検査終了後、阿近の顔は鬱憤を晴らせずじまいの鬼さながらの形相であった。
 その理由として、今回調べた苗字がしている鎖から何の成果も出なかった事が挙げられる。苗字は博打での不正が出来ないようにしているだけだといったのだが、この科学者の目にはそうは映っていないらしい。
 だが結果は白。不機嫌にもなる。

 苗字がその場を退散する間際、阿近は恨めし気に鎖を睨み付けながら苗字を呼び止めた。
 「何」
 「飲め」
 阿近が差し出してきたのは毒々しい色合いをした液体の入ったフラスコだった。
 「フラスコはやめようというせめてもの気遣いくらいはないの」
 「俺特製の栄養汁だ。文句は聞かねえ飲めばよし」
 苗字は阿近の目を一瞥すると、其れを受け取り一気に飲み干した。ドロドロとした液体と異臭に軽く咽ると阿近に背中をはたかれた。笑う阿近だが、その笑顔さえも普通の子供が見たら泣くほどえずい。
 「いいか餓鬼、今度また暴れてみろ。俺は局長よりかは理性を持ち合わせているがどうにでも出来ることを忘れるな」
 子供になんという脅しをするんだと思いつつ、こくこくと頷き怖がっている振りをして見せた。
 用は済んだとばかりに立ち去る阿近を、今度は苗字が引き留める。
「あそうだ、言い忘れていたことがあった」 
 「あ゛ぁ?」
 仏頂面で振り返る阿近。
 其処には、珍しく真正面から此方を見上げる苗字がいた。
「私がまだ貴方に隠し事をしていると思っているから、あの子にそれとなく聞き出させようとしているの?」
 二人の間に、刹那静寂が訪れた。
 「お前、誰の事をいってやがる」 
 「同じ班の14番の女の子。………其れとも、もう丸め込んだから彼女は私に話しかけてくるのか」
 眉間に皺を寄せたまま微動だにしない阿近を、苗字は横目で流し見る。阿近が煙草の煙を燻らせる。
 「………誰も信用しねぇって態度だな。近づく奴らが皆敵だとでも思っているのか」
 「いや?近づく経緯なんてどうでもいい。ましてや彼女がそれ目的で近づこうが。計略無しに近づくのを異常に思うのは他人を信用してないからじゃない。寧ろ逆だ」
 理解に苦しんでいるのか険悪な顔だが、阿近は無言のままだ。苗字はこの無言を肯定と受け取った。
 彼は苗字を試したのだ。どこまでの人物なのかを、そしてどう行動するのかを。

 だが、試していたのは貴方じゃない。________私だ。

 「これで貴方の腹の内は分かった。………お互いまどろっこしい腹の探り合いはやめようか。其れとも、私の只の思い込みだったかな」
 逆に揺すぶりをかける苗字。

 「____おいで 副局長」

 この時阿近は確かに、この子供から悪寒のような重圧を感じた。


 ◇


 真央霊術院に通う生徒達の寮の、ある一部屋。
 のどかな朝の陽ざしが差し込み照らし出されたものは、余りにも不釣合いで、禍々しく異様な光景であった。
 畳に残る血だらけの手で抉った無数の跡に、その上にかぶさった引裂かれてある布団の残骸。壁の下部には、血で描かれた掌の形が後を引き残っている。
 その部屋の隅に、苗字は座っていた。フードを被ったままだが、其処から覗く片目は何を捉えているのかさえ分からぬほど虚ろであった。
 この時もまた、一枚の壁の向こうからあの気配らを感じていた。悪夢と共に、彼ラはひたひたと今日もまたやってきたのだ。苗字の目には、障子に這わせている幾つもの手の平が見えていた。
 苗字は布団が嫌いだ。其れは69区にいた頃も同様で、太夫の反対を押し切り部屋ではなく馬小屋を使っていたほどだ。人が当然のようにして使う生活の快適さが、苗字にとっては毒であり、地面が最も居心地が良かった。だから此処に来てもなお布団を使ったことは一度も無い。
 
 「____ねえ」
 唐突に、苗字は聞いているだろう気配に向かって声を掛けた。首の無い少年と、その周囲に向かって。
 「貴方は今、どんな顔をして私を見ているの」
 その問いに、応える者など居ない。
 「………おかしいの。……貴方の顔が、笑顔が、全く思い出せない」

