何時もながら怒涛の勢いで稽古に励んでいる十一番隊の道場は、入る事すら足が竦んでしまうほど荒くれだっていた。最近主立った出動命令も無いためこうして手当たり次第にやり合っているわけだが、すでに彼等の中には鬱憤が溜まりだしている者が何人かいる。
班目一角も、当然その内の一人である。
この道場で部下の相手をしているが、全く相手にならず肩慣らしほどの体力すら消費しないため体が鈍りきって敵わなかった。非番日に80地区へ行ったとしても、死神という役職柄むやみやたら喧嘩も吹っ掛けられず。そう考えると、自分が争いたいときに自由に殺し合えたあの頃の方が遥かにましだ。
だが………、と、班目はその考えをすぐさま打ち消す。
此処に居る理由が、班目にはある。この隊でなければならない確固たる意志が。
班目は息を吐き出すと、軽々と木刀を持った男を返り討ちに合わせ、木刀を肩に担ぎその場を離れた。
誰でもいい。強い奴と殺り合いたい。
その欲求不満と苛立ちで、自然と漏れる舌打ち。こうも何事も起こらないとなると、気怠くもなってくる班目であった。
班目は道場から離れ、その足は厠へ向かっていた。班目が厠に近づくと、タイミングよくそこから男が出てきた。男はもう一度中をのぞき込み怒鳴っているようだ。
何だ?と片眉を吊り上げ立ち止る班目。
「分かったな、さっさと終わらせろよ!」
その後も一頻り怒鳴った後バタンと戸を閉めた隊士は、後ろに班目が立っていることに気づくと深々と頭を下げた。
「これは、班目三席」
「何だ、厠で取組中か?」
不機嫌気味な声で班目が聞き返すと、隊士は蔑みを込めた目線を厠へ向けた。
「いいえ、四番隊の野郎に掃除を頼んだんすよ。脅しておきやしたんですぐ終わりますよ」
何を思ったのか男は成果を班目に見せつけるかのように、厠の戸を開けた。
最早意識が逸れていた班目は既に横を通り過ぎようとしており、横目でその中のものを捕えその目が怪訝に細められた。男も開けたはいいが、その光景に絶句している。
其れもそのはず、中にはまだ作業を始め十秒と経っていないにもかかわらず爆睡している四番隊隊士の姿があった。手に清掃用具を握りしめてはいるものの、壁に向かって懺悔しているように頭を壁に押し付けた体制のまま寝ている。
「て、てめぇ何ものの十秒で寝てやがるっ!!さっさと起きやがれ!」
男が再び怒鳴ると、四番隊隊士の首根っこを掴み乱暴に上下に揺すった。追い打ちをかける様に欠伸をする隊士に、男の堪忍袋の緒が今にもぶち切れそうだ。
その様子を横目で見ていた班目は、男に向き直り明らかに汚い厠を前にして掃除する必要はないと真顔で嘯く四番隊隊士をまじまじと見つめた。四番隊とは関わった事も無いというのに、どういう訳かその隊士が班目の記憶に引っかかっていた。
鼻先まで引き下ろされたフードに、着崩した死覇装。そして何処か飄逸的な喋り方。
班目の中で、何かが引っ掛かる。何処かで見たような気がするのだが、四番隊の奴と顔見知りであったことなどないはずだ。いいや、断じて無い。
最早睨んでいるとしか言いようがない目つきで班目が凝視していると、その目が袖から覗く鎖を捕え大きく見開かれた。
「あ゛あ゛ぁぁーーーッ!!!」
突然のどすのきいた叫び声に男は泡を食い、片や苗字は何とも白けた態度で首を後ろに回した。すると坊主の男が苗字に向かって指さし、額に青筋を浮きだたせているではないか。
その姿に、苗字は思い当たる。
………ゆでだこ。
そんな事を苗字が考えているとは露知らず、班目がビシッと突き出した指は怒りと興奮で震えていた。
「てんめぇ、あの時の餓鬼じゃねぇかっ!!」
「………あの時?」
「忘れたとは言わせねぇぞ、80地区で俺の金スっただろうが!」
金銭を盗んだとなると思い当たるのはあの一度きりの事しかない。苗字には印象が薄かったが、もしかしたらこんな坊主だったような気がしなくもない。
暫くぽかんとした後、あぁと何か思い当ったのか納得気味に肯く苗字。
「あの残額五千環の死神?」
