殆ど走り通しで目的地に着いたのは、もうすっかり日も暮れてしまった夜であった。体力と足の速さには自信のある苗字でも、流石に疲れが顕著に表れていた。
 前に荷車を引こうとしたが、何かに阻まれて逆に苗字がつんのめる形になった。下をのぞき込むと、またかと小さく呟く。
 躓いていたのは、放置されていた死体であった。ここに来るまで、もう何十体と苗字の前に轢かれていった。
 此処は、辺り一面地獄絵のような有様であった。夜だというのに空に向かって人を燃やした煙が立ち込め、腐った異臭が死体の数を無言に示している。聞こえてくるのは、人の呻き声や、発狂した人の支離滅裂な叫喚。苦痛と、嘆く誰かの啜り泣き。
 もう此処には一生夜明けなどやってこないと錯覚するほど、悲惨な光景であった。その中を、小さな体で荷車を押している苗字。
 まだ生存者はいるようだが、彼等は淀んだ目をこちらに向けているだけだ。だがこちらが油断を見せた瞬間に襲う気でいることは長年の経験で察しが付く。今の彼らの目は80地区の者たちと何ら変わりがない。
 苗字にしか見ることのできない亡霊の数も、此処に来て一層増加している。むせ返るほどの腐敗した臭いと死体に、彼等は紛れるようにしてただ無情に佇む。
 
 注文客の家が見えてきた。
 他の家よりもひと回り大きく、裕福だったのが窺えるが、辺り一面隙間という隙間が塞がれ歪な家でしかなくなっている。
 更に近づいていくと、その家に寄りかかるようにして座っている人間たちが見えた。此処の使用人だったのだろうか、真面な身なりだが、何日間も放置されていたからか薄汚れもうダニも沸いている有様だ。その中に一人まだ息のある者を見つけ出入り口を聞いてみると、震える指を上げ、裏へ回れと教えてくれた。もうこの魂魄も、そう長くは持ちこたえられないだろう。
「おい、誰かいるか」
 頑丈に閉じられた戸を容赦なく叩いていると、暫くして中からしわがれた男の声がした。
 「………何の用だ」
 「運送サービス。身に覚えがあるだろう」
 少しの間の後、酒が来たことに気づいたのか下1m程の戸が開いた。此処から中に入れろという事らしい。
 身を屈め中に徳利を押しやると、いきなり腕を掴まれた。その拍子に顔を上げると、僅かな隙間から覗く血走りひん剥かれた目と目が合った。
 「お前、此処の腐りきった奴らではないだろう?」
 興奮で上ずった声だった。黙殺する苗字だったが男は構わず尚猫なで声で喚きだした。
 「だったら、清潔なかけ布団を持ってきてくれ。それで俺を包んで此処から出してはくれないか。な?頼むよ……。このままでは外にいる連中のように醜く、惨めに死ななきゃならなくなる……。俺は感染なんかしたくねぇ!な?別にただでとは言わないさ。外にいる使用人が手配してくれるはずだ!……おい!そこにいんだろ!さっさと準備をするのだ!聞こえているのか?!」
 腕に爪が食い込むほど握りしめ叫び散らす男。壁という壁を拳で叩く有様は、発狂したとしか思えない。まるで今の状況が分かっておらず、己の命とその僅かな望みに縋って行動しているその姿は、人の本質をありありと映し取っていた。
 「………醜い?成程、人は己の内の醜さを悟られまいと別の対象物にすり替えるものだからな。まぁ致し方ない」
 彼は主の任を怠り、彼の使用人たちを見殺しにしたようなものだ。其れに対する懺悔の姿勢も無い。
 「……待っても無駄さ。来るのは死だけだ」
 静かに腕を振り払い、苗字はそれだけ言うと身を起こした。
 「は?何、言っているんだ?褒美をやると言っているじゃあないか!………おい、どこへ行く?!」
 後ろから聞こえてくる悪態を苗字は度外視し、その場を離れ他の場所にも酒を配って行った。殆どはこと切れて御代はくすねるしかなかったが。


