あれから、約九年が経過した。
 その年の、花盛る春の頃。

 北流魂街69地区の南端地点。
 決して裕福とは言えずとも、この地区はそれ程殺気立った様子も無く比較的穏やかであった。立派ではないものの雨風は十分防げる程度の家々が所狭しと立ち並び、通りに沿って鎮座している店は客足が滞ることがなく活気づいている。
 その通りのさらに奥まった一角。
 其処は明らかに流れている空気も、立ち並ぶ建物も庶民の生活空間とは逸していた。
 この区画を、人は花柳街と呼んでいる。
 辺りは高い塀でぐるりと囲まれ、唯一の出入り口である大門は南側に位置している。一見華やかそうに外から見える花柳街だが、この昼時は夜とは打って変わって閑静としていた。
 夜かけられている提灯も今はしまわれ、大通りを歩く一人の女子は、疲れの残った気だるげな体を引きずるようにして歩みを進めていた。結い上げた頭から顔に垂れる髪が、女子に影を落としている。
 ふと女は、何やら聞こえてくる唄に歩みを止めると、仰ぎ見た。

 「灰色の目の美しい娘は、母親の役目を果たし、
  黒い目の娘は、我が儘で、壊しては玩具をねだりー………」

 その唄は隣接している遊女屋のとある一室の、格子の奥から聞こえてくるようである。
 その繊細な歌声は、気怠さが充盈した今の花街にはあまりにも場違いな旋律であった。女はその内興味が失せたのかまた目を伏せるようにしてその場を去って行った。

 唄は、まだ紡がれていく。
 「青い眼の娘は食いしん坊で、世界をすっかり食べ尽す」
 ぽん、ぽん…………と鞠を宙に投げては取り、また投げる。三畳ほどしかない部屋の中、ペタンとお尻をつけて座っている少女が詠いながら鞠と戯れていた。
 小柄な体形に成人丈の着物を着ているためか、片方の肩は大幅に露出しそのきめ細かな肌は日に当たり艶っぽく光っていた。その姿は後姿だというのに妙に艶めかしく妖冶である。頭には彼岸花の模様が描かれた薄手の布が巻かれ、顔も髪も隠されているが、髪飾りなのか、赤い紐から垂れた黒い鈴が覗いている。

 そのうちタッタッ……と階段を上ってくる音が聞こえてくるや、少女のいる部屋の襖がすべるように開いた。
 優雅な動作で入って来たのは、鮮やかな着物を着た太夫であった。化粧は薄いが、華のある顔立ちである。
 「やっぱり此処におった。…またあんたって子は稽古を休んで。今日でもう何日目だい?」
 大袈裟に溜息を付き声に憤りを滲ませているものの、その目は可笑しげに少女を見下ろしていた。
 少女は鞠を投げる手を休めると、顔だけ太夫の方へ向け唯一覗く口元を上げ薄ら笑った。
 「代わりに太夫が受けりゃいいじゃねえか。一昨日の舞の二段目、手足の動きが微妙にずれていたし、指先の振りが雑だ。ありゃあ一遍手直しする必要があると思うがな」
 すかさず真っ赤になった雛月太夫に引っ叩かれる少女。
 「い、今は関係ないだろ?!毎度毎度指摘するのはやめとくれ!…………それより、その喋り方はいい加減直らないのかい?女装した男と話しているみたいで気味が悪いったら」
 むすっと拗ねてしまった太夫の言分は尤もで、子供には大きすぎる着物といい、女らしい姿にも関わらず男のような凄みを利かせた声といい、全てが不釣合いである。それでも大人に見えてしまうというのだから不思議という他ない。
 「昔っからの癖をそう簡単に消せるか。無くて七癖有って四十八癖と言うだろう。太夫の前でしか喋ってねえから構わんだろ」
 「そうだけど……。いいかい、あんたはあたしに恩義があるんだからね。また面汚ししたら今度はただじゃあおかないよ」
 「それ相応の見返りはしているはずだが?……それより、俺に用事があって来たんじゃねえのか」
 少女…………元い、苗字 一は薄ら笑いも嘘だったかのように拭い取られた無表情で、太夫に尋ねた。
 彼女の言葉に然無顔になって押し黙ってしまった雛月太夫だったが、不意に思い出したのか両手を打ち合わせ気持ちを切り替えるように笑った。その動作一切が、まるで一つの流れであるかのように優雅である。
 「向かいの女将さんから美味しい酒を貰ったんだ。あんたも飲むかい?」


