辛憲英

辛憲英視点




―――わたしはただ、愛したかったのです。

今にも掻き消えそうな声量で、ぽつりと吐き出した本音。しかしすぐに嗚咽が混じるようになり、柔らかな頬をいくつもの涙が滑った。ぽたぽたと床に溜まっていく。

「愛したかっただけなのです。そして愛されたかったのです。誰でもない、この方に。それを罪だと言うのなら、どうして清廉潔白に生きられるのでしょう」

静謐に、さめざめと。ほっそりした体つきと楚々たる麗姿に、硬質的な輝きを放つ物が異彩を放っている。嫋やかな指に握られた懐剣。その刃先は濡れそぼり、滴る物は横たう体に吸い込まれる。床に散る赤い鮮血。それを全身に浴びて横たう骸と傍に座る名前。部屋の空気は停滞している。つい先程まで睦んでいたであろう女は内衣はだぎだけをまとっている自分の姿すら忘れ、女の悲鳴を聞いて勇んで飛び込んだ守衛たちは言葉を失い、衆目に晒されて尚名前は泣き続ける。

「ねえ憲英。わたしは何か間違っているのかしら。それとも間違っていたからこうなってしまったの?でもそうとおっしゃってくれれば、わたしはいつでも直すつもりでした。おっしゃってくれなかったのはこの方ですわ。ああ、どうして……。どうしてこうなってしまったの。わたしを愛すると約したことは偽りだったとでもおっしゃるの。教えてください、どうしてわたしを裏切ったの。なんで、どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして―――」

自分に向けられていた顔は途中で下を向く。眼下に横たう彼女の夫を捉えて。繰り返し繰り返し冀う様は、夫婦の契を花開くように喜んだ過日の友人とは似ても似つかなかった。何度も上下に動く手をやんわり掴む。言葉とは裏腹に、行動はぴたりと止まった。ああ、もっと早くこうしていればよかった。この手を掴んで邸から連れ出していれば、この美しい花を狂わせることにはならなかったのに。





愛したかった

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指先