苗字は講義を待つ間、席に着き頬杖をついて廊下で行われている四人と一人の会話を耳に入れていた。四人に委縮している男子生徒はぼそぼそと言い合った後、そそくさと一人走っていった。四人はげらげらと笑い合いながら席に着く。所詮彼等にとって御遊びでしかない通過儀礼なのだ。
苗字もまた、どういう訳か近づいてくる見ず知らずの者に唐突に用をつけることはあるが、其れを遊びとは思わない。それ以外に用事がないだけで、他意は無い。だが彼等は何が面白いのか博打で金を巻上げるように、標的から更に搾り取ろうとする。
此処は小賢しい者が楽を見て、力と度胸の無い者が餌にされる。苗字の見てきた世界と何処か秩序が似ていて、それでいて何処か異なっている。少なくとも、80地区は此処ほど卑劣な生臭さは無かった。
その内、講義を担当する講師が入って来た。其れと同時に講師の前に進み出た女子生徒が小声で何事かを言うと、講師は激怒し生徒を怒鳴った。生徒は竦みあがると、「次にはちゃんと持ってきます」と何度も頭を下げていた。
これも一種の支配と、苗字の目には映る。四人と一人の関係もまた然り。
其れを見つめつつ、矢張り恐怖からの忠誠心では人も扱いづらいなと苗字は思っていた。憧れ、崇拝、恋心に勝る感情は他に類を見ない。
今回の講義内容は、前世に関するものだった。皆用紙にせっせと書きなぐる間、苗字は他に習いつつも大分遅いペースで口頭説明を写していく。この単純作業も最初こそ初めてのことで新鮮に感じていたが、既に読んだ内容をこうべらべらと話されても退屈でしかなかった。その内、講師の言葉も耳からすり抜けていき苗字の筆は止まった。
以前阿近に、前世で人間だった頃の行いは流魂街で地区を振り分けられる際に関係してくるかどうかを聞いたことがある。だが阿近はそんなものは全く関係なく、振り分けも運であると言った。そもそも過去の記憶は抹消されてしまい悪行も此処に来てしまえばゼロカウント、全く影響しないらしい。己にしか見えない存在に関係した話だが、阿近にそれを知らせる事はないだろう。
私情は、挟まない。
それでも彼を信用している、この不可解な関係。
彼を信用した本当の理由。
其れは、他人に憎しみを抱くことがないからだ。死神に対する感情は、憎悪に近しいが、個人に向けられたものではない、また別の感情。例えば誰かが苗字を殺そうとしたり、普通なら相手を憎悪し怒りで胸が煮えくり返る事をしたとしよう。その後再び男に会い、彼に善良な行いをされる。
苗字はそこで、「ありがとう」と平然と御礼を言うだろう。其れが、苗字という人物なのだ。其れがどんな悪人だろうと、同様に対応する。他人に対し憎悪を抱かず、好意は好意として受け取る。
其れは裏を返せば、関心がないからとも取れる。
彼女は誰にでも平等であり、また誰にでも平等に残酷だ。
だからこそ、太夫を殺した涅に対しての怒りも無く、その部下にも憎しみを抱かない。これといった陰謀が隠されているわけではない限り、苗字は阿近を信用するのだ。
苗字は外から感じる視線に意識を戻す。彼ラのものではない。恐らく、苗字を密かに監視している死神達のもの。
監視を厳重にしたければするがいい。それだけ苗字にとっては有利であり、事態の全貌もむき出しになる。
◇
講義が終わり、教科書類を抱え長い廊下を歩いていると後ろから14番の少女が苗字に追いつき、肩を並べる様にして歩きだした。周りの視線が二人に無遠慮に注がれる。
「今日の講義、どうでした?」
苗字が答えないことも気にせず、14番は更にペラペラと一人で喋り続ける。
「現世では私たちって人間として暮らしてたんだよねぇ。どうやって死んだのかな。ちょっと興味深いですよね」
特に相槌を求められているわけでもないと分かっている苗字は、ただ静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。その時若干14番の顔が悲しげな表情になったのを苗字は見て見ぬ振りをする。
