それから数日後、四番隊で執務をしていた苗字は山田に松本の事を聞いていた。
苗字の口から松本の名が出るとは思わなかった山田は、何処か不思議そうに隣で書類の整理をする苗字を見やった。
「珍しいですねー。苗字さんが誰か特定の人の事を聞くなんて」
「遊女かと思ったから」
「ゆっ?!!」
間の抜けた顔をしていた山田が、苗字の何の気ない言葉に突然目をギョッとさせた。
「ま、松本さんは遊女じゃないですよ!」
書類を書きつつ「違うの?」と聞き返す苗字に対し、山田はとんでもないとでも言いたげに「違いますよ」と返してきた。
「流魂街の出って事は知っているんですけど、それ以外は僕は………。あ、結構治安の悪い処だったような……」
考え込む山田を無言で見つめつつ、内心では小さく溜息をついていた。
矢張り簡単には解らないか。書類以外に、分かる事があれば参考になると思ったのだが。引っかかるのは髪の色くらいで、まだ彼女の印象が朧げで上手く形作られていなかった。
やっと見つけた手がかりに、苗字は期待もあったが戸惑いもまた生まれていた。
だが死神になってずっと探していただけあり、迷いは抑え込む。それが此処に留まる理由であり、それ以外に死神の犇めく内に紛れる謂れなど無い。
「はい、書類終わり」
「えぇっ、もう終わったんですかぁ!?」
慌てて山田が苗字の机を覗きこむと、そこにはきっちりとまとめられた書類が積み重なっていた。
この短時間で………と呆気にとられている山田をよそに、苗字は既に立ち上がりうず高く積まれた書類を持ってドアまで歩いていった。
「あ、苗字さん」
それを呼び止めようとするものの、何も無いのに転び頭から床に激突した山田を振り返る苗字。
「………大丈夫?」
言葉のみで、駆け寄り助け起こそうとはしない。
「………あは、は……。だ、だいじょーぶです」
「何」
「もし詳しく知りたいんでしたら、日番谷隊長に聞く方がいいと思いますよ。お二人とも、仲が良いみたいだから……」
床に突っ伏したまま、情けなくへなりと笑う山田。
「じぁあ、気が向いたら」
短くそれだけ告げると、苗字は部屋から出て行った。
出て行った後一人残された山田は、
「最近、苗字さんの趣味が分からなくなってきたなぁー………」
理解できない苗字の言動に首を傾げた。
◇
書類を抱え四番隊を後にした苗字は気づかれることなく、死神の機密書類を引っ掻き回しに訪れたが、矢張り一人一人の個人情報は極僅かで身近な人物に聞いた方が手っ取り早い事を確認はできたが、誰かにこのことを尋ねようとは思っていなかった。
技術開発局の副局長も、他隊の死神など顔を知る程度だろう。
殆どの書類を配り終わり、残った書類を持って苗字の足は十番隊に向かっていた。特に意識したわけでもないのに、気が付けば十番隊のものだけ後回しになっていたようだ。逃げようとしている己に気づき、思わず呆れてしまう。
隊舎に辿り着くと、何処からか楽しげな笑い声が聞こえてきた。ふと気になりその声が漏れている窓の下まで行くと、書類を懐にしまい七、八階はゆうにある高さの壁に足をかけ瞬歩を使い駆け上がる。その窓の淵に手をかけると、中を覗き込んだ。其処にあった光景に、苗字の目が見開かれる。
中には、声を上げてはしゃぐ松本の姿があった。抗議の声を上げ額に血管を浮きだたせもがく白髪の少年に覆いかぶさるようにして抱き付いている。更にその松本の肩によじ登って楽しげに笑うピンクの髪を持つ少女もいる。
二人とじゃれる松本を見、苗字は記憶の中の少女とこの女性がはっきりと重なるのを確信した。確かな証拠など、最早必要ではなかった。苗字の本能で、彼女がそうだと分かる。
そうだ。彼女が、あの頃の少女。
変わってない。苗字はぼんやりとそう思った。
