自分は丁奉様に雇われた邸の守衛である。邸の外に立ち、家人への訪いがあれば報せに走り、不審な輩を中へ入れず、邸と邸に住まう者を守るのが勤めである。夜番の奴と交代して数刻。下午を回ると昼食を摂り、わずかに気の緩みが生じる。異常がなければただ立っているので、舟を漕ぎそうになる。―――そんな時。
「そこな守衛。ちょっと」
いかにも自分を呼んでいる声がし、ぶんぶん当たりを見渡す。しかしそれらしき人物が居ないため、きっと午睡の余韻だったんだろうと切り替え、前を見据えた刹那。突然の浮遊感に手にしていた長柄を落としてしまい、地面に尻餅つく。何事、と目を剥く自分を上から覗き込む影が一つ。
「邸の主人が声を掛けているのに無視はいい度胸ね」
「はっ、太太!?す、すみません!気づきませんでした!」
「……あんたが言うと嫌味にしか聞こえないわね」
声の正体は丁奉様の太太である名前様だった。不機嫌そうに眉根を寄せる彼女に、再度慌てて謝る。門塀を守護するのは二人。片方が教えてくれても、と思ってそれとなく横を見ると、彼はがっつり舟を漕いでいた。なんだあいつ。拳骨食らわせたいところだが、今は太太の方が優先だ。気づかないという自分の言は何も午睡のせいだからではなく、他の要因として太太自身の体格の小ささにもある。一見すれば十一の幼子と思われても仕方ない背丈と、あどけない麗姿。長身である自分の耳には声しか届かなかったというわけである。
「申し訳ありません、太太。何がご用ですか?」
「あるから呼んだのよ。あんた暇でしょ、使い走りを頼むわ。夫にこれを渡してきて」
言って、手渡されたのは提盒だった。中身が相当数詰まっているのか、提盒はずっしりと重い。
「あの。太太がお渡しになれば丁奉様もきっとお喜びになるのでは?」
「いいこと、守衛。こんな見てくれでも日々やらねばならぬことが多いの。ましてや夫が呉の将軍となれば勤めは激増。それこそ忘れた提盒を届ける暇がないくらいにね」
「…………、失礼ですが太太」
「何よ」
「もしかして恥ずかしいんですか?」
この通り、太太は余人に足下を見られぬよう気を張るお人だ。一方、夫の丁奉様は雄々しい見た目に反して中身は意外と繊細で、妻である太太にはよく花や月といったものを用いた詩を贈っている。満更なく付き合う太太だが、丁奉様のそれは時に過剰とも呼べる褒め方をするので、両者の気性を深く知っているこちらは常に気がそぞろとなってしまうのだ。
「守衛」
「は、はい!」
長い沈黙の末に呼ばれ、びくりと肩が跳ねる。
「戻ってきたら鞭打ち百回ね」
顔を上げた太太は、それはそれは天女もかくやの笑みを浮かべていて、瞬く間に全身が凍った。前言撤回することもなく謝る余地も与えられず、門が無慈悲にぱたんと閉じられる。中へと去っていく間際に見えた彼女の耳が、これ以上ないほど赤かったことだけは確かに目に焼き付けた。俺、死んだな。
好きなのにね