ついにその日がやってきた。
フットボールフロンティア地区大会、開幕。
朝靄の立ち込める帝国学園のサッカーフィールドは、いつも以上の張り詰めた空気に満ちていた。朝練のために整列した帝国イレブンの前、影山零治は威風堂々と佇んでいる。
「フットボールフロンティア地区大会が開幕した。だが地区大会など足慣らしにすぎない。フットボールフロンティアを制するのは無論、我が帝国学園だ。圧倒的な勝利、完全なる勝利を見せてくれたまえ」
低く、地を這うような影山の声が、イレブンの鼓膜を震わせる。
「はい!」
軍隊の如く統一された、地響きのような返声がスタジアムに木霊した。
影山は満足げに頷き、ゆっくりと歩みを進める。その去り際、きらりと不気味に光るサングラスが、わずかに斜め後ろにいた名前の姿を捉えたような気がした。
ほんの一瞬、品定めをするような冷徹な一瞥。
名前の背筋を、氷水を流されたかのような鋭い悪寒が駆け抜けた。先日の揺さぶり、それを影山がどう受け止めたのか、その答えがこの一瞬の視線に凝縮されているようで、名前は無意識に冷えた指先をぎゅっと握り込んだ。
「……総帥の言葉には力がある」
バラバラと練習に向かう他の部員たちの中でただ一人、影山の背中を見送っていた鬼道が、ゴーグルの奥の視線をフィールドへと戻しながら呟いた。その声には、一切の迷いがない。
「圧倒的な勝利、完全なる勝利……。繰り返し口にすることで常に意識することができる。」
心酔とまではいかずとも、他にはない信頼感を寄せたような声音。
名前はそんな鬼道の横顔を見つめ、静かに息を吐いた。
「何をもって完全な勝利とするのか、よく考えることだね、キャプテン」
鬼道が訝しむように僅かに眉を動かし、視線をこちらへ向けた。名前はそれを受け止めながら、ふっと視線を外してフィールドへと歩き出す。
「ただ相手を捩じ伏せるだけが勝利じゃない……なんてね。さ、開幕の日の朝練、気合入れてこうか。」
名前の言葉を受けた鬼道がどんな顔をしているのか、既に背を向け歩き出した彼女には分からなかった。だが、彼の芝生を踏み締める音が聞こえてくるまで一呼吸あったことだけはその耳が捉えていた。
*
日中。授業の合間の短い休み時間、名前は廊下で、鬼道と源田の二人に合流していた。他の生徒達の会話でガヤガヤしているこの空間は、朝の緊張感を幾分か緩和しているように思えた。
「土門は今日から雷門か……。何か報告はあったか?」
壁に背中を預けた源田が、腕を組みながら鬼道に問いかけた。今日から雷門中へと潜入した、かつてのチームメイトの動向。鬼道は静かに首を振る。
「いや、まだない」
「そうか、あいつはノリがいいからな。上手く雷門に馴染むといいが……」
少しだけ案じるような源田の言葉に、名前は手元のファイルを胸に抱え、くすりと笑った。
「心配いらないでしょ。彼はただノリが良いだけじゃなくて、相手の警戒心を解くのが上手いからいつの間にか相手の懐に入り込んでるよ。彼の順応性の高さが随一だからこその抜擢だろうし」
名前の少し違う観点からの土門評に、源田は一瞬目を見張り、それからなるほどな、と破顔した。
「それもそうだな。あいつのあの調子なら、今頃もう雷門のキャプテンあたりと肩を組んでるかもしれない」
「フッ、想像に難くないな」
鬼道も源田の言葉に、珍しく声を立てて小さく笑った。土門という男の持つ独特の軽やかさを思い出し、二人の表情に僅かな安堵が広がる。
その時、名前が胸の前に抱えていたタブレットが短く振動した。
画面上部の通知を見つめた瞬間、名前の笑みがぴたりと消える。発信元は影山零治。鬼道と名前宛てに届いた、放課後の指示だった。
「鬼道、総帥から。」
名前の引き締まった声音に、鬼道と源田の視線が集中する。名前は画面を表示したまま、鬼道に向けて端末を少し傾けた。
「今日の放課後、御影専農中への偵察命令が出た。私とあなたの二人で同行するように、とのこと」
「御影専農か……。データサッカーを標榜する、地区大会の有力候補だな」
鬼道が低く応じる。名前は素早く端末を操作し、別のデータを源田へと転送した。
「というわけだから、源田。今日の放課後の練習は、佐久間と一緒に任せたよ。練習メニューは今、共有しておいたから」
「ああ、分かった。留守は任せておけ。偵察、よろしく頼むぞ」
源田は名前の頭をポンと一度だけ軽く叩くと、頼もしい笑みを浮かべて教室の方へと歩き出した。
名前は残された髪の感触を意識しながら少し乱れた髪を直し、すぐに鬼道へと向き直る。
「さて、キャプテン。御影専農が誇るデータサッカー、私たちの目で確かめに行きましょうか。放課後、よろしくね」
微笑む名前の脳内では、地区大会のトーナメント表が素早く展開されていた。
御影専農中。鬼道が地区大会決勝の相手と踏んだ有力校ではあるが、野生中を越えた雷門が次にぶつかる相手でもある。
