入学の季節も過ぎ、やっと真央霊術院に生徒たちも慣れてきた頃合いの時期。そんな安定してきた空気をぶち壊す出来事が起きた。時期の遅い新入生が入って来たのだ。
その新入生が来る前から、もう既に生徒の間では噂が引切り無しに飛び回っていた。
『あの総隊長様の攻撃を素手で止めて見せたそうだぞ』
『何やら妖しい術を使うそうな…』
『二番隊副隊長さんの事も片手で倒しちゃったんだって……』
『元はその名を知らない者は居ないってほど有名な芸妓だったらしい』
好奇と猜疑の目が、苗字に一斉に向けられた。そして皆が一様に、茫然と目を見張ったのだった。
苗字はそんな皆の期待を裏切るかのようにフードの奥で周りをふてぶてしい目付きで睨み付け、無作法な出で立ちで現れた。
頭には薄汚れたフードを被り、少し着物のサイズが大きいのか手が袖から出ていない。制服には、青い線が入っていた。其処から垂れた鎖は背中に回され、猫背の体制は幼げな子供のものとは到底思えない。ずぼらな雰囲気を漂わす苗字が皆が口にする化物であるとは、到底思えないというのが満場一致の感想であった。緊張感の無い姿は、肝が据わっているというべきなのか、只の莫迦なのか判断しようも無い。
皆頭に浮上する疑問を全てぶちまけることも忘れ、只々教師相手に恐喝しだした苗字を唖然と見つめることしか出来なかった。
◇
よく晴れた快晴日。
真央霊術院の新入生達は、其々のクラスごとで学問やら鍛錬などに勤しんでいた。そんな中、日向の屋根の上で堂々と昼寝をしている生徒が、一人。
苗字 名前。
下からは、その名を呼ぶ講師の声が聞こえてくる。だが当の本人は聞こえているにも関わらず何処吹く風だ。黒いフードの奥で目を瞑ったまま、眠りこけている。
いつもと変わらない日常。
今日も変わらず人の群れに紛れ、
今日も変わらず彼ラの怨恨を宿す目に見られている。
此処へ強制的に入れられ、早くも2年が経過していた。此処は如何やら流魂街出の者が少ないらしく、殆どの人間が自分の置かれている状況を以前から理解しているようだ。生きる事だけ考え、世間体には疎かった苗字だったが、講義の中で今まで腑に落ちていなかった事が全てわかった。
何故、自分は空腹を感じるのか。
霊力とは何なのか。
自分が気配と思っていたものは死神の間では霊圧と呼ばれることも最近知った。そして、死神の持つ斬魄刀という刀の存在。
今の死神でない者には浅打が手渡されているが、苗字だけはそれを拒否し未だに錆びた刀をぶら下げている。
そもそも、苗字は昔から刀に対し強い嫌悪感を抱いてきた。だから佩刀した死神に対しても好意的に認知出来ないのは自然の道理である。錆びた刀は、彼等に対するささやかな皮肉を暗示しているのだ。
だがその刀を持ち続けているのには他にも理由がある。
この刀は、只の刀ではなく元は死神の物だ。あの時は死神という単語さえ知らなかったが、今思えばこの刀は斬魄刀であった可能性があるわけだ。憶測に過ぎないが、もしそうであるなら無碍に捨てるわけにもいくまい。斬れぬことには変わりがないのだが。だが技術開発局は、この刀を斬魄刀とは認識していないようだ。
霊圧も多少なりとも感じてもおかしくないはずだが、何もこの刀からは感じない。もう浅打に戻ってしまったと考えるのが妥当であろうか。
苗字は片眼のみ開くと、枕代わりとしていた腕で短刀を握り顔の上まで持っていった。
まるで化かされた気分である。それさえもこの斬魄刀の能力であるのか、是非とも知りたいところだ。だが、現段階では知る手立てすらない。
そして、更に不可解な代物が、一つ。
総隊長と呼ばれる御老人の攻撃を止めた事が周りが言うほど驚愕ものなのかどうかは本人全く実感はないが、一時的にでも炎を防いだことはそうそうある事とは思えない。然も斬魄刀の攻撃を、だ。同類のような力が働いたとしか思えないが、涅から聞けたのは魂の力という事のみ。
あの刹那に鳴った鈴の音と、関係があるのだろうか。
鳴る筈の無い、欠品だったはずが、あの時確かに黒い鈴が一時鳴った気がしたのだ。“気がした”だけならまだしも、鈴へと戻っていた力の痕跡を見てしまった以上あれが根源と思って間違いないだろう。
一旦思考を打ち切ると、上半身だけ起こし下でいそいそと動く人間の影を見下ろした。
全く、死神に関わったが故に知らんでもいいことにまで首を突っ込む羽目になった。其れが己自身の事であったとしても苗字には無用の産物であり、金にならない事であれば生活する上での障害としか捉えない。其れが後々有益になるなら話は別だが。
再びうつらうつらとしていると、少々騒々しい気配が近づいてきた。苗字のいる建物の窓からその人物は外に出ると、なにやら四苦八苦して屋根に手をかけひょっこりと顔を覗かせた。
「あ!やっぱり此処にいたっ」
その少女は額に汗を浮かべて、気苦労の多そうな顔を更に情けなくして苦笑した。
苗字は気だるげに片手を上げてその笑みに応える。
「こんにちは、14番さん」
「だから、番号で呼ぶのやめて下さいよって何度も言っているじゃない」
不服そうにその少女は苗字を見るものの、高い場所が苦手なのか震えつつ屋根にしがみついている姿では何の説得力もない。
「また講師に呼んでくるように頼まれた?君も献身的なほど人がいい」
「知っているならサボらないでちゃんと出席して下さいよぉ!私まで成績落とされちゃう……」
