此の日の午前の講義は、実践を兼ねた鬼道の演習であった。その場には苗字の姿もあったが、起立したまま鼾をかいて寝ていた。
毎度の事ながらの衆怨と憎悪が一挙に襲う悪夢に夜中起きてしまい、其の儘寝つける訳も無いので書蔵庫に入り書物を読んでいたのだ。
読んだのは瀞霊廷での規律や歴史、死神や中央四十六室のことまでの幅広い分野。其れを苗字は朝日が差し込む時刻になるまで読み漁った。
よってこの日の集中力は皆無と言ってもいい。
現在では、講師が何事かを言っている。恐らく今日行う鬼道の事だろう。苗字は気怠げに頭を擡げ、耳を傾けた。
「_____よし、では各自適度に離れて開始!」
え 何を
如何やら終盤まで意識がなかったようで、全く聞いていなかった苗字は取敢えず適当に離れた。其れに合す様に、周りの生徒が造る輪もまた幾らか大きくなった。皆苗字の鬼道が完全に落第点並の悲惨である事を知っているからか、巻沿いを食わぬため近づこうとしないのだ。恐らくそんな理由は言い訳に過ぎず他に理由などいくらでもあるのだろうが。
その内各自バラバラに何やら詠唱を始めた。其れと同時に用意されていた対象物に向かって火塊が放たれたり、また誤った者は焦がすことさえ出来ずに四苦八苦している。
苗字は対象物の前に移動すると、皆が叫んでいる詠唱を耳で聞き分け其れを其の儘諳んじた。捲られた袖から、血の滲んだ包帯の巻かれた手が覗く。
「君臨者よ 血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ 焦熱と争乱 海隔て逆巻き南へと歩を進めよ。破道の三十一 赤火砲」
特に何の期待をしていたわけではなかった。自分に霊力が皆無である事は自覚しているし鬼道は不向きと重々承知の上だった。
だが苗字の予想に反して、火塊が指先から噴出したのだ。驚いたのも束の間、その火塊は対象物には当たらず進路を逸らすと生徒達の方向へ無秩序に動きつつ突込んだ。
辺りで生徒達は突然の火塊に驚き悲鳴を上げ逃げ惑った。火塊は空気の抜けた風船のように滅茶苦茶に生徒の間をすり抜けていき、最終的にある男子生徒の頭上ギリギリをすり抜け壁にぶち当たり、破壊音と共に火塊も消滅した。
皆、呆けたまま茫然とその一部始終を見ていた。その内この発端となった苗字に一斉に視線が集まった。
「ハッハッハ、やらかしましたなー」
当の本人はまるで他人の仕業であるかのように陽気に笑っていた。
◇
演習が終わってからの自由時間。
苗字は一人長い廊下を歩いていた。近づいてくる数人の気配に顔を上げることもせずにいると、突然彼等は道を塞ぐようにして立ち止った。
苗字は其の儘素通りしようと横をすり抜けたが、その中の一人に肩を掴まれた。
「おい、知らぬ振りをしようってか?勝手に行くんじゃねぇよ」
「あ゛ぁ?誰だてめぇ」
苗字は肩に置かれた手を一瞥しふてぶてしく相手を睥睨すると、ドスを利かせた声で威圧的な態度をとった。力で他人を服従させようとする横暴な態度を前にすると、苗字の態度もまた昔の頃に戻るのだ。此処に来た当初は警戒を兼ね不良じみた態度を崩さなかったが、80地区ほど凶暴ではないためする必要性はないと判断したのだ。此処は余りにも、警戒心とは無縁な場所だ。
憤怒の顔をした頭三個分はある男共の背に隠れた男子を視界に捉えた。一瞬怯んだようだが、その男子は両手を懐手している苗字に向かって怒鳴ってきた。
「誰とは何だ!あの時俺に向かって火塊打ちやがって、危うく頭に当たりかけたんだぞ!」
だか、当然苗字は彼のことを知らない。
はて、と思いながらもその男子に頭を下げる苗字。
「その節はどうもすいませんでした」
「何だその態度は、舐めてんじゃねえぞ!」
「え、謝っているんです」
その男子の前に立つ背の高い三人の内一人が掴み掛らんばかりに食って掛かってくる。だが、一人合点のいった苗字は不相応なほど呑気に頷くばかりだった。
「あー成程。その三人が虎で、お前が狐という事か」