言うや否や、先程まで苗字の立っていた位置に木刀が振り下ろされ騒音と共に大きくその場を抉っていた。それを後ろへ避けていた苗字が、木刀を振り下ろした張本人である班目を静かに見上げる。
「……まぁ何はともあれ、噂の隊士があの餓鬼だったとはな。うちの隊長の反応も頷けるぜ」
嘲弄し、見下す様に鼻で笑う班目。木刀を再び持ち上げると、其れを肩に平行に担いだ。先程の金銭に関する憤怒はもうどうでもいいらしい。
「だがどういう訳だ?てめぇは69地区の芸者のはずだ。縁のねぇ80地区に何で居やがった」
疑念感をつのらせ、眉を顰める班目。
余程この男は80地区にこだわっているようだ。まずは手始めに出方を見てからにしようと押し黙っていると、近づいてくる一つの霊圧に気が付いた。その間も、彼の追及は続く。
「てめぇのお仲間共の身元は割れてんだ。付き合いがあったところからして、てめぇも其処出身だろ?」
「どうでもいいですけど、厠掃除の続きをしてもいいですか」
再び此方に振り下ろされる木刀。其れを苗字は清掃用具で受け止める。木が軋む音を立てぶつかり合った。
「………今は厠用具振り回してお遊戯する気分じゃないんですけれど」
「気に食わねぇな」
低く呟かれた声に、苗字は直ぐには見逃してはもらえない事を悟った。
「80地区出身で、四番隊ってか?気に食わねぇ。気に食わねぇな。80地区に、てめぇのようなしけた輩はいらねぇんだよ」
え、怒るとこそこ?と思ったのも束の間、何か袋が落ちる音が後ろからした。
何事かと振り返ると、苗字の目は大きく見開かれた。持っていた用具が、するりと手から滑り落ちる。
其処には、顔を真っ青にした松本が立っていた。
特に他人に聞かれたところで害はないと思っていた。その油断が仇になった。よりによって聞かれたくない松本だったとは。だが、もう悔やむ余裕すら苗字にはない。口をわなつかせている松本を、見つめ返すことしか出来ずただ立ち竦む。松本の大きく見開かれた瞳が、動揺に揺れる。
「あぁ、松本さん。うちの副隊長に用っすか?」
松本の存在に気が付いた班目の呼びかけすら、松本の耳には届かない。流石の班目も、この無言の沈黙にただならぬ感を感じ取り押し黙る。
今まで松本は、この少女は69地区の芸者だと思っていた。だがそれが偽りで、昔は80地区にすみついていたとなればもう認めざるを得ない。答えは、自ずと出てしまった。
「………一?」
そうであってほしかった気持ちと、そうであってほしくない気持ちの両方が入り混じり、掠れた声が口から洩れる。
その懐かしい響きに、苗字の肩が微かに震えた。思わず一歩、後ろへ体が動く。
恐れだけではない。傍から見ては分からぬ苗字の内部で、異変が起きていた。
「一………なの?」
違う。
だが、声にはならない。一歩、一歩と、躊躇いがちに松本が近づいてくる。
駄目。彼女に気づかれては駄目だ。
感情が、苗字を置いて加速していく。
彼女にとって苗字との思い出は決して良いものではない。其れは彼女の苗字を見る目で分かっていた。自分が現れたことによって、彼女の中に埋もれていた記憶を掘り起こすことを、苗字は望んではいなかった。
なのに、どうして。どうして放っておいてくれないの。
このまま忘却してくれないの。
私は既に、貴女にとって死んだ存在になってしまった。
「………はじ……」
「___その名を呼ばないで」
苗字の低く唸るような声に、その場にいた者全員が息を呑んだ。何事かと、辺りには人だかりができていた。だがそんな光景さえも、苗字の目には映らない。其れだけ、苗字は取り乱していた。
胸が息苦しく、動悸が激しさを増す。体が、感情が、塞ぎとめられない。
「一は。一は………」
フードを被った頭が、小さく震える。
「もう、いないのだから」
震えているが、はっきりした声で言う苗字。そんな苗字を、愕然とした顔で松本は見つめる。
静まりかえった静寂の中、苗字は背を向け一瞬よろけると瞬歩で消えてしまった。
「____っ!一、待って!お願いっ!」
松本の悲痛な声が響く。
班目は未だ何が起こったのか状況を呑みこめていなかったが、自分の獲物が逃げてしまった事だけは解った。ポカンとしていたのも束の間、当初の目的を思い出し顔が険悪になっていく。
