あれ以降、牧野はここへ来ていない。
彼女の持つ携帯すら電源が入れられておらず、行動を把握できない状況が続いていた。
任務についていれば足跡を追えるが、任務から除外されたのか痕跡を絶っている。
牧ちゃん…今、どうしているの。
会う資格はないにせよ、無事は知りたい。裏切り者が更に見つかったなんて話、上に上がっていない以上死んだなんてことはないだろうし…。
モニターをぼんやり見つめ、溜息を漏らす。ドライアイなんてものじゃない、目が渇き切って痛い。目元に薄らついたクマも、仕事を中断する理由にはなり得ない。こうやってキーボードを叩いている時間は、他のことを考えずに済むんだから。
淡々と仕事をこなす苗字は、手を止めずに扉が開かれる音を他人事のように聞いていた。黒ずくめの男二人。特徴なんてどうでもいい。私に何をしようも関心もない。
男達はブラブラと足を揺らすのを抑えつけ、足枷を外す。
「ついて来い」
そう命令されれば、ついていけばいい。疑問なんて、持つ必要なんてない。考えたって退屈なんだから。
苗字は大人しく手を止め、男達に挟まれる位置でついていく。きっと、また外部での仕事かな。長い廊下を歩きながら、淡々とそんなことを思う。
何も、変わっていない、時間の流れさえも。目の前も、真っ暗なまま。
男達に連れられてやってきたのは、隣接する建物の地下。少し離れた先だけ、頭上に点滅する蛍光灯が付いている。わずかな光に照らされた人物が、一人拘束された状態で跪いているようだ。
きっと何かヘマをしたんだろうな。
公開処刑かな。
よく、ジンに間近で見させられたものだ。トラウマを植え付けるには、十分過ぎるものだったことを覚えている。そんなことすら、もう過去の産物だけど。
薄暗みの中に入った。
苗字が興味をなくした顔で、近づいてくるジンを、ゆるりと顔を上げ迎える。
また、あの笑みだ。
対照的な表情で、苗字は思わず後退りする。すかさずサイドの男らに腕を掴まれ呆気なく逃げれなくさせられたけど。無意識に血の気が足へと流れていく。小動物の本能だ。
ジンが、コイツを見ろと顎をしゃくる。
誘導されるように、跪いていた女の方へ、改めて視線を向ける。彼女の顔を見て、背筋が凍った。
嬉しさと、絶望が両方入り混じり攻めぎあう。
途端冷静になる頭で、顔に出したら彼女を守れないと警鐘が鳴った。すかさず開きそうになった口をつぐむ。唇を引き結び過ぎて、口の中いっぱいに血の味がした。
「ロゼが、どうかしたの」
「友人だろう?こうして会わせてやったんだ、感謝くらいしたらどうだ?」
「友達?…そんな人間、いないのはあなたが一番、よく知ってるでしょ」
声が震えそうになるのを、必死に抑える。平常心。無関心。少しでも彼女に関心があると思われたら、即牧野が殺されてしまう。
彼女の無実と、任務の評価を淡々と伝えれば、きっと興味も失せて牧野を解放してもらえる。
ふんと、ジンが鼻で笑う。言っていることを、信じていない態度だ。周りには、数人のメンバーと、牧野がベルモットと呼んだ女性。黒髪の長髪の男性もいる。今まで見たことなかった、褐色の肌の男性もいた。
彼らに助けを求めるのは?
それもダメ。すぐに甘ったれた考えを消し去る。私は孤立していないと、自分すら命が危ない状況だ。
彼らが、牧野を庇うと信じるしかない。一緒に仕事をしていた同僚なのだから、助力してくれないなんて有り得ない。
「…それよりも、この状況を説明してもらえないの」
「おかしなことを言うのね、コア。あなたともあろうものが、メンバーの管理もできていないと?それとも、あえて手を抜いたのかしら」
ベルモットも薄らと笑う。この場においては、残酷なほど妖艶な笑みだった。
牧野が、奥歯を噛みしめ、憎悪を込めて苗字を睥睨している。意思に反して、目が動揺で揺らぐ。心臓が、激しく脈打ち、喉が熱く燃えてるみたい。
牧ちゃん、しっぽ、掴まれちゃったの…?私が、売ったと思ってる?
大丈夫、大丈夫だよ。
絶対助けるよ。
呪いみたいに、言い聞かせる。
君は、私の友達なんだから。
「彼女…nocだったの…?…へぇ、知らなかったな」
「驚きよねぇ、公安の犬が二匹も潜り込んでいただなんて。…普通、他にも仲間がいると疑うのが筋だわ」
これは、牧野だけの断罪場じゃない。私も、兼ねているんだ。険しい顔達が、苗字に一斉に向けられている。
「申し訳ないけれど、以前の記憶がないから、私は自分を弁護できない。彼女のことだって、根拠なんてない」
「記憶喪失も、都合が良いものよね。それだけで彼女との繋がりがないとは言えないわよ」
血の気が引いていく。
自分を援護する言葉は出てこない。もう、迫りくる死に怯えて頭がクラクラする。
スパイって疑われて、死ぬんだ。自分の居場所じゃない、こんな寂しい所で。
錯乱しそうになる思考が、どっぷり溺れていく。
時間が止まる。
聴覚だけが、やけにクリアだ。
蒼白だった苗字の顔が、一瞬漠然と笑みの形になる。放心している顔の違和感に、ジンにいち早く察せられたとは苗字は夢にも思っていなかった。
…そうだ、別に、死んだって良いじゃないか。
茫然とした中で、イカれた希望が生まれる。自分が公安のスパイだと言って、牧野に自分から命令して、動かしていたと言えばいい。
自分は牧野を止めるためだけに猫に連れてこられただけ。牧野がこの先も救済するとしても、止める役目は私でないから、あの人は最初の犠牲者から強制的に除外される。
私の代わりなんて、いくらでもいる。
世界は、残酷。でもその分、単純じゃないか。
笑うのを隠すように、俯く。全部、終わる。猫に踊らされた茶番が、やっと終わる。
もう、何にも干渉しなくて済む。
解放される。
楽に、なる。
震える唇を、動かした。
「…そうだよ、私が…」
これで。…そう思ったのに、苗字の言葉は呆気なく遮断された。
「コイツの無実を証明するのは簡単だ。…けじめは、コイツ自身に付けさせる。おいバーボン」
………ぇ?