 其れは、償うことすら赦されない咎。
 彼ラが其れを忘れさせやしないだろう。

 再び襲ってくる無邪気な睡魔。
 促すかのような衆憎の羅列と頭痛を振り払うかのように、苗字は機敏に立ち上がると部屋を出て行った。

 だから  快適な場所は嫌いだ。
 

 ◇

 
 休日である今日は、殆どの者が霊術院から出ていくため閑静としていた。流魂街の者は故郷と定めた地へと戻り久々に顔を合わせ再会を喜ぶ。
 だが苗字には故郷と呼べる地も、執拗に会いたいと思う者も居ない。唯一行きたい場所として頭に浮かぶのは、80地区だけであった。と言っても、流魂街に戻せば何時ふらりと消えてもおかしくないとのことで、外出は禁止されているのだが。

 「…………で、結局此処に来んのか」
 「自室よりも居心地が悪いから」

 毎度の事ながら微妙な距離感を保ちつつ座っている二人は、尽きない皮肉と罵倒を浴びせ合いながらも同じ部屋の空気を吸っていた。
 阿近は煙草の煙を燻らせながら、目の前に積み重ねられた書類の山と葛藤しつつ横目で苗字を睨み舌打ちした。
 「休日だからってホイホイ来んじゃねえ。餓鬼は外で遊んでこい」
 「餓鬼じゃない、シニア」
 苗字はというと特に何かをするわけでもなく、背凭れに体を預け両足をデスクの上に投げ出している。阿近が作業をしていようがお構いなしの態度である。
 ここ最近の休日はいつも十二番隊の実験室か執務室かに突然出没しているのだ。何時の間にやら入っているので阿近でさえ毎回ギョッとするほどだ。
  
 阿近と苗字が協力関係を交わしてから、早数ヵ月が経った。其れからというもの、阿近の処へぶらりとやって来る回数が増えた。

 
 『俺が黙っている見返りは』

 背を反らしつつ、苗字はあの後場所を変え、彼に協定を持ち出した時の事をふと回視していた。
 
 阿近の問いに、苗字は放縦な口を開く。
 「____貴方の知りたい情報を」
 阿近は苗字の話す事と関連する実験結果の黙秘し、その見返りとして苗字は全ての情報を公表し、調査に全面的に協力する。
 「ふん、それで対等というには少し傲慢じゃねえか?」
 「そう?………貴方は今の段階で私の全てを調べ上げたと自負しているつもり?其れに薬物投入させているのだから、身体的にも損傷を受けている。十分な対価だと思うけれど」
 自分にとってどれだけ有益か、損得を考察しているのだろう、顎に手を当て考え込む阿近。だが苗字はこの時彼がこの条件を呑むと確信していた。涅に認められただけあり研究への執着と、仕事を忠実にこなす神経質さ、また技術開発局という孤立した立場のため死神に対してもさして忠誠心も無い。死神に情報を流さないことに何の抵抗も無いはずだ。
 苗字の読み通り、阿近は要求を呑む気になったらしい。だが表情は心理を読み取られぬように険悪なままだ。
 「お前も変わった奴だな。自分を実験体にされて憤りもなく何食わぬ顔で手を組むのか」
 片や苗字は飄々とした態度で言った。
 「私は他力本願の上をいく、無精者だからね。よく覚えておくといい」
 全くの嘘でもないが、本心でもない。
 だが阿近は腑に落ちない顔のままだ。
 「なら、何故俺にした。信用する気になった理由は何だ?」
 
 苗字は真面目腐った声で言った。
 「………昔大切だった人に似ているから」
 言うなり頭を拳で殴られる苗字。流石に嘘だとばれたらしい。痛みに頭をさする苗字を置いて阿近は其の儘出て行ったが、それに見合う成果はあったのだ。
 これで、秘密裏に己に関する謎を処理することができるのだから。

 そして今に至るという事だ。
 しかし、彼に私情や過去までは話していない。苗字は心までは開いていないからだ。
 阿近は狷介固陋で、無干渉の位置だ。だが、私情を預けるべき人間となると話は別だ。
 空虚稀薄なまでの二人の関係は、未だにあの時と何ら変わりは無かった。

