあけて赤峰さんの布団に入る。俺が寝転んだのを確認すると赤峰さんがそっと布団をかけてくれた。

「これなら寒くないですね」

暖かな体温に包まれてすぐに意識は遠のいていった。

控えめな音量でアラームが鳴る。それをすぐに止めて時間を確認すると6時だった。アラームに気づかず眠っている赤峰さんの肩を揺する。

「赤峰さん、もう6時です」

「ぅん」

ゆっくりと赤峰さんが目を開けた。けどすぐまた閉じて俺の肩に顔を埋めた。

「も、すこしだけ」

すり、と甘えるように額を擦り付ける彼に絆されそうになるが初日の出を見たいと言ったのは彼だ。

「日、出ちゃいますよ」

ぐりぐりとあえて雑に頭を撫で回すと赤峰さんが顔を上げた。寝ぼけ眼の赤峰さんと目が合う。

「おはようございます」

思ったより寝起きの悪い彼が可愛くて思わず笑ってしまう。

「あれ、ひやまさん…おはようございます」

ようやく覚醒し始めた赤峰さんは眠そうに目を擦った。

「急がないと初日の出見られませんよ」

「そうだ、初日の出……」

布団から出た俺たちを見て、ナオがご飯かとそわそわし始めたので先にご飯をあげておく。きっと外は寒いだろうから暖かめの服に着替えた。顔を洗ってコートを着る頃にはすっかり赤峰さんも目が覚めたようだった。

「それでは行きましょう!」

玄関の鍵を閉めて、張り切る赤峰さんを追いかける。

「うわぁ! すごい!」

少し家を出るのが遅くなってしまったから丘に着いた時にはもう太陽が昇り始めていた。思った通り、見晴らしの良いこの丘は朝日がよく見えた。少し先に公園になっている展望台があるから皆そっちの方へ行ったのか、ここには俺たち二人きりだ。

「綺麗ですね」

こんなふうにわざわざ早起きをして初日の出を見たことがなかったから素直に感動した。どこまでも続く自然を前に、自分の悩みなどちっぽけなものに思えてくる。

二人とも言葉もなく、見事な朝焼けに見惚れた。

しばらくそうしていたら、だんだんと辺りも明るくなってきた。日が昇り、新しい一年が始まる。そろそろ帰ろうか、そう思って赤峰さんの方を見た瞬間強い風が丘を吹き抜けた。

「さむっ」

思わず肩を竦める。すると隣にいた赤峰さんが一歩近づいて、俺の手を握った。

「僕、緋山さんのことが好きなんだと思います」

突然の告白に驚いて、握られた手に力が入る。

「緋山さんが寒がっていたら温めてあげたいし、悲しんでいたら寄り添っていたい。そして幸せな瞬間を一緒に過ごしたい」

繋いだ手を解いた彼は俺の肩に両手を置いて、至近距離で見つめ合う。真剣な眼差しから目が逸らせなかった。逸る鼓動がうるさい。

「俺、男ですよ」

「僕も自分で少し戸惑ってます。でも緋山さんだから一緒に歩いていきたい、そう思ったんです」

自分も、当然赤峰さんも恋愛対象は女性だと思っていた。でも俺を見つめるその眼差しには確かに愛が含まれているように思えた。そしてさっきからうるさいこの鼓動も。彼を求めている証拠なのだろう。

「俺は、人殺しだし自分の罪に縛られて勝手に苦しんでいる弱い人間です」

俺の肩を掴む手に力が入った。その片方に自分の手を重ねて彼が何か言う前に続ける。

「それでも、赤峰さんの隣にいていいんですか?」

真っ直ぐに見つめ返すと彼は少し驚いたように目を見開いたあと、ふにゃりと笑った。

「いてください」

ぎゅ、と力強く抱きしめられる。

「雪が溶けるまで、いや溶けても僕が緋山さんを温めますから」

その言葉通り、触れた唇は俺よりも体温が高くて俺の心に巣食う不安を緩やかに溶かしていった。

「「先生おかえりなさい!」」

「ふふ、ただいま」

春を待つ花の上に積もる雪がようやく溶けた頃、先生が家に戻って来た。久しぶりの主人の帰還にナオも喜び、喉を鳴らしながら先生の足に擦り寄っている。

久しぶりに帰って来た先生ために、張り切ってごちそうを作っている緋山さんが忙しなく台所を行き来しているのを眺めながら先生と居間で将棋を指す。

「この家、手放してしまうんですね」

「もう古いからね。ずっと娘にも心配をかけていたし」

一旦戻った先生だがこの家はもう手放すことにしたらしい。とは言っても研究は続けるみたいで、まずはこの大量にある本を整理しなければと苦笑していた。

「こんなボロ屋でもあの子の居場所になるならと思って意地でも戻ろうと思ってたんだけどね」

そう言って緋山さんを見つめる先生の眼差しはまるで親のようだった。

「でももう大丈夫だね。彼のこと、よろしく頼むよ赤峰くん」

「へ?」

全てわかっているような先生の言い方に変な汗が出てくる。

「おや、てっきりそういうことだと思っていたんだけど」

すっかり元気になった先生の攻めに次の手を考えあぐねていると、まるでしっかりしろと言わんばかりにさっきまで寝ていたはずのナオが尻尾で俺の腕をぱしりと叩いた。思わず居直り、背筋を伸ばす。

「緋山さんのことは僕が支えます」

まるで結婚の挨拶のようだ。ドキドキする心臓を必死に落ち着ける。先生はそんな俺の言葉を聞いて満足そうに頷いた。

「頼んだよ。彼は寒がりだからね」

賛同するようにナオがにゃあと一言鳴いた。そしてタイミングよく台所から緋山さんが僕たちを呼ぶ声が聞こえてくる。

「ご飯できましたよー」

僕と先生は同時に立ち上がり、ご馳走が待つ食卓へ急いだ。



超COMIC CITY ONLINE -250113-にて公開していた作品の再録です。