 ◇


 現在苗字はこの置屋である『鏡花屋』に、昔働いていた誼で身を置いていた。
 数十年前、食べる物も手に入らなくなったため80地区から離れここまで流浪していた時、偶々居合わせた雛月太夫に拾われたことがあった。食う当てもなかった苗字はそこで已む無く働くことになったのだが、見習いである自分に強引に抱くことを強制しようとした客に手をあげてしまった。今ではその話題も若気の至りのように片づけられているが、あの時は大騒動であった。客の顔は血だらけで、苗字が執拗に蹴上げていた男の陰茎は使い物にならないほど拉げていた。その時初めて人間の脆さを自覚したのだ。
 だが客に暴力を振るうなど言語道断である世界、その後すぐに此処を追い出された。それでも食い下がって最後まで苗字のために許しを請うてくれたのが雛月太夫であった。
 今になってまたひょいと顔を出した時も罵詈雑言浴びせて散々怒鳴り散らしていたが、内心苗字の安否を危惧していた事は明らかであった。だからといって太夫に誠実に向き合っているかは別問題であり、彼女はそれに気づいてすらいない。
 
 「…………それにしても、あんたが来てから店が繁盛してきて売れ行きが上がり通しさ。至る所の揚屋があんたが来ないかって息巻いてるよ。それにあんた、知ってるかい?あんたの噂を聞きつけてわざわざ遠方のお客様まで来ているそうだよ」
 下らない世間話をしつつ、酒を飲み交わす二人。雛月太夫は小さな杯に注いでいるが、苗字は豪快に徳利を傾けラッパ飲みしている。傍から見れば異常な光景だが、苗字は酒一本では酔わないため雛月太夫も気に留めていない。
 「そうか。なら花代を更に二倍くらいにしないとな。といっても、最近は客足も減ってきているようだが。例の感染病の影響で」
 「ああ……、それねぇ……。今までそんな事、無かったってのにねぇ」
 しみじみと呟く太夫。例の感染病というのは、今此処からそう遠くない地区で流行しているという死の病だ。風の噂だが、如何やらその地区の殆どがそれで死に絶え、屍が折り重なるようにして積み上げられているという。その感染病は今も範囲を広げ、至る所で犠牲者を増やしている。その影響で、感染地から近いこの地区に来る者も減ったという事だ。苗字も口では同情の言葉を言うが、はなから気にかけてはいなかった。
 何やら物思いに耽っていた雛月太夫だったが、杯から目を離し苗字の方を向いた。瞳が躊躇と憂愁で揺らいでいる。
 「…………ねぇ、もうおよしよ」
 「何が」
 げっぷをすると、徳利を床に置く。雛月太夫が来た時から予感はしていたが、素直に彼女を見つめ返した。
 「あんたに、もう“あんな事”をしてほしくないんだよ。感染病でお客様も減って来ただろう?いい機会と思って、普通に生きとくれ。もう女将さんとも話はついているから」
 「…………それ、本気で言ってんのか?」
 苗字の言葉に俯く太夫。
 これも苗字を心配しての事なのだろうが、要らぬ杞憂でしかない。苗字は元々自分に執着していないのだから。
 「言っておくが辞める気はないぞ。金がもらえるなら俺は何であったとしてもやる。生きるための手段を、恥だとは思わんがな」
 「一っ!」
 苗字が腰を上げると、太夫は苦渋の色を浮かべた顔を上げたので首だげ傾け後ろを振り返った。
 何故他人である彼女がこんな顔をするのか、苗字は理解出来ない。
 貴女には、関係ないのに。
 「此処では俺は一伏だ。あんたも花街にいたら分かっているだろう。

 …………所詮女は、人間らしくなんて生きられねえってな」


 ◇


 これ以上話すことも無いため出てきたはいいが、特に外に用事もなかった。それに歩くたびに着物の中に隠した鎖が擦れて無駄に痛い。
 ぼんやりとしたまま、苗字の足は大門へと向かっていた。