「………ところで名前君は、これから何処へ?方向的に、寮みたいだけど……」
「お酒の様子を見に」
「え、お酒?!」余程驚いたのか、その場で立ち止ってしまう14番。
仰天した顔を横目で一瞥し苗字が先に行こうとしてしまうので、少女は慌てて後を追う。
「名前君ってお酒作れるの?!」
「一時期はそれで生計を立ててた位には。そんなご立派なものじゃないよ」
「へ〜、凄いなァ。でも、寮で作れるの?」
「違う。近くの放置してあった倉で」
「許可は?」
「まさか。勝手に」
「それ見つかったら大変じゃないかなァ〜」
「酒を飲めば警告する事すらどうでもよくなるさ」
その後も、他愛のない話が進んでいく。主に話しているのは14番だが、苗字の顔は機微だが心なしか穏やかである。
「そういえばさ、名前君は死神になったら何処の隊に入隊したい?」
その問いに、ちらりと14番の顔を一瞥する苗字。
「それはまた気の早い質問だね」
「だって楽しみだから。………本当は十一番隊に入隊したいけど、私まだまだ弱いし……。それに知り合いもこねもないからやっぱり不安だなァ」
「知り合いならいるでしょう」
苗字が言った何の気なしの言葉に、一瞬で表情が凍り付く14番。
「………え?」
14番の笑顔が不自然に強張る。立ち止る14番を、今度は訝しげに見つめた。ここまで相手が動揺するとは思っていなかった苗字は、隠そうとする14番の反応を不思議に思う。
「何言っているんですか?そんな人、いないよ」
いつかはばれる事なのに、どうして永遠に縋ろうとするのか。
「あそ、じゃあそれでいいや。……そんな脅えなくたって、どうも____…」
「名前君、知ってたの……?」
みなまで言わせず、苗字の言葉は遮られた。様子のおかしい14番に、苗字はただ頷いた。
「信じて。最初はそうでも、私名前君を売るようなことはしてない!」
口調の強まる14番の言葉。
全く気にしていない苗字は切羽詰まった声に困惑する。
「………う、うん。分かってるから」
「嘘!」
叫んだ拍子に顔を上げた14番の目から、涙が溢れ出た。顔を歪める14番に苗字は何と声を掛ければいいのか分からなくなる。こんな場面に陥ったこともないし、どう対処するのかも、彼女の涙の意味も分からない。
こんな事、今まで無かった。
「嘘だよ、そんなの……」
瞳が苦痛と涙で揺らいでいる。言葉とは裏腹に、顔はその言葉を否定している。自分を制御出来ないことへの恐怖を感じた。
「私、名前君を見ているうちに分かったんだ。だって、一番私が近くにいたんだもの。…名前君は視界に入れてても、私の事をちゃんと見てくれたことは一度も無い。他の人のことだって、そうでしょう?あなたは誰も見てなんかない」
それだけ吐き捨てる様にして言うと、動かない苗字を置いて踵を返し走っていった。
残された苗字は、床に染みて消えていく涙を見下ろした。
彼女の顔に浮かんだ後悔。
彼女は、本当は一体何を言おうとしていたのだろう。
あの時聞けなかった14番の言葉を、苗字は無性に知りたいと思うのであった。
其れが苗字の欠落した物であり、理解出来なかった理由であるように思えてならなかったから。
◇
あの日以来、14番は苗字の事を露骨に避けるようになった。話しかけることも無くなり、ばったりと出くわすと気まずそうに走り去っていった。苗字は何も言わず、引き留めることもせず只その背を何度となく静かに見守った。聞くことの出来なかった14番の言葉も無理に聞き出そうとも思ってない苗字は、自然の赴くままに任せ一人酒をあおる。
其の儘ずるずる引きずっていき、その関係のまま現世での実践訓練の日を迎えた。魂葬の実習は特進クラスのみのカリキュラムかと思っていたのだが、場馴れさせるべきだという尤もらしい理由のため組み込まれていたものらしい。事前に現世を彷徨う死者の魂を昇華させる云々の説明は受けたが、二年の内にやるには早すぎるのではと些か不思議に思う。