 苗字は体を起こし、己の資料を寄越すよう身振りで示すと阿近は目線を書類から逸らさず隣の書類の山を弄って其れを投げてよこしてきた。仕事をしていると更に不愛想さが増している。
 其処に記されているのは、苗字の持つ刀が斬魄刀であるのか、将又浅打なのかに於ける可能性と憶測。阿近もこれには興味を示し、未だに刀を返してもらえてない。錆も酷いので粉々に分解されていないか訝しいものの、持っていたところで何の得もないから在っても無くても変わらないのだが。
 こうして数値で見ると、色々と明るみになる事もあった。霊圧が感じないのは、そういった能力をこの斬魄刀が持ち合わせているからではないかと阿近は言ったのだ。また持ち主が変わった事により、苗字を試そうとしているのではないかとも。だが斬魄刀は強く揺るぎない持ち主の志に反応するのならば、苗字にその声を聴くことは不可能だろう。刀を持つ理由も、志も無いのだから。 
 「お前、今日泊まってくか」
 いつの間にやら作業が終わったのか、資料に目を通していた苗字の顔の真横に阿近の顔があり、資料をのぞき込んでいた。
 「率直に言うと答えはいいえだけれど、形式通り聞いてあげる。………何で」
 「鎖は取れねえんだろ?なら必然的にお前も居なきゃ実験できねえだろが」
 「監禁は犯罪って知ってる?」
 「此処では実験の一環だ」
 「………環境って怖い」
 と言いつつもすんなり引き受けてしまう苗字も、また十分不合理的だ。
 先日に鎖は元々つけられたものではなく、刀を手にした日の翌日に付いたものだと話したため即刻実験したいのだろう。
 この鎖の事も分かれば取り方も必然的に解明するのではと考えていると、阿近が険悪な顔を更に顰め口を歪めている事に気が付いた。
 「………臭ぇ」
 鼻の上に皺を寄せる阿近は、吐き気を堪えた顔をのけぞらせ苗字から距離を取った。
 「お前の頭から異臭がするぞ!強烈な!」
 突然声を引っ繰り返し喚きだした阿近に対し、その青ざめた顔を見て状況が分からずぽかんとする苗字。
 「頭?」
 眉を寄せるものの、思い当たる節があり「あ」と声をあげる。「一週間前から洗ってないからかな」
 「一週間だと?!どおりで前から臭ぇと思ったわ!」
 信じられんとでも言いたげに素っ頓狂な声で怒鳴られた。
 「昨日洗い忘れただけだよ。これでも綺麗好きだ」
 「どこがだ、てめぇ太夫じゃなかったのか!」
 「今は髪まで商品じゃない」
 「不潔で不衛生なものと同じ空間にいるなんぞ断じて出来ん!臭いを嗅ぐだけで虫酸が走る!今すぐその腐臭を放つ髪をさっさと洗えっ!!」
 成程、極度な潔癖症だ。これは妥協するしかないか。
 「仕方ない、香水で紛らわすか」
 「解決になってねぇだろか!…………仕方ねぇ、こうなったら俺がその髪刈ってやる、退け!」
 ………正気じゃない。
 いきなりとびかかって来て動きを封じようとする阿近に対し、腕力に自信のある苗字も負けてはおらず押し返す。その内ドタドタと騒音を立て二人揃って揉みくちゃ合いながら床に倒れると、下にしかれた苗字は阿近の顎に足を食い込ませ、阿近は苗字の両腕を抑えたまま二人は睨み合った。
 「………潔癖症?なら何で此処はこうも乱雑なの」
 「は?今はかんけーねぇだろが」
 ぐぎぎ……と力を反発し合いながらお互い譲らない。
 
 すると、不意に扉が開いて局員が入って来た。
 入って来たのは壺府 リンという下っ端のちょんまげをした男。今も口に何か入っているのかもぐもぐと動かしている。
 「失礼しまーす。例の資料をお持ちしまし____……」
 壷府が入って来たと同時に其方へ顔を向けていた二人をやっと捉えた壺府は、唖然としたまま硬直した。
 「………阿近さん」
 口をぽかんと開けていた壺府。やっと我に返ったようだが未だ呆け顔だ。
 「まさか阿近さんが幼女好きだったとは……」
 ガコンッと見事壺府の顔面に得体のしれない物質が入った瓶がめり込むと、壺府は其の儘後ろへぶっ倒れた。


 今日もまた平穏な日である。