知らない女が入ってきた。
苗字の仕事部屋は誰それ構わず入れる場所ではないから、恐らく、大幹部の人間だろう。ジンも、近くにはいない。
ブロンドの長髪に、すれ違う人全て振り返るほどの美貌。妖艶な唇を笑みを作る様は、一つの芸術を見ているようだった。苗字はゆるりと椅子を回転させ、振り返る。下手なことはできない。失礼なことをすれば、自分の首を締めることになるかもしれない。
この人、美人だけど、危険値高そうだな。否応なく、警戒心が強まる。
「どういった御用でしょう」
顔が強張っていた。眉を動かさないでいたら、女は、ぷっと笑う。それがとてもあどけなくて、苗字は唖然とする。
「何その顔っ!騙すの成功出来ちゃった感じ?」
綺麗な声で笑うと、べりっと音を立てて顔面を剥がした。その下から覗くもう一つの顔に、苗字は息を飲む。
「牧、ちゃん…」
苗字の表情に、途端小さな影が落ちる。そんな様子すら、牧野は気にも留めていなかった。
変声器によって変えられた声は、大人の女性のそれで、艶っぽい。
「ベルモットに協力してもらったの。うまく変装できているでしょう?こうでもしないと、コア様には会えませんものねぇ」
不遜な笑みを向けられ、目を伏せる。彼女とは、頬を叩かれた以来だ。それ以降も、何度も彼女のすることを邪魔している。それは、牧野自身も周知のことだろう。
だからこそ、合わせる顔がない。
「大変だったでしょー?何度も何度も邪魔してたもんね。知ってる?ウイスキートリオから、コアがどう思われてるか。血も涙もない、人工知能。人とすら思われていないの。笑い草だよね、気に入られるはずがめちゃくちゃ嫌われてるんだから」
聞き覚えのない人達のことを話し、牧野が苗字との距離を縮めていく。思わず、苗字は後退りする。牧野の目が、笑っていなかった。冷たく冷ややかだ。
ねじ曲げられた固定観念を、否定する気力がない。ただ、顔がさらに強張る。脱力しそうになる体を支えようとして、中指が小刻みに震える。
「名前のしていること、言っとくけど人殺しと同じだから。邪魔ばかりしてたら、この世界で消されるよ? 名前」
ずいと顔を近づき、ニッコリ笑う牧野。
違、う。
私たちは、ただのシステムに突如生まれたバグでしかない。確かに幻想的体験って特別なことだけど、だからといって君を中心に世界が回るわけじゃない。個である世界には何者も、干渉してはいけないんだよ。
これは、前回も言った。
その後ぶたれた。痛みは敵意だった。
だからまた同じことを言うのは愚行すぎるって知っている。きっと何度繰り返しても、牧野は理解してくれない。
牧野には、牧野の正義がある。
その中で、私は悪でしかない。
牧野の怒りは、これだけでは済まない。彼女から見たら、私の方が分からず屋なんだから。
「これはね、忠告だから。まだ名前のこと友達だと思っているから。……どうか私にあなたのことを殺させないでよね」
ぶつけられたのは、露骨な敵意だった。殺すと言う単語に、ゆっくりと苗字は顔をもたげる。合理的な正義を振りかざす牧野。振りかざすからには、覚悟は、お互いにあるんだね。
「悪い事だって、知ってるよ。…でも。彼の事、嫌いなので」
もう諦めた。説得も、私の気持ちをわかってもらいたい気持ちも全部。だから物事を、単純にしてしまえばいい。
もうやけくそ。
力ない笑みに、平手打ちが襲う。ヒリヒリとした痛みが、じわりと広がる。牧野は怒りに肩を震わせている。その顔は、立派なこの世界のヒロインだった。
「そんな自己中な考えで見捨てるなんて、こんな最低な人間とは思わなかった…っ」
牧野だって、自分の都合で、私の仕事場にづけづけと侵入しているじゃない。
言い返す気はなかったが、口の中が切れて、痛い。
「彼はね、何も悪いことしてない、良い人なんだよ!凄く素敵なキャラなの!そんな人が殺されそうになってるんだよ?良心ないの?なんでそれを見捨てようとするの?!私、名前の敵にはなりたくないって言ってるじゃん!」
