「………道中お気をつけなさいませ、旦那様」
黎明時の、とある揚屋にて。
一人の太夫が優雅にお辞儀をし、男性客を見送っていた。男も満足気味にそれに応えている。
そのやり取りを後ろで控え見つめている禿の中には、苗字も居た。退屈なのと気怠さと口の中に未だ残る男の精液で、儀礼じみた行為を無情に見つめていた。
すると、客が苗字の前を通り過ぎざま懐から花代を取り出すと、それを握らせた。
「これは昨夜の分だ。明後日も頼むぞ?あと5人来る」
苗字の方に身を屈めると、太夫に聞こえないほど小声で話しかけてきた。
興奮気味な息遣いとそれに混じる酒の臭いが無遠慮に吹きかけられる。苗字は顔を上げると婉然たる笑みを見せた。
「ご贔屓に預かり恐縮です、旦那様。今宵は御満悦して頂けましたか?」
「満悦も何も、それ以上であったぞ。お前の快感に酔ってしまいそうだ」
苗字は袖口で口元を隠して笑うと、不愉快気に眉を寄せる太夫に見られた。男もそれに気づき不自然な咳払いなどしていたが、苗字は意に介さず煽るように男を自分の方に引き寄せた。
男性客が、驚いて目を見開く。
苗字は薄地の布から除く口元に人差し指を当てると、嬌艶に笑ったのだ。その姿は見るもの全てを虜にしてしまうほど、色っぽく魅了して止まぬ妖しさを秘めていた。
心を委ねてしまったかのように見とれてしまった男は、陶酔しきったまま更に苗字に花代を握らせた。
「一伏、お前は罪深い妖人だ」
「………恐れ入れます」
座礼を深々とすると、客はふらふらと危なっかしい足取りのまま帰って行った。
「彼は私の客よ?禿の分際で気安く話しかけないで」
いつの間にやら此方に来ていたのか、正座をしている苗字を前にして蔑んだ目で見下ろす太夫が言った。
子供に対してとは思えないほど、その目は敵意に満ち、油断大敵と苗字を睨んでいた。
「太夫、何か大きな勘違いをなさっているようです。私は旦那様に芸がなっていないとお叱りを受けただけで御座います」
遜った言い方に一瞬眉をひそめた太夫だったが、侮蔑を込めた眼差しを向けると冷笑を浮かべた。
「そうでしょうとも。あんたなんて弁舌に優れている妖人ってだけじゃない。妖花だか何だか知らないけれど、あんたの人気なんてすぐ終わる。いい気にならないことね」
「返す言葉も御座いません」
太夫に向かって軽く座礼をする苗字。動揺を微塵も感じさせない少女の態度が癇に障ったのか、太夫は唾を少女に向かって吹掛けると、颯爽と下へ降りて行った。
………妙な自尊心に囚われた女ほど嘆かわしい者はない。女の身である以上欲の吐出し口としか認識されていないというのに、薄っぺらい幻想にしがみついているその姿は哀れというより滑稽だ。
彼女もまたそう。ちやほやされることに快感を覚え、又その地位をせしめようとする輩がいれば潰そうとする。己を守るのに必死なのだ。
だが一たび謙遜すれば扱い易いことこの上ない。己しか映らないその目には、卑下した態度すら分からないらしい。
苗字は立ち上がると着崩した着物を整え、我が家である『鏡花屋』へと帰る支度を済ませるべく部屋へと戻って行った。
今日は、朝から忙しくなる。
◇
苗字が『鏡花屋』に帰ってくるなり、雛月太夫は決まって苗字を出迎えに外に出る。
「お帰り」
そう言われることに最初は違和感を覚えていたものの、今ではもう慣れた。昔そんな掛け合いをしていたような気もするが、遥か昔のことで現実味に欠けていた。
「また大事なお客様を蹴り飛ばしちゃいないだろうね?」
「していたらここまで鬱憤溜まっちゃいねえよ。ついでに言うがその文句流行らないぞ。おおそうだ率直に言おう、鬱陶しい」