人との隔たりを持つ自分に対し、変わらない笑顔を向けてくれた性格も、あの太陽のような明るさも、華のある雰囲気も。全てが朧げになっていた記憶と合わさり、鮮明さを甦らせていく。影がかっていた笑みが、今目の前にあった。
思わず、口を開こうとし、だが途中でその口はゆっくりと閉じられていく。
変わっていない彼女に対し、己とを比較し思考に影が落ちる。
自分は名乗る資格など果たしてあるのだろうか、と。
自分は、あの頃と余りに変わってしまった。歳月の経過と共に、性格に歪みが生まれ暗闇と憎悪が苗字を形成した。
あんなに、無邪気に微笑む彼女の隣に戻る自信など、今の苗字には無かった。自分には勿体なさすぎる。
それに今更彼女に言って何になるだろう。彼女の今のこの世界を、狂わせることにもなり兼ねない。それは自分のせいで彼女の居場所を奪う行為に他ならないのだ。
成長の止まってしまった苗字に対し、彼女は立派は女性になっている。
白髪の少年とまだじゃれている姿を、苗字は何処か影のある笑みを浮かべ見つめる。こうして見つめるだけで、苗字は嬉しかった。昔の様な関係にならなくていい。気づいてもらえなくていい。
彼女が今幸せであることが分かっただけで、苗字は満足だった。
以前だったか彼女もまた、苗字を困惑した目で見つめていた。似ていると思っても何事も無く接してくるという事は、もう苗字のことなどどうでもよく思っているか、消えた存在として扱ってくれているのかもしれない。所詮自分は過去の存在で、今を生きている彼女には過去の産物になっていることも仕方がないように思う。寧ろそうであってほしかった願望もある。
苗字は一瞬俯き、再び上げた顔は穏やかさはかき消され無表情であった。そのまま、ひょいと体を窓から引き上げ三人を見つめた。
「何だ、此処は託児所か」
「託児所じゃねぇ!」
怒鳴り声を上げ此方を睨み付けてきた日番谷は、苗字である事が分かると動きを止め目を見開いた。
「………お前」
飄々とした動作で手をあげる苗字。松本も日番谷から離れ此方に笑いかける。
「あらいらっしゃい。珍し〜、どうかしたの?」
「こんちには、いやー子供の扱いがお上手で」
「俺は餓鬼じゃねぇ!っつかお前には一番言われたくねぇっ!」
「何言ってるんですかぁ隊長。隊長だってまだまだ子供なんですから威張れる立場じゃありませんよ〜?」
呑気な副官の言葉に更に声を荒げ怒鳴る日番谷の背から、ひょっこりと顔を出してきたピンク色の髪の少女が、苗字を見るときょとんと首を傾げた。
「この子、だあれ?」
松本が説明してやると、納得したのかぱっと笑顔になる。
「あ〜、剣ちゃんが言ってた腰抜けちゃん!!」
本人全くその言葉に悪気はないようだが、慌てて松本はその少女の口を覆った。
「やちる〜、そんな事言っちゃ駄目でしょ!」
「だって剣ちゃんがそう言ってたんだもん!」
松本の手を振りほどくと少しむくれた顔で口元を尖らせた。
「変な力も、弱い小動物のもつ卑怯な手だって!だからそんな弱虫とは遊ばないんだって剣ちゃん言ったよ?」
余程その剣ちゃんが言ったことを否定されたのが気に食わないのだろう。今にも駄々を捏ねそうな勢いだ。そんなやちるの機嫌を直そうと饅頭を差し出す松本を見ていると、日番谷に険しい視線を向けられている事に気づいた。
そう言えばと、阿近の言っていたことが脳裏を過る。
『_____お前のことを嗅ぎまわっているぞ』
最年少で隊長を務める器だけのことはある、ということか。
薄ら笑うと、苗字は懐から書類を差し出す。
「書類ですが、目を通して頂けますか?」
「………わざわざ済まねぇな」
そう言い受け取るものの、日番谷の目は苗字の事を凝視したままだ。