知っているよ。
私も、彼と話したから。
淡々と、牧野がここへきて切羽詰まった様子で現れたのは、彼の死期が近いのかもしれないと、そんなことを考える。
「もういいよ。忠告したのに聞く耳持ってくれないならいい。…この先もその都度邪魔してれば?私は私のやりたいようにやるだけだから」
「…その、都度?」
「何よ。面倒とでも思った?わたしはね、あなたみたいに偽善者じゃないから、全員助けるの。気に入っているキャラみーんな!!」
彼女の声を大にした宣言が、ずんと心に重くのしかかる。
体から、力が抜けそうになった。
スコッチだけじゃない…。他にも、牧野は救済しようとしている。
冗談じゃ、ない。
手を広げ、自分の言動に酔いしれる牧野を見て、そう思った。人間は、みんな貪欲。私も、牧野も。
やっぱり、説得しないと。
猫が言ったこと、それを言えば…
牧野に向かって伸ばした腕。それは途中で阻止され、軋むほど強く掴まれた。
「っつぅ…」
顔を顰める苗字を、牧野は恐ろしく真顔で見下ろす。
「もしかしてさぁ…、、
あなた、自分がこの世界の主要キャラにでもなったと思ってる?」
そんなこと、思ったこともない。誤解なのに。口を開くより先に腕を机に押さえつけられ、片方の腕が首を捕らえる。
ぎしぎしと強まる力に、目の前がチカチカする。
「自惚れてない?自分が特別だって。だからあたしに盾ついてるんだ?自分より目立とうとする私が邪魔なの?それでジンにも守られて、悲劇のヒロインぶって。でもあたしみたいに高スペックもらったわけじゃないし、キャラとも仲良くないから、嫉妬してるんでしょ」
苦しい。意識が、遠のいていく。
二人で一緒に話していた教室と、あの人との時間が脳裏にちらつく。食い込んでくる指に、震える手を合わせる。
「それとも、ジンのことが好きになったから、スコッチを突き出して褒めてもらいたいとか?どちらにせよ、ほんと、自分のことしか考えていないんだね、名前は」
唐突に、腕の力が弱まり、首から手が離れた。何度もむせる。空気を求め、不格好に喘ぐ間、牧野の軽蔑した視線が突き刺さっていた。
「あーごめん。納得」
よく分かったよ。
そう言って、全て察したかのように頷いた。苗字の意見なんて、はなから意味をなさない、そう暗に伝えているようだった。
「いいよ、どうせ私が勝つに決まっているけどね。私はこの世界に選ばれた救済キャラなわけだし、世界が必要としているのは私なんだから。だからもう、名前は友達じゃない、敵だから。真っ向勝負よ」
吐き捨てる台詞。トッピングに黒い敵意を添えて内側の刃が容赦なく抉る。きっと、救うための残された時間は、残りわずかなんだろう。踵を返し、大股で出て行ってしまった。
言い返せなかった。
苦しげに呼吸を整え、牧野の出て行った扉を見やる。苦痛と懺悔で、頭がぐちゃぐちゃだ。
コップ一杯注がれたコーヒーにいつもの癖で手が伸びそうになり、理性がそれを止める。体の脱力感や無気力感、頭の思考に著しく霧をかけ、仕事以外の他の思考を極端に曇らせる。効力をもつ薬品がコーヒーから投与され、今や蓄積されて薬漬けだ。そのことに気づき始めたのはここへ来て数ヶ月の時。ジンの命令で、飲まされていると知った。
現実から目を背ける時、服用すればたちまち考えることが煩わしくなる。どうでもよくなる。楽になる。
だけどその分、一度意図的に遮断された思考は、消化不良を起こすようで体内を蝕む。内側から壊していくような気がする。
それに今放棄したら、それこそ自分勝手で、牧野に申し訳ない。
そうだよね、そうだよね。
今まで自分がやってきたことが、間違いだったんじゃないかって、心が揺らいで苦しい。
