あれから、苗字の裏工作は牧野の生み出す生存フラグを端折り、着々と計画は潰していっていた。
流石コアと言われていることだけはあり、組織内のことで有ればネットワークを通じて、動かずともこの小部屋から暗に根回しを施すことができる。
研究室からの薬剤が盗まれたという報告は受けていない。情報が露呈されたとも。先手を打つためにも次の手を知っておく必要はあるが、自身が牛耳る情報網から見逃す心配は今のところない。この前ビンタされて暴れたところを取り押さえられていたから、敵意を持たれちゃったのは確かなことだけど。
今現在小さなモニターの方には、険悪な顔で凝視する牧野の顔が映っている。彼女の携帯をハッキングし、内蔵カメラを使い映像を受信しているのだ。
その顔を、ぼーっとした顔で苗字は見つめていた。自分は嫌われているが、牧野はこの世界で生きている。スコッチのために、命を無駄にしているわけではないと確認できるから、安心する。
こんな願いを持っていると知ったら、きっと牧野は私のこと、殺そうとするかな。
でも、それってきっとハッピーエンドだよね。だって、王道の粛正だから。ジンに殺されるよりも、よっぽど夢見が良い。
ふぅと、湯気がたつマグカップに息を吹きかける。忍びなくて、両手でマグカップを持ちながらモニターに背を向ける。今日の仕事も終わり。ソフト作成も順調。警備も抜かりない。
フツと、画面が唐突に真っ暗になる。必要情報は既にメモリーに移行され、閲覧されたものは強制的に削除されるよう機能しているのだ。
情報の露呈を防ぐためだが、今の苗字には好都合な処置だった。
…いつも通り。またこの時間に、眠たくなってきた。
ウトウトとする中で、膝に違和感を覚えた。重みが重なり椅子が小さく軋む音に、再度目を開けた。
「嫌な物を見る目で見ないでくれるかい?一番の理解者に、つれないなぁ」
猫は嫌らしい笑を浮かべる。あしらう力は、苗字には無かった。
「なら教えて。あの人は元気?」
「勿論さ。体は相変わらず弱いみたいだけどね。近々手術も控えているようだよ」
…手術…。そんな大事な時期に、側でお世話すらしてあげられないなんて。
なんて役立たずなんだろう。
悔しくて、自分が憎くて涙が出そうなのに、忌々しい眠気はその労力さえ奪っていった。まるで、思考を遮断するかのように。
「ここで支給される現金、あの人の元へ送って」
「その程度のこと、お安い御用さ。ただ良いのかい?君が代償を払って得ているものなのに、君自身が使わないで」
「欲しいものなんて……」
意識が薄れていく。体の感覚が、ジワジワと麻痺する。
体が前に倒れるのと同時に、猫は軽やかに消えてなくなった。
後に残るのは、緩やかに溺れていく鈍覚。
床に飛び散った、むせ返る程のコーヒーの香り。一種の中毒のように、それは脳に刻み込まれる。
欲しいものなんてない。
その世界に、私が求めるものはない。
◇
久々の外だった。
日光を浴びると、人間の脳内でセロトニンが分泌される。脳の活発につながる脳内物質は仕事をする上でも不可欠なため、外での日光浴は重要な仕事といっても良い。
よって公園内のベンチに白昼堂々横になって昼寝することもまた、仕事だ。周りに同じ組織の者はいないが、腕にはしっかりGPSが埋め込まれた腕輪が取り付けられている。これがある限り、苗字が少しでも不審な動きをすれば取り押さえられるというわけ。
ここまで厳重に監視されていることと、過去何度も脱走をしたことはきっと関係しているのだろう。
昔の私、何をしようとしてたんだろう。実質的には、私ではないのだけれど。
…兄さんに、関係しているのかも。
公園で遊ぶ兄妹を見て、ぼんやりとそんなことを思う。
自分は、その兄に、会いたいのかもしれない。一度は兄の記憶を奪われたようだが、自分のおかげで思い出すこともできた。何とかコンタクトを取りたいが、折角今無事でいるのに、危険に晒すことにもなりかね無い。
FBIに任せて、関係を経つのが、兄のためなのかもしれない。
真っ青な空。
澄んだ空気に、子供たちの笑い声とベースの低音が混じっていた。
誰かが、ベースを教えているみたい。俗世に疎い苗字には、何の曲なのかは分からなかったが、耳に心地よい。
ここは平和だけど、名探偵コナンの世界なんだよね。この瞬間だけ、その事実を忘れることができる。現実逃避と言われて仕舞えばその通りだが、そんな幻想すら優しく感じる。