総帥が直々にその力量を測りに行く理由。それは、雷門を確実に排除できるだけの技量が彼らにあるかを自身の目で見極めるためだろう。先日の己の揺さぶりが、早くもこの偵察を引き寄せたのだとしたら。背筋にゾクリとした緊張感が走る。
だが陰謀の気配を察しつつも、名前の胸にはそれとは裏腹な高鳴りがあった。徹底されたデータサッカーを標榜する強者が、一体どんなサッカーを魅せるのか。
純粋な知的好奇心が、彼女のグレーの瞳の奥で不敵な光を灯していた。
*
放課後。影山に連れられ鬼道、名前の2人は御影専農中のグラウンドに足を踏み入れていた。
無機質で、どこか工場を思わせるようなグラウンド。少し引いた場所から、御影専農の監督である富山と影山が言葉を交わしているのを見守りつつ、名前はフィールドで行われている異質なデータサッカーに鋭い視線を送っていた。隣の鬼道の様子など今は気に留めることもない。
「選手の頭部に装着された電極コード……あれで監督の端末とリアルタイムで通信を行っているのか」
名前が手元のタブレットで彼らの挙動を記録しながら小さく呟く。
「視覚に直接、相手のスキャンデータや分析結果が投影されているのかな?選手たちの目にどんな風に世界が見えているのかは少し興味があるけど……」
そこで名前は、ふっと面白くなさそうに目を細めた。
「いくらリアルタイムで相手の弱点やデータが開示されたところで、それを瞬時に処理し、実行できるだけの個の能力が培われていなければ宝の持ち腐れ。指示通りに動くことだけに特化して、イレギュラーに対応できない頭でっかちになっていなければいいけど」
その手厳しい分析の傍らで、影山と富山の会話が名前の耳に届いた。
「ほう、雷門のデータか」
「素晴らしいでしょう!総帥!我が校が誇るコンピューターシステムで管理されたサッカー選手達は!」
「なるほど、プログラムデータとはいえよく仕上がっている」
揉み手でもしそうな勢いで媚びへつらう富山の態度。その異様なまでの低姿勢と会話の端々から、名前は予見通り、この御影専農が既に影山の息が深く掛かった手駒であることを確信した。
「サッカーサイボーグとも呼べるこの選手たちが本番でも完全な勝利をお見せすることでしょう!」
「勝利だと?雷門を潰すなど勝利のうちに入らん!ただの害虫駆除作業だ」
「し、失礼しました!」
影山の口から吐き捨てられた冷酷な言葉に、空気が凍りつく。
害虫駆除作業。そのあまりにもサッカーを、そして対戦相手を侮辱した言葉選びに、さすがの鬼道も僅かに眉を顰めていたようだ。
名前はタブレットから顔を上げ、聞こえよがしに小さく息を吐く。
「……雷門を潰すのが害虫駆除作業、ね。中学生の部活動に向ける言葉にしては、随分と物騒だこと」
影山に聞こえるか聞こえないかの声量で苦言を呈した名前に対し、鬼道は周囲を警戒するように声を潜めた。
「総帥の勝利に対する思いは、オレ達が推し量れるものではない。……言葉に気を付けるんだな。感情を表に出すなど、いつものお前らしくもない」
鬼道の言葉は忠告のようでいて、影山の前でこれ以上ボロを出さないようにという、彼なりの不器用な気遣いだった。
「思い、ねぇ……」
名前はぼやきながら、富山を見下ろす影山の背中を冷ややかに見つめる。
影山の雷門中に対する執着は、やはり異常だ。あの無敗を誇る帝国のサッカーを築きあげてきた男が、この40年FFに出場すらしてこなかった弱小チームに対して害虫駆除などという感情的な言葉を口にするなんて。
それは雷門の面々に迫る危険な兆候であると同時に、名前にとっては一筋の光明でもあった。
影山の底知れない執念が、ここに来て隠し切れず表面化し始めている。感情に揺さぶられた人間は必ず綻びを生む。彼の焦りと異常なまでの執着こそが、あの日の闇を暴き、彼を追い詰めるための最大の武器になるはずだ。
「野生中が強豪とはいえ、雷門の能力はデータ不足で未知数……。総帥は帝国の勝利について、常に考えておられる方だ。あらゆるケースを想定し、リスクは潰しておきたいのだろう」
鬼道が、自らにも言い聞かせるように影山の行動を正当化する。
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
名前は小さく肩をすくめた。
「順当にいけば帝国と当たるはずの相手の手札が全開示……というか、総帥の息が掛かっているのは勝負として面白くないけどね」
「そもそも過去のデータに勝つことに甘んじているチームであるようなら、帝国の敵ではないだろう」
どうも突っかかるような物言いをする名前に対し、眉間のシワを刻みながら吐き捨てる鬼道。その揺るぎない自信に、名前はふっと口角を上げる。
「それについては異論ないわ」
余計な事を話しすぎた気がする、と名前は口元に手を持ってきて上がった口角を隠すようにしながら、御影専農のフィールドに目を向け直した。