「………てめぇに、聞きてぇ事がある」
「応えられることであれば、いくらでも」
日番谷の眉間の皺が更に深まる。
「お前、何故霊圧を隠している」
思った通りの質問に、苗字は絶句して見せた。
「驚いた。いつから私は霊圧を持っていることになっているんです?」
「しらばっくれんじゃねぇ。ならあの力はどう説明する気だ」
「人間やろうと思えばなんだって出来る」
飄々とした声で、それでも大真面目に言ってのけた苗字にブチ切れ寸前の日番谷の隣に、松本が並んで来た。
「ちょっと、お子様同士が何険悪なムードになってんのよ。隊長がそんな怖い顔しているからですよぉ」
松本が日番谷の頬をつねるので、頑なな態度で其れを払いのけると強面のまま顔を背けてしまう。
ぎすぎすとする空気に、苗字は無意識的に出て行こうとした。
「………では、お邪魔なようなので私はこれで」
「え、まだ来たばかりじゃない!もっとくつろいで………」
みなまで聞かず、苗字の身体は窓の外へと消えてしまった。
残念そうに窓を見ていた松本の視界に、ひょっこりとやちるが顔を覗かせる。
「リンリン行っちゃったねぇ〜」
「そうねぇ……って、リンリン?」
苗字のことだろうかと首をひねると、やちるはにっこりと笑う。
「あの子の渾名だよ!腰抜けちゃんじゃ、かわいそうでしょ?だから、黒い鈴持ってるから、リンリン!」
「す、ず……?」
無邪気に、やちるはうん!と頷いた。
松本は、己の声が掠れていることに気づいた。思わず体がよろけ、机の角につかまり体を支える。頭を押さえる指の隙間からのぞく瞳は、大きく見開かれ動揺で揺れていた。
その様子を、やちるは不思議そうな顔で見上げている。
どうして………。
再び襲う、後悔に塗れた過去。あの子を見ると、いつもそうだ。
どうしてこんなにも、あの子はあんたに似てんのよ………
松本の顔が、苦しげに歪む。険悪な顔で考え込んでいた日番谷も、やっと副官の異変に気づき、怪訝な視線を向けた。
「……松本…………?」
_____でも、有り得ないじゃない
睫毛を震わせ、松本は過去を振り払う様に強く目を瞑った。
◇
凍えるほど冷え切った風に、少女は眠りからゆっくりと目を覚ました。
薄汚れ、小屋というよりかは廃墟のような造りの中、少女は上半身を起こし半開きになっている扉を見つめた。隣で眠っていたもう一人の温もりを微かに感じつつ、目を向けずとも其処にはいないことが分かっていた。
草鞋一組を置き去りにして、消えてしまったあの子の草鞋の跡。それを、少女はぼんやりと見つめている。
行ってしまった。
少女は何処へ向かって行ったのか、分かっていた。
あの子は隠していたつもりなのだろうが、少女にはあの子の心が遠い別の場所に向いていることを知っていた。
嘘、下手ね。
少女は心の中でそう呟く。
今まで確かにあったはずの温もりすら幻覚だったように失い、そんな少女の身体を容赦なく風は冷やしていく。少女は只静かに、顔を俯かせた。
また 独りになった
少女の虚ろな瞳は、ただじっと、一つになった草履を映していた。
◇
ガクンと身体が傾く衝撃に、はっと苗字は目を覚ました。
あの体の芯まで冷やすほど凍えた空間でないことに困惑したのも僅かで、すぐ自分の居る場所を理解する。此処は流魂街ではなく、瀞霊廷の中だった。
まだぼんやりする頭のまま、座っている椅子の上で背をのけぞらせた。
乱菊と出会い、悪夢と並行しこの様な昔の記憶を夢として見る頻度が最近増えていた。あの頃は、彼女に捨てられたのだと思った。あの子は自分ではなく、心に秘めていた少年の方を選んだのだ、と。今ではそうであった方が良かったと思っている。
そう言えば、死神になった後その少年には会えたのだろうか。あれ程に思い詰めていたという事は、好いていた相手だったのだろうか。
