自分の主・太史慈殿に向かって放った言葉。
「ふうん……。あなたが孫策様が直々に招じ入れた太史慈ね。確かに孫策様の目に適うだけの風体はあるわ。―――けど驕らないで。孫策様に認められている将は大勢居るの。あなたはその一人に過ぎないわ。降将が人心を集めたいのなら精々二心なく励むことね」
呉の統治者である孫策殿を傍らに、孫家の牙と名高い名前殿が冷然かつ歯に衣を着せぬ言い方で、みなの前で堂々太史慈殿を非難した。主君である孫策殿に窘められるのも取り合わず、ただ一言。
「私は認めておりませんもの」
まさに凍った長江のごとき眼差しだった。
―――そんなのも今となっては昔のこと。江東の地で幾度の春節を迎えても、自分の忠を約するのは変わらず太史慈殿ただお一人。すっかり呉の名将として数えられている彼に今日も師事する。そこへたまさか通りかかった名前殿が彼に絡んだ。
「ふん。呉の将を自負しておきながらその体たらく。あなた、随分腕が鈍ったんじゃなくって?」
突然やってきてあんまりな言い草だ。堪りかねて一言言ってやろうと口を開くと同時に。
「何。三下の兵卒風情がこの私に意見しようってわけ?」
散らした怒りさえ凍ってしまうほど、厳とした物言いと威圧だった。
「やめろ」
「しかし太史慈殿……!」
「いいんだ。彼女の言い分は一理ある」
「先だっての戦で孫策殿自ら報奨を下賜された太史慈殿に限って、そのようなことあるはずがございません!」
「へえ。黙って聞いていれば随分食ってかかるじゃない。躾のなってない駄犬は、飼い主に泥をかぶせていることすら気づかないのね。呆れるわ」
つくづくこちらを虚仮にする物言いに、たとえおのが主に止められたとしても我慢の限界を迎える。しかし一足先に動いたのは太史慈殿だった。
「忠告痛み入る。貴殿の言をしかと受け止め、いっそう奮励しよう」
折り目正しく揖礼する太史慈殿に、名前殿はつまらなそうな顔をする。
「わかればいいのよ。あと、それの躾はきちんとしておいて」
くい、と顎を軽く上げて自分を指す。首肯してみせた太史慈殿に満足したようで、顔を背けてすたすたと歩いていった。立ち去った後、抱えていた不満が自ずと口を突いた。
「何なんですかあの人!太史慈殿にかような無礼を働くなんて!」
「そう憤るな。彼女は今まで孫呉を支えてきた名将の一人、比べたら俺はまだ新参者だ」
「太史慈殿は謙遜し過ぎです!今やこの地にあなたを軽んじる者は、幼子に至るまで一人もおりません!それにあなたは、我々兵卒の中でも俊傑として名高い将です。もっと威厳を持ってがつんと言ってくださらねば、我々の溜飲は溜まる一方です」
「お前は言葉が上手いな。文官でも身内に居たのか?」
「太史慈殿!」
自分の言葉に、彼は快快とした笑い声を上げる。孫家に歓待されて幾年の歳月が経とうというのに、未だあの女将は太史慈殿に礼を失する態度で接する。場所問わず蔑むものだからいくら力量で登用されたといえど、彼女への世評は厳しいものが多い。宮中は排斥したいと目論む者ばかり。彼女の態度はそんな只中に置いても尚、善くなる兆しは見られない。だが自分も彼女のことは嫌いなので、早々に己が主君と仰ぐ孫策殿から暇を出されればよいと常思っている。
「きっと太史慈殿を妬んでるんですよ。自分が孫策殿の腹心の将だと驕っていたところに、太史慈殿が現れたのが許せないんでしょう。なんと傲慢な」
「……そうかもしれんな」
「そうに決まってます。なんだって孫策殿はあの女将を傍に置き続けているのか、ほとほと理解に苦しみます」
「そうか?孫策殿が彼女を手元に置きたがる理由、俺もわかるぞ」
その回答はあまりに意外なものだったので、つい彼を仰ぐ。衝撃は有り体に発露していたんだろう。太史慈殿は自分を見て苦笑した。
「あれはああ見えて存外可愛いところがあるからな」
言葉を失う。放たれた言葉の裏をかく前に、太史慈殿が武器を持って身を翻した。
「た、太史慈殿……!何処へ!」
はっと我に返った自分が慌てて呼び止める。それに彼は振り返らず腕を軽く上げて見せた。
「太医令のところだ」
太医令とは宮廷に設けられた府だ。そこには数々の名医が駐在している。何故そんな場所へ、という問いかけはついぞできなかったが、脳裏に深く刻まれたのは彼女を褒める時の太史慈殿の横顔だった。彼女が消えた方角を見つめた彼は、何処か嬉しそうに見えたのだ。
彼が笑う理由