「そこのおねいさんに、リクエストあるか聞いておいで」
うん!と元気に返事をする子供の声と、かけてくる足音。そのおねいさんと自分が同意義とはつゆ知らず、苗字はぼーっと空を仰いでいた。
「ね!おねーさん!!」
突然子供に話しかけられて、苗字はゆっくりと体を起こした。キラキラとした純粋な目を見返す。
「えー…と。…私の、こと?」
「うん!今度はおねーさんの好きな曲弾いてくれるって!!」
ほら、と子供が指差して後ろを振り返る。その指先に導かれるように、苗字は子供の背後を見た。
そこには子供に囲まれて、ベースを片手に持った男性がベンチに腰掛けていた。音は聞いていたけれど、誰が演奏してるかまで知らなかった。
その男性と目を合わせた瞬間、苗字の呼吸が、一瞬止まる。
……会っちゃ…た。
「学校もサボって公園で昼寝は、感心しないぞ」
そう言って、悪戯っ子のような笑みを浮かべる男を、知っている。モニター越しに、再三見た。見間違えるわけがない。
スコッチ。
彼が、苗字の目の前にいる。
「サボるってどういう意味?」
「ばっくれるって意味さ」
「全然分かんないよ」
そんなくだらない会話を、日中子供達としている。その内容すら、苗字の耳には入らない。そもそもあなた、組織のメンバーとして仕事しなくて良いんですか。そんな陽だまりみたいな笑顔をする人とは、思っていなかったのに。
会いたく無かったのに。
モニター越しに、悪人だと思って見ていたのに。
「ね、おねーさん!曲!!」
「え?……あ」
肩を掴まれ、はっと現実に引き戻される。そう、これが現実。優しい世界が微笑むことなんて、今までだってなかったじゃない。
「ごめんなさい。私、音楽とか全然聞かないから…」
期待して見つめられる中、申し訳なくなる。空気を読めない返答に、子供達も何だこの人?って目で苗字を見る。
どうしよう。変な子って、思われたかもしれない。
彼は無言で苗字を見つめた後、何も言わないでベースを構え、曲を弾きだした。
優しい音。
今まで賑やかで快活な感じだったが、今弾いている曲は、穏やかで、心地よい曲調だった。
彼が何者なのかも、彼をどう見てきたのかも忘れ、ただ曲に耳を傾ける。
曲が終わる頃には、純粋な称賛の意を込めて拍手をしていた。
「お上手ですね、ギター」
また弾いてねという子供達の頭を撫で、さよならと手を振ると、彼は苗字の隣に腰掛けた。今まで染み付いた癖か、一瞬、体が強張る。
「これは、ベース。…趣味なんでね。君だって、音楽は好きだろ」
怪訝な顔をしていたのだろう。彼がくくっと笑う。
「好きでもない奴が、あんな顔をして聞き入ったりしないだろ」
変な顔、していたのかな。でも、久々に何かに関心を示していたかもしれない。夢中になるって感覚、すっかり忘れちゃっていた。
「見た感じ、非行高校生…てとこか?」
不登校の、女子高生に思われているようだ。学校すら行っていませんよ。因みにあなたと同職場ですよ。そんなこと、口が裂けても言えないけれど。
「1日くらい、こんな日があっても良いかと思って」
なんて言って良いのか分からなくて、そんなことを呟いてみる。妙なことを言っている自覚はあるが、本心でもある。だからこそ、彼は怪しんではいないようだった。
「若いうちは、少しくらいレールから外れた方がまともな大人になるぞ。俺が保証してやる」
「…随分、上からですね」
「人生の先輩だからな」
ポンポン…と、頭を撫でられた。
驚いて、瞳孔が広がる。優しい手つきに、その感覚を忘れないようにするかのように、体を硬直させた。
久々な、感覚だ。
涙が出るくらい、懐かしく胸が苦しくなる。
この世界は、生き地獄だと、妙に実感してしまった。小さな善意に触れることで、影がよりいっそう濃くなった。
この世界は、残酷なんだった。
「じゃあな、非行高校生」
にっと笑って、ベースを背負う彼は立ち去っていった。手を振って見送り、スコッチの背が見えなくなるまで見つめていた。
微動だにしない苗字の腕に取り付けられた腕輪が、小さく点滅する。しばらくすると、苗字の体は男の暗い影にすっぽりと覆いかぶされていた。
「時間だ」
単調な声。
ゆるりと顔を上げ、虚に苗字は一つ頷いた。
会いたくなかった。
黒ずくめの背を追いながら、太陽を背にして笑う彼の笑顔が浮かぶ。
日差しがあまりに強すぎて、気分が悪い。
誰か、泣いてくれないかな。
例えば、神様とか。
戻|進