天井を見上げうつらうつらとそんな事を考えていると、苗字を囲む様に集まる彼ラの気配がじわりと空気に侵蝕してくるのを感じた。彼ラの存在と、己がこんなことを考えられるほどの資格はないことを再確認すると、苗字は大きく伸びをし部屋から出て行った。
苗字は、幸福の前で視界を覆う。
其れは己の弱さなのか、それとも____。
向かった先は、瀞霊廷内でも割と人気のない場所。苗字が外を歩くだけで複数の視線が向けられるのだが、それをかわしつつ着いたのは、建物の影に隠れるようにある通路の角。其処は物置場として使われているのか、いい隠れ蓑になっている。その隙間に体をねじ込ませると、薄暗く狭い空間になっていた。
今日は山田に斬術を勧められていたのだが、断ってきていた。恐らく彼らは、都合よく入った仕事に向かったと思っていることだろう。四番隊なのに刀を扱う事に驚いたが、護身術程度には皆できるように訓練しているのだという。だが四番隊を相手にしてくれる隊などそうは無いわけで、隊内のみでこじんまりとやっているそうな。
苗字は死神になっても尚刀を扱わないという信念は曲げてはいなかった。少女の中では今も尚、それは嫌悪の対象でしかない。
しかし今日断ったのはそれだけの理由ではなかった。鈴に宿った能力を使いこなす必要があったためだ。阿近と先日交わした会話を、苗字は回想する。
『お前、そういやあの能力は上手く扱えるようになったのか?アレ以来使っていないようだが?』
すっかりそのことを忘れていた苗字は、あぁと思い出したように頷いた。
『あれね。実はちょっとやろうかとは思っていた』
信用していない阿近は、苗字の言葉を完全に聞き流す。
『いつか必要になった時に発動できねぇんじゃ笑い話にもなんねぇぞ』
…………。
必要になった時、か。
そうは言うが、そんな面倒事に首を突っ込む気は無い苗字は必要性など感じていない。だがこの能力が己を死神に引き入れた理由であるならば、原理くらいは理解した方がいいのだろう。
初めて能力を自分の意志で使った時の事を思い出す。
だがあれは、言葉でどうこう説明できる感覚ではない。何も考えることも無く、知らないはずの言霊を唱えていた。力に導かれた、とでも言うのだろうか。そんな非原理的なことなど信じたくないのだが。
「意趣返せ」
あの時自分は、確かにそう唱えた。言霊はその言葉自体に力を宿す。もしそうなら………。
実行すべく、苗字はこの実験のため準備していた鳥籠に近づく。中には、ばたばたと狭い空間を飛び回る小鳥が入っていた。本当は人で行うのがベストなのだろうが、如何せんこれで我慢する。中から小鳥を引き出し、暴れるのを押さえつけるとナイフで羽の一部を切り取った。小鳥の羽ばたきが徐々に弱まっていき、苗字は痙攣を引き起こす体を横たえさせた。
力の原則として挙げられるのはまず、相手の攻撃の事象を変え対象をすり替える。ならば総隊長の攻撃は何故変えられたかったのかという矛盾点が生まれてくるが、力の力量差が著しいためだとすれば合点がいく。また最初は治療能力だと思われていた力も、この原則を元に考えると異なった事実が浮き彫りとなっていく。
全てが、復讐法に基づいた能力だとしたらどうだろう。
相手の攻撃に対し、復讐を。
傷を受ければ、それ相応の復讐を。
あの時は消えかかった霊子が対象だったため、知覚できなかったに違いない。
「秩序均境、滅」
物は試しと、苗字は唱えた。
「___意趣返せ」
鈴が一つ鳴り、反応を示す。傷が黒い半透明な膜で覆われ、瞬く間に傷が収縮されていきまるで最初からなかったかのように元に戻った。もがいていた小鳥は元の様に羽を羽ばたかせ空へ飛んでいった。