唐突に、覚悟がジンによって容易く潰されてしまった。また、邪魔をされた。
私が告白して、断罪されて、牧野は再びメンバーとして任務を熟す。そうなるはずだったのに、狂わされた。
何がどうなっているのか分からず、困惑を隠せない。狼狽ている苗字の目の前に、一丁の拳銃が差し出される。
「やれやれ、こんな愛らしいお嬢さんに、物騒なものなんて本当は渡したくないんですけどね」
口がわななく。呆然と差し出された方を見上げると、褐色の肌の男性が、困った笑みを浮かべていた。
同情、哀れみ。何はどうであれ、苗字に関心の無い目。どうなろうと、構わない無情な目。苗字がそれを掴むよりも先に、ジンに拳銃を奪われた。
「駄目だ。コイツにくれてやるのは、ロゼに撃ち込む銃弾一つで充分だ」
ジンはそう吐き捨てると、拳銃から銃弾を捨てていく。けたたましい音が、地下に響いた。一つ、また一つと落ちる音が、着実に苗字の心を蝕んでいく。
最後の一弾が入った、拳銃が再度苗字の前に突きつけられ、無理やり握らされる。
「撃つこと自体初めてなのでは?なら、足りないんじゃ…」
「余分に渡せば自殺する、そういう女だ」
左右を囲まれた。後ろの逃げ道も、呆気なく潰された。思考も、ままならない。
…殺す?
誰が、誰を…。
茫然と、拳銃を見下ろす。
今になって、薬の毒素が強まってきて、思考が回らなくなる。一点のことしか、考えられなくなる。その中に、希望は既に空気みたいに消えていた。元々、なかったみたいに、海底の底まで意識が沈む。
「…違うって、言いなさいよ…」
低く呟かれた牧野の声に、重々しく顔を上げた。頭で、どうしても楽になろうとしてるのを止める。空気に喘ぎ、震える体を支えた。彼女の顔に、初めて恐怖が浮かんでいた。
「友達でしょ…、助けてよ…。私、公安の人間じゃないわっ…!!!冗談じゃない、せっかく、せっかく皆んな救ってあげようとしているのにっ!その仕打ちがこれ?!感謝すべきなのにっ…!!」
怒鳴り声なのか、叫び声なのか、錯乱気味の牧野の訴えは、この場にいる全員に向けられていた。
吐き捨てるような呪いの言葉に、苗字も正気に戻る。…駄目だ。呆けている場合じゃないのに。重くのしかかる倦怠感を、食いしばって堪えようとする。
「…そう、そうだよ。裏切り者はロゼじゃない。公安の人間なら、痕跡を残す。仲間を疑うなら、幹部全員を疑えばいい。許可さえあれば、触覚を伸ばす」
「それは聞き捨てなりませんね。その言い草だと、我々を疑心暗鬼に追い込もうという打算ですか?」
「何をちんたらやっていやがる、さっさと殺れっ!」
苗字の肩がびくりと跳ねる。思わず銃を構えてしまった苗字を、牧野は愕然と見つめた。二人の視線が、交差する。情けない顔が、牧野の目に映っていた。
「…どうしてよ。……助ける気なんか、最初からなかったんだ……」
呟かれた言葉に、一瞬意識が飛ぶ。
緊張の糸が、ガタが、脆く外れてしまった。
「違、うっ!!彼女はnocなんかじゃないっ!」
「疑り出したらきりがないのは事実ですけどね。既に証拠はいくつも挙げられているんですよ、コア。君が警備に勤む間にね」
諭す声に、背後に立つ褐色の男を見る。関心は苗字にはなく、薄らと笑いちらりと長髪の男の方を見ていた。
「僕から言わせれば、第一発見者である、彼の方が、よっぽど怪しいと思いますが?死ぬ間際、何か彼から託された可能性もありますし」
「…ほぉ?この場で仲間割れとは面白い提案だ。喜んで臨むとしよう」
苗字も、牧野も除け者で、組織の者同士で腹の探り合いが始まった。
誰が嵌めようとしているの。
誰が庇おうとしているの。
この中の誰か、ノックなの。
混乱し、話出す彼らの顔を交互に見るが更に頭が真っ白になるだけだった。理解することさえ出来なくて、話し声と見ている光景が回転し出す。
視界が、一瞬暗くなる。
「なら疑わしきは罰しろだ。ロゼ1人でないなら、この男も殺すだけだ」
ジンの声だけ、やけにはっきりと苗字の耳には聞こえた。
その言葉だけが、苗字を突き動かす。
全てが衝動だった。
彼が銃を構え引金に指をかけるより先に、苗字は銃を撃っていた。
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