「これで私は帰れる……」
蝋燭の灯火が握った短剣に宿る。つるりとした鉄製の表面が鈍く光り、剣先が赤く染る。血に見えて一瞬凍るが、かぶりを振って気を持ち直した。隣には無防備に寝顔を晒している夫の姿。普段見る鎧はなく、薄い布をまとっているのみ。命を奪うことは難しいことじゃない。今なら簡単に殺せる。本来の主から下されたのは、孫呉の将・呂蒙を討てというもの。智将を失った孫呉を崩すのは容易いこと。ゆえに今ここで彼を討たなければ、今までの労力がすべて無に帰してしまう。やらなきゃ帰る家を失ってしまう。それだけは嫌。帰る場所が戦火に散っていく様はもう見たくない。―――そう思うのに体はぴくりとも動かない。硬直する様は、まるで見えない壁に阻まれているかのよう。
「それほど辛いなら捨ててしまえ」
「起きてっ……!?」
驚いて牀を飛び降りようとした私の手首を、彼は素早く掴んで動きを制した。拍子に短剣を落としてしまい、同時に絶望する。彼に知られてしまった。そのことだけが頭の中を占め、全身が熱を失う。しかし彼が次にとった行動は、一瞬にして私を困惑へと叩きつける。
「安心しろ、お前を殺したりなどせぬ。愛して娶った妻をどうして失えよう」
「なっ―――」
がつんと殴られたような衝撃が、胸中の霧を薙ぎ払う。何かを言わねばならないのに、できたのはただ口を開閉させることだけ。衣擦れを起こした肢体が岩のごとく鍛えられた胸板に押し当てられ、薄い布越しに伝わる拍動が鼓膜を叩いた。
「お前の帰るべき家はここだ。お前の帰りを待つ俺が居る、この呉だ」
「子明、様……」
押さえつけられる腕のなんと力強いことか。手首を掴まえた時は死を覚悟したのに、その腕に抱かれてこれほど歓喜してはもはや偽ろうこともできなかった。愛してしまったのだ、この男を。孫呉の名将としてでも敵としてでもなく、一人の男として、彼にすべてを捧げたいと願った。同様に剣を捨てたいと思ってしまった。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい……っ」
はらはらとこぼれる涙もそのままに、彼の首に腕を回した。名実共に彼のものになってしまいたい、そう願って。
おさえた首元