忌まわしい声が通り風のように耳朶を掠めた刹那、声の方を振り返ることなく駆け出していた。
「遅い遅い!そんなんじゃ捕まえちまうぜ?」
「よい、っしょ……!」
「あっ、木の上に逃げるなんざ卑怯だぞ!」
「別に走って逃げるなんて約してない」
交差する木の枝を足場にして魔の手から逃れる。周倉と名乗った男は常人を逸するほどの健脚を持っていて、かの韋駄天の名を冠するだけあった。そんな男に目をつけられて二年。言い寄る彼から逃げる生活を送っている。故郷を出、知らぬ場所を転々しながら窮地を脱しているのだが、直に捕まらないだけで逃げている感覚はまったくしない。なんだか、見つからない期間はわざと逃がされているんじゃないかと勘繰ってしまうほど。
「もういい加減脚を止めて俺を受け入れた方がいいんじゃねえの?」
「……私髭ある人嫌い」
「そうか?威厳あってかっこいいぜ?」
「口の軽い男は嫌」
「自分に素直なんだよ。お前を想うと口が止まらねえんだ。この脚のように」
「暑苦しい人も嫌い」
「多少暑い方が寒い冬暖めてやれるだろ?」
「……口の減らない男」
「頑固な女にわかってもらうにはこれくらいしないとな」
何度突き放しても、彼は何処吹く風とばかりに距離を詰めてくる。嫌だと拒んでるのに、男はお前がいいんだとか、そんなところが好きだとか、聞いてもない御託を並べて機嫌を取ろうとする。この男に絆されるわけ、ないのに。
「―――痛っ」
草木を掻き分けて走っていた音がぴたりと止まる。木の上で脚を止め、肩越しに一瞥した。己の下腿を抑え、上体を丸めている。立ち上がることなく擦っていたので、道中枝にでも切られたんじゃないかと予想した。まさか毒を持つ茸に触れたか、と思って腰を浮かせた直後。聞こえたのは息を吐き出す失笑だった。ふるふると肩を振動させ、彼が顔を上げる。喜色満面の笑みだった。
「心配したな?」
一瞬目を丸くした後、みるみる体の熱が上がっていく。
「やっぱりあんたなんか大嫌い!馬鹿!!」
思わず殴り飛ばしたくなる笑いを湛える彼から、今日も逃げる私であった。
大人しく降参して