帝国学園総帥の部屋。重厚なカーテンに遮られたその部屋は、昼間であっても夜のような静寂と圧迫感に満ちている。影山零治は、机の向こう側で組んだ指の上に顎を乗せ、底知れない瞳を三人に向けた。
「豪炎寺が入部し、尾刈斗中をくだした雷門がFFの出場を決めた。雷門と尾刈斗の試合……お前たちはどう感じた?」
鬼道が先陣を切って一歩前へ出る。その背中は、揺るぎない帝国キャプテンとしての自負に満ちていた。
「はい。まだ弱小ではありますが、雷門は着実に成長しています。彼らには何かがあるかもしれない……これが俺の意見です」
「鬼道に異論ありません」
名前は鬼道の言葉に短く同意し、影山の反応を待った。影山は口角を僅かに歪め、愉悦を孕んだ声で続ける。
「そうか。なら、もう一つ質問しよう。今度開催されるFF地区大会の決勝戦の相手は、どこになると想定している?」
「現時点でのデータ分析の結果では、昨年の地区予選決勝でも戦った野生中ではないかと」
鬼道の模範的な回答に、影山は「ほう……野生中か。覚えておこう」と、興味深げに頷く。
だが、名前の脳内では別のシミュレーションが弾き出されていた。
……野生中。確かに、今の雷門にとって野生中の身体能力という壁は高い。けど修也をサッカーに呼び戻したあのチームならば、その壁すら踏み台にするはずだ。
名前は、影山の視線が自分を試すように向けられているのを感じた。ここで鬼道と同じ答えで終わることもできる。けれど、影山という男は恐らく既に「答え」を持っている。土門を送り込んだ時点で、彼は雷門が決勝まで這い上がってくることを予見し、来たるべき時への準備を始めているはずだ。
名前は瞳の奥に不敵な光を宿し、静かに口を開いた。
「……総帥。データ上は野生中が有力ですが、私は不確定要素としての雷門に、より高い関心を寄せています」
鬼道が隣で僅かに眉を動かした。名前は構わず、真っ直ぐに影山を見つめて淡々と続ける。
「地区予選という盤面をかき乱し、我々の牙城へ迫る可能性を持つ駒。総帥が彼らの元に土門を派遣したのも、その波乱を掌握し、帝国の完全なる勝利をより劇的なものにするための采配……そうお見受けしますが?」
鬼道からすれば、これは強敵を飼いならし、より高みで叩き潰すという帝国の覇道を称える言葉に聞こえただろう。
だが、これは極限の揺さぶりだ。もし影山が「名字が帝国の闇を勘ぐっている」と察知すれば、次はこの牙が自分に向けられる。
しばしの沈黙。部屋の温度が数度下がったかのような錯覚の中、影山の喉の奥から、くぐもった笑いが漏れた。
「……ククッ、やはりお前は面白い、名字。私の意図を、そこまで読み解いているとはな」
影山の瞳に、冷酷な光が灯る。名前の揺さぶりは、彼の中に眠る歪んだ創造性を刺激してしまったかもしれない。
名前は、影山の満足げな表情を見ながら、内心で冷ややかに拳を握る。食いついた!
