一疋の猫が眼下で斃れた。骨という骨が浮かび上がり、野生特有の眼光はなく、口から漏れ出る声は蚊のそれと大差ない。控えていた一人の女官が今にも泣き出しそうな声で言った。
「何か拭く物をお持ちします」
「お湯を」
「粥をここへ」
続いて複数人の女官が動く。ひらひらと衣をなびかせて奔走する様を他人事のように眺めながら、再び目を落とした。猫が一疋。飢えている。きっと食糧にありつけない日々を送ったんだろう。にぃ、とこぼれた鳴き声は断末魔か悲鳴か。
「ご安心ください、劉禅様。今太医に診せましょう。きっと快癒されます」
最初に動いた女官が声をかける。悲痛な面持ちが緩やかに溶けて、安堵を垣間見せる笑みを浮かべている。そこで初めて、自分が心配していると思われてることに気づいた。
「助けねばならぬのか?」
口にして、部屋の空気が凍ったことに気づく。今しがた自分に声をかけた女官の笑みがひきつり、同様に他の者らも少なからず内心の衝撃の一端を露わにしている。ああ、またやってしまった。そこへ凛とした声が割り入る。
「―――何をやっているのです。あなたたちに課された仕事はまだ終わっておりませんよ」
前を囲む人波を割るようにして現れるのは、乳母である名前だった。衣をしきたり通りにきちんと着込み、最低限の飾りのみを身につけ、堂々歩いてくる様は自分より威厳にあふれ、知らぬ者が見れば主かと思うことだろう。生きた年数の苦難を刻んだ顔が、震える女官たちを射抜く。
「猫への餌は私がやります」
「し、しかし……」
「言い分は己の仕事を片付けた後に聞きます。行きなさい」
おそるおそる言い出した女官をぴしゃりと切り捨て、女官らは恐れを露わにしながらも頷いて静々と部屋を出ていった。羸弱した猫と、粥を持つ名前と、自分だけが残る。粥を唐突に差し出される。
「公嗣様がお与えになってください」
余人が居ない時にのみ名前は字名を呼ばう。過去に自分がそう頼んだからだ。湯気が揺蕩う粥を見下ろし、困惑を滲ませた。
「私なんかより名前があげた方がきっと猫も喜ぶだろう」
「どちらが与えても猫は食べますよ」
「尚のこと私では駄目だ。食べさせ方を知らぬ」
「少し掬って匙を向ければいいだけのことです」
「しかしだな……」
「あなたがやるのですよ、公嗣様」
言い切られては従う他ない。渋々それを受け取り、横たふ猫へ近づく。ほくほくと温かい粥を一杯掬って匙を口元へ運んでやる。すると、どうだろう。生気が枯れた猫の目が一閃を放ったではないか。剣が放つ一瞬の煌めきに似た光にはっと息を呑むと、一心不乱に粥を貪る。にぃ、と弱々しく鳴いた猫の面影はなく、そこには生きることを欲する獣が居た。ふと影に飲まれ、隣に彼女がしゃがみ込む。
「たとえ苦しくても生きることに貪欲なものも居るのです」
「…………大変だなぁ」
「ええ。大変ですとも」
同調した声音に先程の剣呑はなく、あるのは穏やかに染み入るものだった。ふいに頭を撫でられる。自分の幼名を呼ばう頃と重なり、肩が緩む。静謐な部屋の中、猫の咀嚼音だけが響いた。
ふたりぼっち