だだっ広い場に集められて数分後。引率を担当する三名が現れ、其々自己紹介を始める。内一人は講師、二人は六回生である。見かけない講師だと思っていたら斬術担当らしい。その三名の背には、現世への出入りを可能とする穿界門が鎮座している。
その様子を、死神も真面な任務があるんだなと思いつつ客観的に見ている苗字。苗字の手には、真新しい浅打が握られていた。いらないと拒否したのだが訓練の意味がないと採り合ってもらえず、強制的に持たされたのだ。あの腐れ刀は今尚技術開発局に寝かされている。
簡潔な説明が終わり、いよいよ門が開かれていった。
◇
現世に出向いての実践訓練………の、はずが……。
お構いなしと言わんばかりに来て早々腕を枕代わりとし、壁に寄りかかって眠ってしまった苗字。其れを目敏く見つけた講師は青筋を立て激昂したが、「刀扱えませんので」と子供のような言い訳をしれっと言ってのけた苗字に何を言っても通用しないと諦め半分で、講師は用紙に殴り書きしこの問題をかなぐり捨てた。要は、お手上げ状態なのであった。
誰かが力んで魂葬を行ったのだろう。魂魄の悲痛な悲鳴で、苗字は目を開いた。講師が生徒に注意を促している。
その様子から目を反らし、空を仰ぎ見て現世に来て何度目かになる悪臭に眉間に皺を寄せた。
鼻に付く悪臭、咽喉にまでへばり付く不快な臭いに胃が圧迫されるむかつきを感じる。80地区での暮らしぶりで敏感になった嗅覚が仇となり、現世での臭いは苗字にとって刺激が強すぎていた。流魂街には無い異物を燃やした臭いに、様々なものが混合し化学反応を引き起こした気体の混じった空気が体内に入るたびに、汚染されている気分になる。
其れに此処は、やけに影が濃い。
こんな場所に住んでいたのかと思うと、夢が膨らむも何も、記憶がない事に安堵する。
彼等は全く、そんな些細なことに意識を傾ける能天気さもなく魂葬に集中している。苗字はその演習に背を向け、背中にコンクリートの冷たさを感じつつ下に広がる闇に沈んだ人の営みを俯瞰していた。微動だにせずにいたことで爆睡していると皆解釈しているようだが、実際は既に意識は覚醒していた。密度を増している亡霊ラの存在もあって寝るに寝れないのが現状だった。
そんな中、微かに動きがあった。
生徒の魂葬状況を監督していた講師の元に地獄蝶が優雅に飛んでいくと、何やら情報を講師に伝達した。其れを聞いた講師は表情を引きつらせると、生徒達に注目するよう一旦中止させる。
「何十ブロックか離れた区域で虚が出たらしい。此処にまで被害は及ばんとは思うが、この町の担当死神から応援を要請された。よって私が行っている間、彼らの命令に従い勝手な行動は慎むように。以上!」
それだけ手短にいい、六回生らにしか聴こえない声で二言三言言うと瞬歩で現場へ出向いて行った。瞬く間にざわざわと生徒達が騒ぎ出したが、六回生に叱責され不安の漂う中やっと静かになった。
少々距離を取った位置で気だるげに空を見ていた苗字もまた、その様子を一瞥した。六回生等は危害は無いと判断したのか、実践訓練を続行し講師を待つことにしたらしい。
ふと視線を感じ、首を傾げて其方の方を向くと、14番と目が合った。振り向かれるとは予想だにしていなかったのか、慌てて視線を反らし背を向けてしまう14番。気まずそうな、また罪悪感を持った目。
だが苗字の思考の中から14番のことはぼんやりと霧掛かり、除外されていった。今苗字の頭は大半を虚の出現に占められていたからだ。集中すると、虚の気配を僅かながら感じられ、その一点に集中し集まってきていることも把握していた。だが、引き返せという命令は下されない。余りにも気の抜けた目の前の光景に危機感は微塵も無かった。かく言う苗字もまた起き上がりもしないのだが、意識は虚の気配を時々追っていた。
その時だった。
追っていた気配が突然枝分かれしたかように飛び散り、何の前触れなくふつと途絶えた。
虚を突かれた。同時に苗字の目もその破裂と共に見開かれる。高速に移動を開始した虚の動きに遅れをとってしまった。
こっちに、近づいてきている……?