頭上から鉄拳が振り落された。文句を言う苗字に取り合わず拗ねたままそっぽを向いてしまう。だが怒っているものの苗字の体に客から付けられた傷がないか危惧しているのか、明後日の方向を向きつつも時折こちらに心配した視線を寄こしてくる。そんな太夫の態度も、苗字にとっては理解の範疇を逸した事であった。
女から受ける嫉妬や妬みは理解出来るし、それに対する対応も慣れたものだ。だがこれは理解不能、対応に苦心する。
なぜ他人の傷を見ようとする。
利徳に繋がらないではないか。
その感情を心配という事は解ってはいるが、それが己に向けられることに強い抵抗感を覚えるのだ。共感することが、出来ないから。
それは太夫一人に限らない。確かに妬みをかうことは増えたが、苗字にとっては空気のように当然に其処にあったものが無かった。
殺気、緊迫した空気、憎悪に暴力。
まるで自分だけ違う世界に取り残されてしまったような違和感、疎外感を今でも感じている。在るべきものが収まっていないという空虚さが眉間の皺を深くさせていった。
決して生きやすくはなかったが、80地区での生活の方が気楽であったと、最近では懐かしむ始末。優しげな瞳よりも、怨念の宿る目をした彼等に睥睨されている方が納得がいった。
ああ、そうか。
此処はある意味、異常なのかもしれない。
「………ねぇ一伏。どうしたんだい?やっぱり、何かあったのかい?」
太夫が顔を覗くように身を屈めてきたので、自然な動作で体制を変えた。
「よくお気づきで。俺は腹が減った。肴持ってこい」
「餓鬼のくせに生意気言うんじゃないよ。その前に風呂っていつも言っているだろう!」
「それ俺が初めて此処に来た頃から言っているぞ」
「だって餓鬼じゃないか。……でもそうだね、確かにあんた体形が全く変わってないねぇ………。異常なんじゃないのかい?」
「そうだな。顔はだいぶもう老けたぞ。ざっと70歳くらいだ」(嘘)
「へー、そら気持ち悪いねぇ」
他愛のない会話をしつつ店へ上がっていくと、何やらまた苗字が身支度をし始めたので太夫は慌てて引き留めなければならなかった。
「えぇ?!ちょっ、また何処か行くのかい?今日の稽古はどうするんだいっ」
「酒を売りに行くんだよ。それに俺にはもう稽古なんぞ無意味だ」
完璧だからな。そう抑揚のない声で付け足すと、じろりと太夫に睨まれた。
苗字の言う酒、というのは、只の酒ではない。苗字が独自に作っている特製酒だ。趣味で作っていただけなのだが、これが何とも美味いと評判になり、何故か商い紛いまで今ではしている。
「………まぁ、其れは置いといて。で?どこに売りに行くんだい」
「然程遠くには行かん。明日には帰れるだろう」
そうしゃべりつつ艶やかな着物を脱ぎ捨てつぎ当てだらけのものに着替える苗字。頭に昔よく羽織被っていた黒い布を被せると、太夫も止めても無駄と判断したのか軽く溜息をついた。
「はいはい、分かったよ。しかしどうしてまた口元をそんな頑丈に覆っているんだい?」
首を傾げてくるので、当然とばかりに苗字は言った。
「どうしてって、感染区域に行くからに決まってんじゃねえか」
「………」
硬直してしまった太夫。その内やっと苗字がいう事を理解出来たのか、その顔はものすごい速さで赤くなり険しくなっていった。
「まそういうことだ、失敬する」
「お待ちっ!あんたって子はもうどれだけ心配させればっっ………!!」
喚く太夫もそっちのけで窓から外へと体を躍らせると、下に置いてあった徳利やら酒の入った樽やらを荷車に詰め縄で固定し、脱兎の如く大門から出て行ってしまった。
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