先程の演習で苗字に恨みを持った生徒が知り合いの先輩に協力してもらい目にもの見せてやろう、という魂胆なのだろう。一人ではあの喧嘩慣れした苗字には勝てないから、応戦してくれる体格の大きい味方をつけようという事か。
恐らく物言いからして治安の良い地区の出の者ではないのだろう。
彼等の背後に立つ、奇怪な亡霊ラ。苗字にしか知覚出来ないその存在が影の上を揺れている。
この時苗字は、在るべき物が在るべき場所に嵌る感覚を感じた気がした。
「………てめぇ、誰が余所見しろっつったよ!」
体格の良い男の一人が苗字に向かって拳を振り上げた。至近距離であるから射程内だと思ったのだろう。苗字が軽々とよけてしまうと大きく体が前に傾いた。間髪入れずに溝内に爪先を食い込ませた。男の体は再び大きくそり上がり、苗字は横から襲ってきた男の背を踏み台にし飛び上がる。そり上がった男の顔を片手で覆う様に掴み、其の儘床に後頭部を叩きつけた。床にバリッと亀裂が入るほど強い衝撃に男は白目を剥き動かなくなった。苗字の左手は未だ懐に入ったまま。
ぞろぞろと集まっていていた野次馬の中から悲鳴と、非難の野次が飛び交った。聞く耳など元より持ち合わせていない苗字は、その後も片手のみで残り三人をあっけなく失神させてしまった。
床に転がる同学年の男の元まで行くと、胸ぐらを掴み乱暴に揺すり起こした。目の上が腫れ上がり、鼻血で顔下半分が血だらけだ。
「他人の道を塞ぐ時はそれ相応の責任を持て。今度また愚豪な事してみろ。お前の陰茎使用不可能にして晒し者にした後生きたまま八つ裂く」
聞こえているかも分からない。だがそんなことはどうでもいい、脅しは所詮脅しであり実行する気は無かった。
それだけ言うと苗字は一つ欠伸をしてその場を立ち去っていった。何事も無かったかのように。
廊下の角を曲がり切ると、壁にもたれる様にして立っている男が苗字を見下ろしていた。
「度が過ぎるぞ、苗字」
険悪な顔を更に顰める男。
「此処は荒れた80地区とは違う、誰が暴れろと言った?」
「お、小鬼が来よった」
「誰が小鬼だ」
すかさず不機嫌な声色で言い返す男。
技術開発局の服を着た彼の名は、阿近という。不良のように険しい顔にお似合いな眉間の皺が印象的だ。
「来い、苗字。検査時間だ」
「と言いつつも事実無根、検査と称した人体実験」
「無駄口叩かずさっさとついて来い」
それだけ言うと一も二も無く背を向けてしまったので、仕方なく苗字はその後を速足でついていく。歩幅が二倍は違うため後ろに着くのさえ難儀だ。
阿近は今までの大人と異なり貫禄の度合いが違う。他人に翻弄されることも無く物事を冷静に見つめているその姿勢は、涅に気に入られているのも頷ける。
だが阿近が態々技術開発局を出てこの真央霊術院まで足を運ぶとは珍しい。
彼が来たのは、引き続き行われている苗字の検査を実施するためだ。以前と異なるのは調査の最高責任者が涅から阿近に代わったという事だ。如何やら以前の実験で禁止されていた薬品を実験体であった苗字に使ったらしく、其れが明るみになり今回の調査からは手を引くようにと命令されたらしい。どんなに悔しがったか知らないが、あの顔を一時でも見なくて済むのは有難い。あの生物に比べたら、小粒の角など可愛いものだ。
歩いている間、阿近から体調の事についてあれこれと質問されるのもいつもと変わらない。
「で、何処か体に異常が出たところは」
「毎日変わらず糞して飯を食っている」
「よし、体に問題無し。副作用はねえようだな。息切れや発作があったらすぐ言うんだぞ」
その事務的な言い方は、体を心配しているというよりは仕事熱心故に思える。だからこそ、余計な気遣いもなく私情もないこの薄情関係が居心地がいいのだった。
真央霊術院からある程度離れ二人きりになった今でも、彼は苗字の振る舞いに対して言及することはなかった。そもそも関心がないのか、阿近が責任を負うつもりはないらしい。だが後で取ってつけたかのように、「弱い奴は体も脆いんだ、覚えておけ」とだけ告げられた。忠告なのか事務事項なのか、不機嫌顔を更に顰める阿近。さり気無く酷い言い草だ。