そう思うや否や、辺りが一斉に騒乱状況となり一つ高音の悲鳴が闇夜を貫いた。
余りの虚の速さに、苗字は瞠目し、ゆっくりと顔を擡げていく。
突如として出現した虚に、その場は悲鳴と混乱と恐怖に塗り潰され錯乱状態へと化していた。あらぬ方へと生徒が逃げ惑い、六回生が何事か怒鳴って命を飛ばしているが誰も聞く耳など持っていなかった。
先に現れたのは、二体の虚。然もその内の一体は巨大虚ときている。80地区で幾度も虚を見てきたが、これ程巨大なのは初めて見る。
六回生はあらん限りの声を張り上げ一年にむけて穿界門まで逃げるよう怒鳴っていた。もう一人の六回生は虚と向き合い刀を抜いていたが、一体に気を取られている隙にもう一体に背後を取られ鋭い先端に胴体を串刺しにされ絶命した。
近くを通り過ぎようとしていた生徒にその血飛沫が降りかかり、恐怖と絶望の入り混じった収喚をあげ混乱は更に拍車がかる。苗字もまた周りなどまるで見えていない生徒達に押し退けされながらも穿界門へと走った。ここで前線に出るほど強くもないし、死んで終わるのが目に見えている。役無しは身だけ自力で守れれば上等な方だ。
そう他人事の如く構えていたのだが、苦悶の唸り声に後ろを振り返ってしまった事が駄目であった。
穿界門へと誘導していた六回生が、耳に付けた小型無線で連絡をしようとした正にその時に、巨大虚の腕が顔を掠め耳が潰れてしまった。あれでは救援を呼ぶことさえ出来なくなってしまった。
逃げ遅れている生徒達へ虚の刃は今尚襲いかかり、一人の生徒の体が血反吐を吐いて空に放り出された。
その様子を冷静に見ていた苗字は、自分ができる最善の行動と考え生徒達に逆らって惨殺の場へと戻るため走る。もし応援が遅れれば、自分の身も危険になる。逃げるのに支障をきたすだろう。耳を劈く程の悲鳴を聞きながら、己の生存確率を淡々と計算していた。
取敢えずまずすべきことは救援の要請だ。一人果敢にも虚に立ち向かっている六回生に送信は不可能だろう。講師は恐らく既に絶命しているだろうから、此処には帰ってこない。因ってここにある無線機は、六回生の死体の持つ無線機のみ。
苗字は生徒達に逆らって走りつつその亡骸を探した。丁度虚の真下に倒れている。それを確認したが早いか、逃げ惑う生徒の背後に虚の腕が振り下ろされると、躊躇いなく苗字はその手首にぶら下がった。
「よっと」
体は空高々と持ち上がり、目にも止まらぬ速さで横に薙ぎ払われそうになる前に体制を変え両足で腕を蹴りばねの様にして真下へ落ちていった。
コンクリートに体を打ち付け痛みに顔を引きつらせるが、上からの虚の攻撃を転がるようにしてかわし、其の儘死体から無線機をもぎ取った。その間一髪で更なる攻撃からは逃げられたが鋭い爪が地面と死体とを貫通させ、血飛沫が苗字の体を濡らす。
「此方、二回生の実践演習現場。現在地点の座軸は…読み方わかりません。それより、之ちゃんと聞こえてるかな」
再びぎりぎりで攻撃を交わしつつ、何とも間の抜けた声で喋る苗字。声を聴く限りでは殺戮の場で話しているとは到底思えない。
「兎に角、至急救援をお願いします」
間延びした声でそう締めくくると無線機を放り投げ、切れのある動きで華麗にスキップを踏む様に体の方向を変えた。其処に爪が突き刺さる。即座にその隙をついて苗字は浅打を槍の様に仮面へと投げつけるものの、浅く刺さっただけで致命傷には程遠い。
苗字は舌打ちし、立ち止り刀を引き抜き投げ捨てる虚を見上げた。
よし 逃げよう。
苗字は自分がこの程度の人間であることを重々承知しているし、力量もない事もよく知っていた。だから真っ向から戦うという判断は生まれる前からかなぐり捨てている。此れだけできれば上等な方ではないだろうか。
そう決断したはいいが、虚はこうも易々とは懐に飛び込んだ敵を見逃してはくれなかった。すかさず左右から容赦のない攻撃を仕掛けられる。最初は何とか避けきれていた苗字だったが、速さについていけず自分の足に躓き後ろに倒れてしまった。
上から虚の咆哮が空気を震わす。顔を上げると、最早避けきれない速度で苗字の肉を引裂こうと腕が迫り____……、
視界が刹那 真っ白に塗り潰された。
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