帝国学園のグラウンドから土門を送り出した、その日の夕方のことだった。
部活を終え、夕闇が迫る帰路についていた名前のポケットで、スマートフォンが短く震えた。取り出して画面を見れば、そこには1年もの間、一度も光ることのなかった名前が表示されている。
『豪炎寺 修也』
心臓が、トクンと一段高く跳ねた。1年という歳月は赤の他人になるには短すぎるが、ずっと側にいたあの頃と比べると長すぎた。少なからず動揺しながらも、名前は逃げるように受話ボタンを押した。耳に当てた受話口から、懐かしい、けれど記憶より少しだけ低くなった声が響く。
「……電話では久しぶりだな。この後、会えないか? 直接会って伝えたいことがある」
有無を言わせぬ響き。けれど、その奥にはどこか微かな熱が孕んでいた。
「丁度帰宅途中だからね、いいよ。どこで?」
「駅まで迎えに行く。……良かったら、夕飯を食べていかないか」
「……わかった。お邪魔させてもらうよ」
1年の蟠(わだかまり)など最初からなかったかのように、会話は淡々と、けれど淀みなく続く。名前は電話を切ったあと、ふっと口元を緩めた。声のトーンだけでわかる。今日の彼は、あの沈んでいた1年間の彼ではない。
『話したいこと』の正体に確信を持った名前は、軽やかな足取りで稲妻町へと向かう電車に乗り込んだ。
駅の改札を抜けると、すぐに見慣れた顔が見慣れない雷門中の制服に身を包んで立っていたのが目に飛び込んできた。
「ごめん、待たせたかな」
「いや。俺が呼んだんだ、気にするな」
歩み寄る名前に気づき、豪炎寺が片手を上げる。その制服を見て、名前は思わず目を細めた。
着始めて数日しか経っていないはずの制服は、随分とくたびれ、肩や裾には白っぽい砂埃が被っている。この放課後、彼がどこで何をしていたのか。最早想像するまでもない。
豪炎寺の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。名前を見た瞬間、彼の口元にふっと柔らかい笑みが浮かぶ。それだけで、名前の胸の中にあった小さな棘が溶けていくようだった。
「……何をしてたか、聞かなくてもいいみたいだね」
「ああ。隠すつもりもない」
並んで歩き出すと、夜の帳が下り始めた稲妻町の穏やかな空気が2人を包んだ。会話は少なくとも、隣から伝わる歩幅の感覚がひどく心地良い。
豪炎寺の家に着くと、家政婦のフクが目を丸くして2人を迎えた。
「まあ、名前さん! なんて久しぶりなんでしょう」
驚きで震える声をすぐに温かな歓迎に変え、フクは2人のために腕によりをかけた夕食を並べてくれた。あの子がいない事で大分静かではあったが、1年前までは当たり前だったこの食卓の風景が、今は宝石のように貴重なものに感じられた。
食後、2人は自然な流れで豪炎寺の私室へと移動した。
彼らしく整然とした部屋。カチコチと時を刻む時計の音だけが、沈黙を強調するように響く。並んでベッドの端に腰掛ける2人の間には、拳一つ分の距離があった。
豪炎寺は何かを言いかけ、けれど言葉を選んでは飲み込むようにして視線を落としている。その不器用さが彼らしくて、名前はたまらずに前を見つめたまま口を開いた。
「ねえ。……サッカー、また始めたんでしょ?」
豪炎寺が弾かれたように名前を向き直る。核心を突かれた驚きに目を見開き、やがて彼は、降参だと言わんばかりに苦笑した。
「ああ。……円堂に夕香の話をしてな。雷門の理事長代理に、『一番サッカーをしてほしいと思っているのは誰だ』と問われたんだ。……それで、目が覚めた」
昨日の自分、今日の自分。心境の変化を語る豪炎寺の瞳には、熱い炎が戻っていた。
けれど、名前の反応は意外なものだった。
「……そ。よかったじゃない」
ふい、と顔を背ける。声は明らかに尖っており、頬は少しだけ膨らんでいた。
彼女が何を怒っているのか、豪炎寺にはすぐに分かった。1年前、彼女が必死に彼に投げかけ、彼が頑なに拒絶した言葉。「夕香はそんなこと望んでいない」という真理。それを、彼女ではない別の人間に言われて納得したことが、彼女の誇りをほんの少しだけ傷つけたのだ。
「……本当に、すまなかった。夕香のためにサッカーを辞めるなんて、あいつは……誰も、望んでいなかったのにな」
豪炎寺は、名前の横顔を見つめながら、一言一言を噛み締めるように謝罪を重ねた。自分を案じてくれていた唯一無二の少女を、1年も遠ざけてしまった後悔。
名前はしばらく黙っていたが、やがて小さく溜息をついて俯いた。
「……気づくのが遅い、修也のバカ。……でも、私こそごめんなさい。夕香が事故に遭って、あなたが気落ちしないはずないのに……あんな言い方、すべきじゃなかった。もっと、寄り添うべきだったのに」
強気な彼女の口から零れた、弱々しい本音。
豪炎寺の胸に、切ないほどの愛しさが込み上げた。自分を責める必要なんてない。悪かったのは全て、周りを見ずに一人で抱え込んだ自分なのだ。
名前は「お互い、素直じゃないものね」と自嘲気味に呟くと、ゆっくりと瞼を閉じ、豪炎寺の肩に頭を預けた。
触れ合った箇所から、じわりと熱が伝わる。
1年前より少しだけ逞しくなった気がする彼の肩の感触。それは、名前にとってどんな場所よりも安心できる、魂の居場所だった。豪炎寺にとって、その重みは「恋」というにはあまりに尊く、けれどこれ以上ないほど甘やかな毒となって、彼を縛り付けていた。
「ねえ、修也。……おかえり」
囁くような、けれど深い愛の籠もった声。
豪炎寺は溢れ出しそうな感情を堪え、震える手で彼女の柔らかな髪に触れた。
「ああ。……ただいま、名前」
壊れ物を扱うように、けれど確かな愛着を込めて、彼は名前の頭をゆっくりと撫でた。
失われた1年の空白が、その体温を通じて静かに、確実に埋まっていくのを感じていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
静かに離れたときには、窓の外は深い夜の色に染まっていた。
「そろそろ、御暇するね」と立ち上がった名前に、豪炎寺は当然のように「送っていく」と声をかけた。
「大した距離じゃないし平気。どうせ明日から朝練なんでしょ? 」
「お前の大丈夫、平気は信用ならない。何があるかわからないから、送らせてくれ」
「信用ならないって何よ。それにそんな丁重に扱ってもらわなくても…」
「ほら、いいから行くぞ」
「わかった、わかったから。その代わり駅まででいいからね」
有無を言わさぬ口調で先に歩き出す豪炎寺。名前は呆れたように肩をすくめたが、その唇は隠しきれない弧を描いていた。
この譲らない強引さも、その裏にある過保護なほどの心配性も。すべてが、彼女の知っている豪炎寺修也で、それが変わらない事がたまらなく嬉しかったのだ。
夜の河川敷。空には満天の星が輝き、涼やかな風が2人の間を吹き抜けていく。
他愛もないサッカーの話。これからの雷門の話。今までの帝国の話。止まることのない会話は、弾むような歩調と共に夜の闇に溶けていった。
どちらからともなくこぼれたクスクスという笑い声が、1年という時間の断絶を、もう完全に過去のものにしていた。