 此処に来てからというもの、退屈で仕方がなかった。前のように死と隣り合わせである生活は御免だが、それにしてもすることが皆無だ。
 この退屈が、生きているということなのだろうか。それとも之が、平穏なのだろうか。
 
 その生活から、太夫は離れろと言った。
 確かに世間一般から見て遊女は常に非難と軽蔑の対象だ。金と引き換えに己の体を売るのだから淫乱と罵られるのも理解の範囲。だが、太夫や置屋の皆には内密にしている事だが、苗字は未だ処女のままである。
 これほどまで客を魅了しているのだ、さぞかし美しく、他とは異なった技を使うのであろうと皆信じて疑っていない。客の間にもその憶測に尾ひれがつき、一万人に一人の名器だの、幾度も絶頂に上りつめられそれは天国のようだだのと騒がれた結果、更に苗字の評判はたきあげられた。
 苗字と接した者は、動作全てから滲み出る妖美に理性を持っていかれ少女を抱きたくなる。本命の太夫を前にしても、客の目は禿の苗字に釘付けになる。少女が放つ色香に心を乱され、狂乱するまで少女に溺れていく。
 まだ体を男に預けたことはないが、絶頂に導くことに嘘偽りはない。吸茎をし、望まれれば男の前で裸にもなった。男根をご奉仕だけで男達は失神してしまった。それをいいことに情交したと嘯き、客たちは皆疑いもせずそれを信じ込んだ。
 中には執拗に顔を見せるようにとせがみ、一瞬顔を見せてしまった事もあるが、狼狽するほどのことではない。

 彼らはもう、この世には居ないのだから。

 彼女の客の中で、時たま神隠しに合う。
 そんな囁きも飛び交ったが、更に危険な香りが男達の独占欲に火をつけるだけに留まった。
 太夫にも、あんたの存在は人を狂わせるとよく言われたものだ。そうしてついた渾名が、“妖花”。顔を見せずとも何気ない指先の動きや、首を傾けるという些細な動作さえ妖美な色気を匂わせ、誘惑するかのような凄艶な笑みを浮かべて惑わせることからそう名付けられた。芸名は一伏だが、妖花という渾名で知れ渡ってしまうほどその印象は絶大であった。

 紛い物に手を出し死という末路を辿った者達の記憶が朧げに浮かび上がり、蛇足的に太夫の言葉が脳裏をよぎる。

 「_____一伏という名はね、卑屈になれって意味じゃあないんだよ。どんな人間にも礼を尽くし、また腰を折って親身になって接してほしい、そういう願いから付けられたんだ」

 其れは、一伏の由来。
 苗字は其れを思い出した今でも、彼らを殺めた事を後悔はしていない。素顔を見られたら、誰であろうと抹消する。
 死は、それ相応の対価でしかない。
  
 又、此処69地区へ来て一つ分かったことがある。
 この100年近くずっと見えているあの亡霊達のことだ。今まで彼ラは己を恨む相手が現れる時誘発するものと思われていたが、どうやら違うらしい。現に此処に来てからというもの彼ラはやはり目先に現れたが、だからと言ってその近くにいるものから恨まれているという事はなかった。態々素知らぬ振りで探りを入れたのだから確かだろう。他にも矛盾した点もいくつかあったはあったが、確信が持てずにいたのだ。彼ラが苗字の周囲の人に向かって怨念を撒き散らしているのかは定かではないが、確信出来ることは、それでも彼ラは己を憎んでいるという事。
 今歩いているこの時にも、彼ラの視線は苗字の体を抉る。そして夜はまた凶夢の惨痛に苦心することになるのだ。
 
 点々と立つ住宅の隙間から、一人の男の子が体を傾かせて現れた。
 苗字もそれに気づき、足を止めて男の子を見た。その男の子の横を、女性はさっさと通り過ぎていく。彼の存在が彼女を拒絶するように、女性は男の子を避けるかのように歩いて行った。当の本人は、そう動いたという自覚もないだろう。
 男の子は身動き一つせずに苗字を凝視していた。いや、その言い方では語弊がある。

 男の子は、首無しであった。深紅に染まった断片部からは白い骨を覗かせている。それでもこちらを見ていることは解った。憎悪と、恐怖に見開かれた瞳で。
「…………」
 苗字は無言のまま踵を返すと、来た道を帰って行った。他に帰る場所なんて、存在しないのだから。