馬岱

馬岱視点





「駄目だよ、逃げたら。これはきみがやらないといけないことなんだから」

鋭利な刃物を握らせ、顎を掴む。振りほどこうと藻掻くのを抑えて、眼下に横たう体を見させる。

「ほら、今なら彼は起きない。これを彼の胸に押し込むだけできみは晴れて自由の身だよ」

懇々と言い聞かせれば、彼女の指に僅かな力が入る。弱々しく震えていた細い指が得物の柄を一周し、空中で固定される。自分の腕を離しても持っていられるように。

「深く息を吸って吐いて。そう、その調子。大丈夫、俺が居るから」

とん、と軽く肩を押してやると縫いつけられた脚が進み出す。ゆっくりと、しかし着実に近づく。だいじょうぶ、と自分に言い聞かせるか細い声が聞こえてきた。

「きみはそれを刺すだけ。後始末は俺がやるから心配しなくていいよ」

こくんと縦に首を振る彼女。牀に横たう彼の下まで行き、ぴたりと硬直する。胸元で握り締めた懐剣は待てども振り下ろされることはなくて、彼女につかつか歩み寄る。覗き込めば、恐怖による涙をほろほろ流していた。すっかり血色を失った顔は涙で濡れて恐怖にこわばり、そこには美姫と謳われる世評の欠片もなかった。

「どうしたの?やらないの?」

うんともすんとも言わない彼女。溜息をつけば、肩がびくりと跳ねた。

「彼の呪縛から逃げ出したいんだよね?ならやらなきゃ」

諭すように努めて優しく。けれど耳朶を掠めたのは嗚咽混じりで言う、否の言葉。ばたい、と自分の名前を呼ばう。涙で濡れた顔をこちらに向けた彼女は、下唇を噛んで首を横に振る。

「―――…………で、きな……ぃ……」

人殺しなど無縁な彼女。人一人を手にかけることに躊躇しているんだろう。無理もない。その手は白く、何処までも白く、常に誰かに触れていた。ぬるい熱を湛えた柔肌に硬質な物は到底似合うはずもない。―――しかし。

「今更やめるなんて許さないよ」

細い手首を撫で、掴む。立てた爪は柔肌に深く沈み、彼女は痛みに顔を歪ませた。痛みと恐怖との落涙を片方の指で掬ってやる。

「大丈夫!きみがどんなことしても俺が居るよ!」

だから早く同じところまで堕ちてきて。





上手な甘やかし方

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指先