「権力を笠に着る横暴な態度を、改めさせようと願う涙ぐましい母性愛だ」
「母親も知らねえくせに知ったかぶりもいいところだな。そもそも何でああなる、要因は」
苗字は演習に起こった事を事細かく話した。いつもならはぐらかす処だが、彼が食いつくのは目に見えていた。
案の定、阿近は苗字の話に予想通り食いついた。
「何、鬼道を使えただと?」
「使えたというには無茶な破道だけれど。其れに以前は回道を使おうとして人を吹っ飛ばしたうえに近くの壁を破損させちゃったし」
「何やってんだお前……。まあ兎に角、鬼道を使ったんだな?これで霊圧云々は強ち嘘でもなさそうだな」
「全く感じられないことはどう説明すると?」
「其れは着いてから資料と照らし合わせて説明してやる」
それきり黙ったまま二人は技術開発室の建物へと入り、執務室として利用している部屋に誰もいないのを確認すると阿近は扉を閉めた。
苗字は一つの机に飛び乗り、阿近は向い側の机に背を預け立つ。彼が手にした乱雑にまとめられた資料は、今までの苗字に関する実験結果がまとめられている。其れを阿近がじっと見つめている間、苗字はぶらぶらと部屋を物色している動作に紛れ、手にしていた小石を仕組まれていた盗聴器、盗撮装置に飛ばしては壊していった。それも、全て自然な動作で。
「おい、盗み禁止」
なら其方の隊長にも言ってやれと思いつつも、懐に隠した資料を机に置いた。
いつの間にやら煙草をふかしていた阿近は、資料から顔を上げると此方を見やった。
「一番の可能性としては、霊圧制御装置だが……、資料を見る限りんな成分は検出されなかった。お前が検出外の霊圧制御装置を作れるとも思えんしな」
何故か疑り深い目で見てくるので肩を竦めて見せた。
「過大評価されるのは嬉しいけれど、憶測にしては突拍子もないな。80地区で技術開発局と接触できる裏経路があったなら是非とも知りたかったよ。其れに私には学がないし」
「字は読めんだろ」
「花街はそれだけ暇だって事だ」
その後も次々と推測が並べられ、長々と説明を受けた後、結局何らかの他力による影響か無意識化の力によるものという結論が最も有力ということになった。そのことに関して、苗字は否定も肯定もしない。
「おい。本当に、心当たりは何一つないんだな?」
面と向かって睨まれていても苗字は顔を反らしたまま関心も示さない。その態度に額に血管を浮きだたせる阿近。彼は普段滅多な事では調子を狂わされることは無いが、苗字の前となるとどうも自制を挫かれるらしい。
阿近が口を開きかけたところで、苗字が気ままな唇を薄らと上げて見せた。
「私が化物だからかな」
「俺は、心当たりはと言ったはずだが」
「実を言うと、幼児体型に関わらず顔は焼け爛れ膿が湧き一部脱毛症だったりする」
話をしっかり聞いているのだかいないのか噛合わない会話に遂に怒鳴りそうになるが、怒る気にもならなくなったのか、阿近はいつものあの不良面で此方を睥睨した。
そんな不機嫌な彼に、苗字は無表情だった顔に薄ら含んだ笑みを浮かべ白々しい忠告を口にする。
「………妖人の言葉に、耳を傾けてはいけないよ」
煙草を吸う阿近の動きが止まる。
「合理主義は、遊ぶのが苦手だから」
飄々と応える苗字に対し探るような視線を送り、用心深く言葉を紡ぐ。
「ならどっから法螺吹いてやがる」
「あなたが事実だと信じたい事を真実にすればいい。………でも、」
「それすら虚言かもしれないね」
ユラユラと揺れる妖人の言葉は、霧散しても尚阿近の内側をかき回す。
苗字の真意を測る阿近だったが、埒が明かないと判断したのだろう。阿近は前回の検査結果を並べ上げ、淡々と今回の検査を開始した。
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