人として、正しいことを言ってるのは、牧野のほう。スコッチはいい人だ。陽だまりみたいな笑顔を、奪う資格なんて誰も持っていない。世界が定めたエンドがあったとしても、それを助けることは善意であり、正しい行いだ。
牧野の目指すもの、応援したい。手なんて出したくない。今からでも、きっと遅くは…………
『名前』
あの人の声が聞こえた気がして、あの人の笑顔が見えた気がして、今までの思考を拒絶する。自分さえ、牧野すら拒絶した。
…駄、目。
どうしようとか、他の道はとか、そんな余地なんてない。じわじわと、心が追い込まれていく。
自分は、赦してはいけないんだ…
どんなに多数決で良い行いと決められたことでも、自分だけは悪と唱えないといけないんだ。
あの人が、死んでしまう。
誰かを殺してでも、護りたい人なの。
強迫観念に襲われ、小刻みに震える体。体の内側から冷やされていく感覚なのに、異常に頬が火照る。
涙は出ないのに、苦しげに嗚咽が漏れた。
牧野が、先に行動を起こす前に終いにする。よろりと椅子に座り直し、震える指でキーボードを叩こうとした。
視界の端に、黒が映り込んだ。
そう思うや否や、両腕を掴まれていて、力ずくで立たされていた。
彼に、見下ろされている。
ジンの目に映り込む自分は、今まで見たことない程動揺していた。絶望、苦痛、そこに余裕は一欠片もない。
追い討ちをかけるかのように、ジンは残忍な笑みを浮かべた。それだけで、苗字の背筋が凍りつく。
「いい目だ」
呆然とする苗字の右目へ、ジンは指を這わせる。目から腫れた頬、血が端にこびりついた口元、熱を持つ首へと大きな手がつぅ…と滑っていく。
「…さっきの奴はベルモットじゃねえな。……ロゼか」
す…と細められた目は、笑っていない。凍える程の静かな怒り。何かを察したのか、苗字の目を覗き込む。
「絶望しろ。世界を恨め。お前がすがる希望は、俺が潰してやる」
ジンはいつも、苗字の心を見透かす。この世界で心を押し潰されないのは大切な人達がいるからと、知っているんだ。
それに執着心を見せるジンの気持ちが、読めない。ゆらゆらとする苗字の瞳。ぼんやりとする姿に怒りを露わにしたジンは、苗字の口元にコーヒーが入ったマグカップを押し付ける。
「飲め、抵抗したら殺すぞ」
「や、だ」
こんなの、絶対おかしい。流されるまま何でもやっていたら、それこそ、人工的に作られた機械。感情も、痛みも忘れて、思考も投げ捨てるなんて卑怯だ。
拒絶した途端、強い力で押され、呆気なく苗字は床に叩きつけられる。頭を強く打ち、顔を顰めていると、ジンが覆いかぶさってきた。何とか引き離したくて肩を押すが、びくともしない。
素早い動きで、顎を固定され、強引に唇を奪われる。重なる感触に驚き、体が固まる。
続け様舌が口をこじ開けようとされ、必死に抵抗する。顔を背けようにも顎を固定され身動きを封じられている。
負けじと抵抗していたが、首の気道を強く押さえつけられ、空気を求め口を開いた隙に、熱い液体が積きって流し込まれた。
「…んぅっ…」
驚き口を閉じようにも、苦しくて閉じられない。空気を求めるように喘ぎながら、飲み干すしかない。苦味と卑猥な音に、頭が徐々にぼー…としていく。
一度離されるが、呼吸を整える暇さえ与えずコーヒーを無理やり飲まされた。何度も同じことをされ、終いの頃には、苗字は抵抗すらしなかった。
考えることすらどうでもよく、鈍痛は思考を鈍らせる。ジンに体を起こされ、無気力なまま体を預けた。
ゆっくりと、頭の重さを増していく。
薬が、体を蝕んでいく。
「……ジン。組織に潜伏しているnoc、一人見つけたよ」
私はただ、仕事をこなせば良い。
あの人の、ために。
◇
そして、その数日後。
苗字の掌握しているデータベースから、スコッチが自決したと情報が入った。
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