「んの野郎逃げんじゃねぇ!」
「一角、あんたは首突っ込んでこないでっ!」
横を走り去っていく松本の剣幕の方が上手で、班目はその剣幕に気圧され再び呆然とする。
「あんなおっかねぇ松本さん、初めて見たな………」
◇
息苦しい。
鈍痛が頭の思考さえままならなくさせ、痛みだけが苗字を支配していく。
気配がない事を確認し、よろよろと廊下の手すりに身を預ける。
緊迫した精神が体を強張らせ、突然襲う吐き気に顔を歪ませる。
_____何、この感覚は。
感情が、自らの意志から離れ独立した意志を持っているかのように突然狂いだしている。体を置き去りに、感情だけが独り歩きしているようだ。
もう何も考えられない中、只不安だけが爆発しそうになる。瞳は見開かれ、嫌な汗が額から流れ落ちる。この気を落ち着かせようにも、その術を知らなかった。それでも平常心を取り戻そうと足掻きもがく。噴き出された感情が、苗字の思考までかき乱し今己の置かれた事態を対処できない。
蹲る少女を嘲笑うかのように、
その突然生み出された畏れと恐怖が、辺りの影と共に手すりにしがみついている苗字に向かってじわじわと手を伸ばす。
はっと、その気配に苗字は後ろを振り向くや否や、周囲にいた彼ラが一斉に襲いかかろうとしていた。何万と一斉に伸ばされる腕の内一つが、苗字の首を捕える。ニヤリと笑った口元が、茫然と見開かれた苗字の目に映る。
後ろへ傾く体。
一瞬で闇に塗り潰される背景。
闇へと引きずり落とされる感覚と、首を絞められる激痛の中苗字は意識を手放した。
◇
首を絞めつける力が、一瞬強まる。
_______思イ 出シテ
◇
目を覚ますと、見知った天井がぼやけた視野に映る。其処は、やっと見知った場所と認知できるようになった苗字の自室であった。その狭い空間に、苗字は寝かされていたらしい。
鈍痛のする頭を手で押さえつつ体を起こすと、身体中に痛みが走った。顔を顰め視線を下に移すと、治療されたのか鬼道の痕跡が見受けられる。更に左手には包帯まで巻かれていた。
だが怪我など今の苗字は殊更問題としていなかった。他に考えなければならないことが、いくつもあったからだ。
断片的な映像となってそれは頭に流れてくる。再び身体が脱力しそうになるのを、シーツを握りしめ何とか保つ。
突然彼ラが己に牙を剥き、首を絞められ、そして_____…………
そう、少年の顔がまじかまで迫り、それと同時に気を失った。不思議な事に、これだけ強烈な印象を残しているというのに顔立ちも、髪型さえも覚えていなかった。それどころか、大まかな印象すら思い描けない。だが、此れだけは断言できる。
あの少年は、夢の中でカレに被さるように現れた、あの時の少年だと。だが苗字は、その少年とは面識がなかった。だがその認識に反して記憶の断片に侵蝕してきたことが、苗字の心に疑心暗鬼の影を落としていた。確かに知らない少年だと、断言できるはずなのだが。
それにどういう訳かあの三日月形に笑った口元が、顔を認識できなかった分余計鮮明に頭にこびりついているのだ。目を閉じるだけで、その笑みは容易に思い描けた。あの笑みに、何故か既視感を覚える己にも、苗字は疑問を禁じ得なかった。
そう、この件だけは、如何にも無関係だと切り捨てられないような気がする。
キリキリとした痛みに、そっと苗字は首に手をやる。力が込められた箇所ははれ、内出血でもおこしているようだ。もしかしたら、握った跡がくっきり浮き出ているかもしれない。
その痛みは、憎悪と忿怒。其れは一種の繋縛のように、一向に和らぐ気配を見せなかった。
あの少年は、何か自分と関わりがあったということだろうか。
只自分が、忘れているだけなのか。
そもそも何故こうなったのかと記憶を辿り、ふと松本のことに思い当たる。少し時間がたったことで冷静に物事を考えられる今、空虚なほどに何の感情も抱かなかった。只、当分は十番隊へは行かないようにしようという自己防衛的な考えしか浮かばない。己に関心を向けられることもあるのだなと淡々と客観視している自分が、滑稽に思えてならなかった。