空を仰ぎ見、憶測は外れたのだろうかと考えていると右手に激痛が走る。
視線を下げ見つめると、親指の付け根がぱっくりと割れ親指が皮一枚で繋がった状態になっていた。そこから血が大量に噴き出し手を真っ赤に染め上げている。
「うわ、これは酷い」
間の抜けた声を上げるものの、視界が一瞬真っ暗になる。
動脈が切れたらしい。鳥もこれだけ痛かったのかと朧げに考えながら、傾きそうになる体を何とか持ちこたえよろよろと一歩踏み出した。
◇
______………
暗く腐臭のする森の中、自分と同じくらいの背丈の男の子が、苗字の手を引いて歩いている。その背を、苗字は見上げていた。その腕には、あの重く圧し掛かる鎖は繋がれていない。身体も軽く、穏やかな気持ちに掌も、目元も熱くなる。
何度も何度も流れたこの映像に、ああ、またこの夢かと、苗字はぼんやりと思う。
決まっていつもこの男子の顔が見えない、あの夢だ、と。
乱菊と出会う前の、更に昔に出会った凪時。
昔、あんなに目に焼き付けていたというのに。
その時ふと、男の子が苗字を振り返った。その顔もまた、黒く塗りつぶされ見えない。
突然砂嵐のように、ジジジッ…………と目の前の男の子の像がぶれ始めた。
消えてしまうとそう思ったのも束の間、そのぶれに交じるかのように別の少年の像が見え隠れしだしたのだ。
「………っ」
苗字は困惑を隠せず目を見開く。
滲み出てきた、あの男の子よりも、少し背の高い少年が振り返り_____
ジジッ…… ジジジッ……ジ…………
その顔が見えるか見えないかのところで、周囲が闇に堕ちた。
◇
伸ばされた手が、何かを掴む。
ベッドが軋む音が、静かだった空間にやけに響いた。
苗字は自分が荒い呼吸をしていることを頭の片隅で認識しつつ、此処が四番隊の一室である事に気づく。何時の間にこんなところで寝ているのか全く覚えがなく、頭痛を引き起こしている頭を包帯の巻かれた手で支えた。
「………おい」
男の声に、ふと苗字は頭を擡げると、ベッドに腰かけ煙草を吸いつつ、此方に唖然と視線を向けている阿近と目が合った。気づかなかったが、阿近が此方に伸ばそうとしたのか中途半端に宙に浮く腕を苗字は握ったままになっていた。
その体制のまま硬直している阿近を一瞥すると、苗字はぱっと手を離す。
「あぁ……、御免なさい」
離すと同時に、体を深々とベッドに沈める。阿近の脇にいる首の断片を覗かせる少年を見つめつつ、俄に呟いた。
「何でいるの?」
阿近は一瞬目を瞬くと心底呆れた顔をした。煙草を咥えなおすと、ふいと苗字から顔を背ける。
「お前な、この状況でそれを先に言うか?」
「結構切実だと思うけれど」
じぃ………と凝視する首の無い少年の視線から顔を背けると、阿近を流し見る。問いかけに応えようとしないので、質問内容を変えることにした。
「どうして、私は此処に?」
煙を燻らせていた阿近が、ちらりと此方を覗う。特に用がある訳でもなさそうに腰かけているだけで、苗字は何故此処に阿近がいるのかが解らなかった。
「お前、血を垂らして爆睡してただろうが」
そんな事も覚えていないのかとでも言いたげな視線を寄こしてくる。まぁ、廊下のど真ん中で寝てたとなると呆れられるのも当然か。
「………お前もこりねぇ奴だな」
そう言った阿近の声は何時もの不愛想なものなのに、苗字がその目を見やると、別の感情が混じっていることに気が付き苗字は眉間に皺を寄せた。
「これは実験の代償でしかないのだけどね」
苗字は起き上がると、片眉を吊り上げ此方を見る阿近を横目で見やる。
「仮説が正しいかどうかの、ちょっとした実験。副局長も、気に入ると思うよ」
その後事の事情を説明すると、阿近の一声は、矢張り「阿保か」であった。
