賑わう夜の酒屋で、二人は飲んでいた。かたや麗しの軍師として名高い郭祭酒、かたや女性の身で無名から己の腕一本で名を挙げた名前。本能入り乱れる酒屋においてもその二名がまとう空気は喧騒たるものではなく、さながら親友の邸で酒を交わす静謐さを持っていた。
「やはりあなたと交わす酒は格別だね。どんな悩みも飛んでしまうよ」
荀ケにより推挙され、曹操の歓心を一身に浴びる男・郭嘉が笑みを崩して言う。熱された酒を注がれた小さい器を呷った名前が、それに対して視線を持ち上げた。
「郭嘉殿ほどの方が苦悩ですか」
泰然たる姿勢に滲む驚愕に、郭嘉は努めて穏やかに目蓋を伏せて言った。
「私とて頭を悩ませることはあるよ。軍師だからね」
「と言うと、施策が思いつかないので?」
「施策、そうかもしれない。厳密に言えば少し違うのだけど」
「郭嘉殿にわからなかったら誰もわからないでしょう」
「―――いや、そうでもないよ。私の悩みに対する解を持っている人が居る。一人だけ、ね」
「その方に乞うてみては?」
しかし郭嘉は曖昧に微笑むだけで否とも是とも言わない。酒を呷る手がここで止まる。数多の戦場を駆けて尚健勝な名前の食指が、盛り付けられた天心へと伸ばされる。湯気をくゆらすそれに触れる寸前のところで、差し向かいから伸びた手のひらに掬われてしまう。武勇を誇る将と比べれば細く、智勇を誇る将と比べて無骨な指が手の内を撫で、名前の指股に自身の指を通した。手へ縫い付けられた視線が上へと滑り、含みのある笑みに目を細める郭嘉と視線が重なる。
「素直にあなたを求めれば、あなたは応じてくれるのかな?」
なるほど、これは数ある女性が魅了してやむなしだ、と名前は思った。穏やかな春風を想起させる雰囲気、風に煽られて自由に舞う肩巾のごとき気性、身分の差異に関わらず丁寧かつ親しみやすい物腰。誰も彼もが己の立身に燃え盛る中、彼のような人間は周囲の好意を集めてもなんら不思議ではない。名前は内心そう思い、ふっと相好を緩める。
「応じるも何もこの身は郭祭酒殿に捧げた身。いかようにもお使いくだされよ」
名前は元は在野で生きる身だった。主君と定める曹操の覇道に共感し麾下に入り、郭嘉に就いて以降というもの、郭嘉の並外れた賢才と慧眼に敬服した。今後も彼の望むまますべてに応じたいと思うほどに。しかし名前の解を聞いても尚、郭嘉の顔色に変化はなかった。
「……あなたには敵いそうにないな」
悲しみを薄ら含んだ笑みを浮かべ、己の手をそっと引く。名前のことを郭嘉は大いに評価し信頼していた。女という贔屓目を除いても並み居る武将に劣らない名前の腕は、郭嘉の策を広がらせた。郭嘉自身が自覚する難題でも悠々に応えてみせ、かつ飾らぬ気性は郭嘉に公私共に影響をもたらした。数々の美姫と浮名を流す彼が唯一手を出せない女性、それが名前なのだ。しかし同様に手を出せないからこそ、それに苛まれてもいた。肌に触れて言葉を重ねても、名前の真意が何処にあるか掴めなかった。信頼に応じるからこそ逆に疑心を抱いてしまう矛盾した自身を、郭嘉は持て余していた。名前はそんな内面は露も知らぬだろう。それでいい、と郭嘉は思う。暴いても双方に益はないだろうから。
敵わない人