影山が雷門を「面白い駒」だと思えば思うほど、その排除工作はより具体的で、より過激になる。自らの手を下さず、事故を装って全てを葬り去るのが彼の流儀だ。だが大胆な策略を成そうとすれば、必ずどこかに綻びが出る。この賭けに出た以上、どんなに微細なものであっても、私がそれを見逃していいはずがない。
不気味に光る影山のサングラスが、名前の全てを見透かしているかのようにこちらを射抜く。視線が交錯する刹那、名前は獲物を狙う蜘蛛の巣に絡め取られるような悪寒を感じた。
「……失礼します」
鬼道と共に部屋を辞去する際、名前は一度も振り返らなかった。背後に残る重苦しい気配から逃れるように、廊下を歩く。
この揺さぶりが、雷門を、そして彼らの大切な人たちを大きな危険に晒すことは痛いほど分かっている。これは、あまりにも危険な賭けだ。失敗すれば、かつて幼馴染が心に深い傷を負ったあの事件以上の悲劇を招くことになる。
冷え切った右手を、スカートのポケット中にある携帯電話にそっと添えながら鬼道の隣を黙々と歩く。
40年間、一度も尻尾を掴ませなかった男だ。だが、因縁深い雷門中との40年ぶりの再戦を前にして、あの影山零治が冷静なままでいられるはずがない。既にその片鱗は、前例のない冬海と土門のスパイとしての送り込みで見え始めている。
彼が再び「完璧な事故」を描こうと筆を執る今年こそが、その尻尾を掴む唯一の好機なのだ。
鬼瓦刑事には、雷門周辺の厳重な警戒を依頼しなければならない。土門に渡した「保険」のメモも、きっと機能してくれるはずだ。
絶対に誰も不幸にさせてはならない。その為にはこの賭けに勝つしか道はないのだ。
名前は目の前に広がる無機質な廊下を睨みつけた。その瞳には、影山に植え付けられた恐怖を焼き尽くすほどの、鋭い光が宿っていた。
総帥室の重い扉が閉まると、途端に空気の密度が変わった。
廊下には二人の足音だけが規則正しく反転する。名前はポケットの中の携帯電話を強く握りしめたまま、前だけを見据えて歩いた。指先の感覚はとうに消え、代わりに硬いデバイスの感触だけが、ことの重みを伝えてくる。
不意に、隣を歩く足音が止まった。
数歩遅れて、名前も足を止める。振り返ると、数メートル後ろで立ち止まった鬼道が、ゴーグルの奥の視線をじっとこちらに向けていた。
「……随分と、雷門を高く買っているんだな」
低く、抑えられた声。鬼道は腕を組み、わずかに顎を引いている。ここ最近よく聞く声のトーンだ。名前はふっと肩の力を抜き、あえて大袈裟に首を傾げてみせる。
「データが示す外れ値を評価したの。彼らは化ける…野生中の牙が届かないところまでね」
いつものように、淀みない口調。だが名前が顔横にかかる髪をかき上げた際、わずかに出た右手の指先は、まだ幽かに震えていた。
鬼道はそれを見逃さなかった。彼は再び歩き出し、名前の正面で足を止める。近距離で対峙すると、彼の纏う規律正しい威圧感が、名前の隠し事を暴き立てるように迫ってきた。
「それだけか?」
鬼道の視線が、名前の携帯電話で僅かに膨らんだスカートのポケットへと落とされる。
鬼道は何も言わず、ただ名前の顔を、その青ざめた肌の質感を確認するように見つめる。平静を装うための美しい微笑みで名前は鬼道をじっと見据える。やがて彼は、その視線を外すと、名前の横を通り抜けざまに低く呟いた。
「お前の分析は信頼している。だが、お前が『分析対象』以上の何かに呑み込まれそうに見えるのは……俺の気のせいか」
追い越していく彼の背中。名前は唇を噛み、その背中を見つめる。震えが誤魔化せなかった右手を押さえ込むようにそっと左手を幼子同士が手をつなぐように添えた。
「……買い被りすぎだよ、キャプテン。私はいつだって、勝利に一番近い道を探しているだけ」
名前が放った乾いた笑い声に、鬼道は足を止めず、ただ「そうか」と一言応えたあと「無理はするなよ」と小さく添えてくれた。どうやら無理をしているように見えるらしい。それでも深入りしない彼の不器用な優しさが今は少し心苦しかった。
鬼道の姿が廊下の角に消えるまで、名前は動かなかった。一人になった瞬間張り詰めていた糸が切れ、誰もいない廊下の、冷たい壁に背中を預けて深く息を吐き出す。
彼のサッカーを守るために、彼を欺き続ける。その矛盾が、今だけは鉛のように重く、心にのしかかっていた。
名前は体温を失った手でポケットから携帯電話を取り出し、一人の連絡先を呼び出す。
メッセージ欄に打ち込まれた言葉は、先程豪炎寺に送ったものとは対極にある、緊張の張り詰めた文だった。
『影山に揺さぶりをかけました。影山の狙いは完全に雷門です。彼らの身辺の厳重警戒をお願いします。
ヤツが大胆な行動に出た時、その綻びを必ずや掴んでみせますので。また何か分かり次第ご連絡します。』
送信。
画面から放たれる青白い光が、暗い廊下で名前の瞳を鋭く照らし出す。ここからが正念場だ。
名前は震えの止まった両の手で、軽く両頬をぺちんと叩いた。壁から背を離し、再び歩き出すその背中には、もう迷いの色はなかった。