梅花が開き、香りが風に淡く運ばれてくる。見上げた空は薄らと雲が泳ぎ、透き通った水面を映したように晴れていた。ささぁ、と柔らかな風が吹いて辺りから草のさざめきが聞こえてくる。うららかな下午にあやされ、ふと目を瞑る。目蓋の薄い膜に滲む暖かな陽光が、胸裡の底にしまっていた懐かしい記憶を呼び起こした。明るい髪色と彼女のさっぱりした気性を表すような短い髪、緑の双眸は芽吹いた若草を想起させ、浮かべる笑顔は燦々と照る太陽のよう。孫家の姫という高貴な生まれにも関わらず、貧富の差をまるで意に介さず誰にでも気さくに接し、常に周りに人を作るような女性だった。おおらかで意外と好戦的、というのが自分から彼女へ抱く人物像。私が呉に入ったばかりの頃。傭兵として雇っていた家から暇を言い渡され、途方に暮れていたところを彼女に拾われた。衣食住を提供してもらう身としては給金まで受け取る気はなかったが、彼女は頑として譲らなかったし、護衛なら私の我儘を聞いてよね、という彼女の強い押しに根負けした。風変わりな姫だ、と酒席で言った私の言葉に彼女は嫌な顔を見せるどころか笑い飛ばして、それが私なの、と言い放った。呉に、ひいては彼女に出会えてよかったと常思った。願わくば一生を隣で遂げたいと思ったが、それは叶わなかった。先だって彼女は呉を出た。傍らに劉備という愛する夫を伴って。着いていこうとした自分に、あなたの力で私の家族を守って、と強く頼まれては折れるしかない。彼女の傍で遂げる願いは叶わなかったので、せめて彼女の願いは叶えてあげることにした。
「―――お幸せに。姫様」
持っていた酒杯を掲げ、らしくない言葉を漏らす。ここには自分しか居ないのだし、相手が天の神様とやらなら尚更いい。あなたの幸せを孫呉の地からひっそり願わせてもらいますよ。
目を閉じれば
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