「んなの身近の人間で代用すりゃあいいだろが」
「例えば副局長、とか?」
試しに聞いてみると、無表情のまま押し黙ってしまったので、苗字は白々しい笑みを見せた。
「驚いた。いつからそんな献身的になったの」
「………で。少しは扱えたのか」
話を反らされたが、苗字も構わず話を進める。
「それは此れから。もしかしたら技術開発局の一室を借りることになるかもしれないから、その時は宜しく」
「好きにしろ」
投げやりに阿近は応えると、ふと苗字が弄っている手元が気になり首を動かす。無意識行動なのか、左の手首に巻かれた紐をそっと撫でている。其れは今や元の色が解らないほど劣化し、鈴を繋ぎとめているのもやっとに見えた。
「お前、そろそろ変えたらどうだ?服装といい惨めだぞ」
「惨めじゃない」
今までとは違う、力強い声で反論され、思わず阿近は口を噤む。眉間に皺を寄せ様子を覗うと、苗字は紐を強く握りしめ再び口を開いた。
「私には、これしかないから」
それはただ単に、物的な意味であろうか。それとも、別の意味なのか。
阿近はその紐に何か思い入れがあるのだろうかと我ながらどうでもいいことに疑問を持っていると、苗字が首を動かし入り口の方を見やった。
「誰か来る。副局長は、そろそろ戻った方がいいね」
先程のことが嘘だったかのように、苗字の様子は掴みどころがなくなっていた。それ以上追及するのも憚られ、阿近は何本目かの煙草を咥えなおし出て行った。
彼は何時も、振り返る事はない。
その背を見送り、数分後。彼ラが指示した通し、また別の人が入って来た。
「あ、もう起きてたんですねぇ〜。具合のほうはどうですか?」
間の抜けた声をのばしつつ笑顔で入って来たのは、山田 花太郎であった。
「まぁ、寝てただけだけれど」
「ホントですよぉ。もー、驚いたんですからね。ばったり倒れてたから………」
そう言いつつ近づくと、包帯の巻かれた手をそっと持ち上げ経過を見つめる。
「まだ包帯は取らないで下さいね。傷口が開いたら大変ですから」
何とも警戒心の無い笑みを浮かべる山田。苗字は顔を俯かせた。
「此れ、七席が治療したの?」
え、と顔を上げ目を瞬かせると、山田はへラッと笑ってみせた。
「弱い僕でも、このくらいはできますから………」
苗字は只、伏せられた目で手を見つめる。
「………そう。ご立派ね」
「え、えぇ?!」
苗字の呟きに、素っ頓狂な声をあげた。山田が治療で褒められたことなど今まで一度もなかったからだ。
「ぼ、僕なんかよりもすごい人なんていっぱいいますよ!た、例えば、十一番隊とか、六番隊の皆さんとか………」
狼狽しつつしどろもどろになって言い訳じみた事を並べる山田に対し、苗字は視線を上げ首をひねる。
「第七席のいう強さは、戦闘能力の高さでしかないの」
「へ?」
「人の命を救える治療能力がある者は強くないないて、誰が決めたの」
苗字の言葉に、言い返せなくなる山田。褒めてもらえていることに遅ればせながら気づき、赤面した顔を恥ずかしげに俯かせた。
「第七席は、強いよ。斬術で後れを取っていることを恥じる必要なんてない。第七席は、与えられた役割を全うしているのだから」
褒められることに慣れていない山田は、更に顔を赤くしせわしなく指を動かしていた。それでも、心は苗字の言葉で満たされていた。嬉しくて、思わず首の後ろに手をやる。
「で、でも、それをいうんなら苗字さんだってそうじゃないですか」
「私の力は、貴方のものとは違う」
独り言のように呟かれた言葉に、山田は何のことか理解できずぽかんとしてしまう。
苗字は静かに、虚ろな目を閉じた。
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