情けなく目を潤ませる少女の名は忘れたが、苗字に話しかける人物で、唯一苗字に臆せず近づく人物でもある。
話しかけられた当初はその胸にどんな黒いものを煮えたぎらせているのかと思ったが、少女に害は無かった。純粋に己に話しかけようとしただけであった事に拍子抜けしたほどだ。それ以来、何かと講師も彼女に苗字関連の事は全て押し付けるようになり日に一回は話す関係となった。
他の生徒は大方が霊圧が皆無である事を知ると、明らかに蔑視するようになり苗字が鬼道が出来ない事をいいことに態度が横暴となっていった。
いつだったか、ある男子生徒共が廊下のど真ん中で苗字に喧嘩を吹っ掛けてきたことがあった。貴族だからと身分に託けて土下座を強制するその横柄な態度に少々脅してやるつもりで喧嘩を買ってやったのだが、二人の生徒を医務室送りとしただけで大騒動となってしまった。
一人は全治二ヵ月、もう片方は一ヵ月半の怪我を負い、壁は一部破損。ついでに下品な口調で罵詈雑言を捲し立て散々こけおどした事による精神的打撃も少々。
その一件で女子は苗字を無骨で体格に似合わず腕力が強いと知るや否や怖がるようになり、誰一人として近づかなくなった。男子は霊力も無いくせにと未だに陰口を囁き合っているが、面と向かって殴りかかって来る代わりに鬼道での戯事が増えていった。それでも苗字を恐れている事は明白である。
そんな生徒達の改心ぶりを見て苗字は思ったのであった。
______ちょろい。
此処と80地区とを比べると、雲泥の差だ。数人で敵わないのなら、数十人で。数十人でも敵わないのなら、数百人でもやり返しに来るだろうと思っていたのに、こうもあっけなく脅し負けるとは。80地区と比べるとまるで犬だ。よく今まで生きてこれたものだなと関心を寄せたのもこの一時のみで、その後件の生徒がどうなったかは、視界に入ったとしても記憶に留めもしない。
そして花街にいた頃感じていたあの感覚へと引き込まれていくのだ。
居心地の悪い、あの疎外感に。
あの頃よりはまだましだが、空白は埋まらないままだ。それでも居続けるのは、己の目的のため。でなければ、ここまでして死神の敷地に入ろうとはしない。
「………ねぇ名前君!私の話聞いてる?そんなところじゃなくて、いい加減降りてきて下さいよ」
「なら君が来ればいい」
「この屁理屈やっ」
「何とでもどうぞ」
喚いていた少女だったが折れたらしく、いそいそと苗字の処まで登って来る。近くまで来るや否や、困り顔で説教を始めてきた。これも、いつの間にやら日常化されたことだ。
「どうして斬術の稽古となるとすぐ消えるの?」
応答の無い苗字。
根気強く返答を待っていた少女だったが、相手にもされていないことに気づくと深々と溜息を吐き項垂れてしまった。
ふと、俄に苗字は気まぐれな口を開いた。
「責任転嫁は良くないよ。消えるんじゃなくて、見つけられないだけ」
少女は諦めきった顔を持ち上げると、口元を尖らせた。
「質問には答えないで、そうやってはぐらかすの?ちょっとくらい話したって……」
「無意味だから」
「え?」
突然話を遮られた少女は、驚いて目を見張った。
「刀の扱いを学んだところで、意義を感じないから出ない、以上」
「………暇してるくせに」
「君の言う暇も、斬術よりは意義深い」
再び溜息を吐き、ぶつぶつと小言を並べ始めた少女を苗字は横目で流し見た。
「14番は、死神になるために此処に入ったの」
只のその場で芽生えた出来心だった。今まで気にも留めていなかったが、この時は無性に聞きたくなったのだ。己のことに関心を持ってくれたことが嬉しいのか、顔色が途端明るくなる。
「そうだよ。死神に憧れて、あの人達みたくなりたいっ!って思って此処に来たの。名前君だって……ぁ」
口を滑らせてしまったと思ったのだろう。ばつの悪そうな顔で一旦口を噤むと、暗い顔を俯かせた。
「………御免なさい。名前君は無理矢理……」
「______そう。そう思わせた」
呟かれた返答を聞き取れず、思わず少女は眉を顰める。
「え?今、何て……」
苗字の言葉に首を傾げる少女に、あしらう様に手を動かした。
「徒労で終わるのだから、長居は貴女にとって不利益にしかなり得ない。斬術楽しんで」
「心にも無いことをすぐ言うんだから」
「社交辞令なのに」
渋々といった様子で恐る恐る足場を確認して降りていくその背は、途中で動きを止めると苗字の方を振り返った。
「前から気になっていたんだけど、名前君ってどうして口調を変えたりするの?」
「気分」
「嘘。だって私の前ではいつも非道な事言わないですよ」
「何だ、言って欲しかったのか。それは知らなんだ」
わざとらしく大声で言うと、しかめっ面になった少女は苗字に背を向け文句を呟きつつ屋根から降りて行った。
離れていく気配を感じつつ、苗字は静かに瞼を閉じた。
何故彼女が自分に関わってくるのかと不思議に思うことは多々あった。皆が苗字を蛮骨で無頼漢であるかのように脅える中、何故彼女だけは控えめな笑顔で話しかけてきたのかと。だがそれを彼女に直接聞くことは無かった。何故なら、聞いたところで何かが変わる訳でも、如何にかなる訳でもないからだ。干渉は、必要性が無い。
矢張り此処は、何処か捻じれている世界だ。
其れとも、その世界を映す己の価値観が、歪んでいるという事か。
戻|進