苗字は僅かに感じる空腹に体を起こすと、こんな時でも通常通り空腹を感じることに軽く納得しつつ、深くフードを被り直して自室を出た。
真赤に染まった空が、廊下に立った苗字に覆いかぶさる。元の空の色に侵蝕する橙色が、今が夕方である事を物語っていた。
俄に、苗字は僅かに視線を横にずらす。その視界の隅には廊下を這うように自分の影と、もう一つの影が伸びていた。それが、何の感情のない無情な瞳に映る。
「_____副局長」
日の傾きと共に肌寒くなってきた風に細く消えていく。
苗字からは見えない位置の壁に寄りかかり煙を燻らせていた阿近は、眉間の皺を其の儘に少女の声を聞いていた。
「覚えのない人間に、既視感を感じることって、ありますか」
「………ねぇな」
互いに、視線すら交えず会話だけが淡々と進められていく。
何故今その疑問を投げかけるのか、その真意さえも分からない。だが阿近には、苗字がそれに応える気などない事を知っていた。
「既視感を抱こうが抱きまいが、肝心なのはそいつがどう関わっているかだろう。どうでもよければ自ずと忘れている。その原理に俺は逆らわん」
「うん、そうだろうね」
どう回答するかもわかっている上で聞いたと窺える含意が、覗く。
分かっていた。
この会話が無意味であることを、二人はよく知っている。本題は、こんな事ではない事を。
やがて、二人の息遣いさえも聞こえぬ閑静した空間、阿近の声が重く響く。
「____死ぬぞ、お前」
余りに素っ気無く、淡々とした声だった。だがその内容は不釣合いなほど重苦しく、生じたズレが忌まわしさを増す。
物騒な阿近の言葉にさえ、苗字の反応は矢張り薄かった。ただ、己の身に起こった事を他人事のように再確認しただけ。
苗字は、斬魄刀の能力により霊圧を知覚化させ目で見ることができる。
それが、突然主に牙を剥いたとなれば結論を出すのは容易い。
あの時、確かに松本を見て苗字は動揺した。焦燥感も、少しはあったかもしれない。だがあそこまで錯乱するほどの感情は無かった。あの瞬間生まれた僅かな苗字の心情に敏感に反応し、制御出来ぬほどに煽られたのだ。
苗字の深層心理に直接働きかけ手を加えられる存在など、一つしかない。
霊圧の制御ができていないが故に、このような事態が起きたのだ。此の儘放置すれば_____………
己の能力によって、いつかは殺されるだろう。
いいや、そんな生半可なものではない。
己の斬魄刀が、苗字を殺そうとした瞬間だ。
理由など分からない。だが明白な事実が、眼下にさらけ出されただけだ。
阿近もそのことに思い当たっていたようだ。
此処まで漂ってくる煙草の匂いに、いつも以上に吸っていることが窺えた。
沈みゆく太陽は、さながら灯火のように地平線に燻る。
「刀を研げ、苗字。分かっているだろ」
阿近が此方を向いたのが、気配で伝わってくる。
だが苗字は、真っ向から拒絶を示した。
「錆は一生、消えることは無い」
背後で息を呑む気配がする。
刀をとぎ、斬魄刀を屈服させ使いこなすことが霊圧の制御に繋がる事は、よくわかっている。
「私は、死神になる気はないもの」
長い間の後、矢庭苗字は紡ぐ。まるで只文章をそのまま読み上げたような事務的な物言いだ。其処に込められた真意を、阿近は推し量れない。どう見ても、死に急ぐ自殺志願者にしか映らなかった。
「死にたがっているように見える?」
心を読んだかのようなタイミングのいいその問いに、阿近は再び息を呑み、押し黙ってしまう。
「実質的に、死にたい人間なんていないと思いませんか」
苗字がゆるりと振り返ると、文字通り苦い顔をして此方を見ている阿近を見返した。
阿近はその影に塗り潰されたフードの奥が、本当に闇に覆われているように見えた。
くっきりと自己を象徴するかのような影が、阿近を覆いかぶさるように伸びる。
「羽が折れて空高く舞い上がれる鳥がいないように、血を流すと同時に喜べる心臓なんてない」
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