 全て配り終わり軽くなった荷車に、苗字は体重を預け空を仰ぎ見ていた。上でも向いていなければ大量の死体の視線を一挙に受けることになり気が滅入る。口からは、自然とあの唄が紡がれていった。

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 それは、一瞬芽生えた唯の好奇心だった。
 苗字はふと視界に入った廃家に目を向けると、背もたれにしていた荷車から離れ徳利を持ったまま近づいて行った。これといった目ぼしいものを見つけたわけではない。その場その場の気分屋奇癖が出ただけだ。
 戸が大きく開いているので其処から横目で見つめると、あったのは死体の山。
 ………おかしい。確かに人の気配を感じたのだが。
 またその死体の様子も、外のものとは異なっていた。他の死体は顔に吹き出物や、身体も一部腐敗しているが、此処にある死体にはそれらがない。感染症で死んだ痕跡が全くないのだ。
 これは、どう見ても他殺死体だ。
 再び、人の気配。そう思ったのも束の間、顔を頭巾で覆った人物が死体の前に現れたのだ。まるでそこから発生したかのような錯覚に囚われるほど動きが速い。苗字が息を潜めている中、その人物は何やら手に持ってきたらしい物を死体の上にぶちまけた。においからして、恐らく油。如何やら隠蔽現場に居合わせてしまったらしい。
 一瞬にして死体に火が付き、辺りに肉が焦げる嫌な臭いが立ち込めた。炎が上がり小屋の中が明るくなると、死体の様子も把握できた。血痕を残さないためか、苗字の目は首の後ろについた小さい穴を捉えた。熟知している様子からして、相当な暗殺の手練れのようだ。その異臭に交じって僅かに、花の香りが鼻を掠める。

 その時、苗字の気管に煙が入り、大上段に咽てしまった。その人物は機敏に音に反応し険しい顔を上げた。
 「誰かいるのか」
 ………全く、自分の緊張感の無さには厭きれる。どうせ真っ向からやり合えば確実に殺されるというのに。
 苗字は闇に溶け込んだまま、その人物と向かい合った。相手はこちらが見えていないだろうが、苗字にははっきり映っていた。
 目だけ残し後は全て黒い頭巾で覆われた顔。目は珍しい金色をしており、目だけで苗字はその人物が女性であることを識別する。
 「居るのは解っているのだぞ。……何故霊圧を全く感じない?消しているにしてもおかしい……。何者だ?」
 冷静な声だが、そこには警戒と畏怖といった感情を感じる。其れに、聞き慣れない単語も腑に落ちない。
 “霊圧を感じない”?どういうことか、こっちが聞きたい。

 苗字が口を開きかけたと同時、此方へ近づいてくる数人の気配を感じた。付近の亡霊共も、首を傾け来訪者が来る方をじぃ……と見ている。
 「気づかれるのを恐れているのなら、俺を殺すより優先すべきことがあるぞ」
 「何を言っている」
 「………残念、来訪者のご登場だ」
 「っ!……何だと?」
 細い針のような形状の武器を持ってじりじりとこちらに近づいてきていた人物は、不審に眉間の皺を深めた。すると、一拍遅れてその存在に気付いたのか目を見開いた。
 人物は憎々しげに舌打ちををすると、其の儘来た時と同様一瞬にして消えてしまった。
 人物と入れ替わるようにして、数人の集団は村に着いたようだ。だが彼等にはこれが他殺遺体であるとは思わないだろう。至る所で死体を焼き、人間が一分ごとに死んでいくこの地では。それにあれだけ燃えてしまえば、異変にも気づくまい。
 苗字は直ぐにその場から離れ来訪者の方へ近づいて行った。死体の山から覗き見ると、其処には黒い着物を着た男女がいた。
 死神だ。
 何やら、此処一帯を調査しにきたように窺える。だが、死神がこの感染地区に来る理由が分からない。彼らを派遣するよりも先に、医者を呼ぶべきだろう。それとも、これは異例の件、ということか。

 何がどうであれ、気づかれぬうちに退散した方がいい。苗字は荷車の処まで戻ると、それを引いて再び走り出した。