三話






 引越した新居に慣れ、一ヶ月が経過したころ。

 桃花はギターを背負い、どこか満足そうに口角を上げてマンション内にあるエレベーターに乗り込み、3階のボタンを押せば扉が閉まった。ウィーンと稼働する音が聞こえると浮上する感覚を覚える。


(新曲レコーディングできたし、満足満…………足?)


 ポンと到着した音が聞こえればドアが自然に開き、彼女は歩き出した。

 今日は日曜日。
 桃花は休日を利用して次にネット配信する曲を録っていたらしい。

 充実した休日を過ごせた桃花は軽い足取りで自分の家を目指して歩いていたが、角を曲がったところでピタリと足を止めた。
 何やら、灰色のものがふたつ見える。


「……あ、我妻さん!?」
「…………」


 不審な顔をして恐る恐る覗いてみるとそこには見知った蒲公英たんぽぽのような髪をした青年が倒れていた。自分の家の隣に住む人間が倒れていたら、誰だって驚くだろう。

 彼女は慌ててしゃがみ込んで彼の肩を揺さぶりながら、声をかけるが応答はない。


「え、ちょっと、だ、大丈夫ですか」
「……………」


 さらに激しく揺らし、大きな声で問いかけるが意識は戻っていないようだ。

 もしかして息していない?

 そんな不安に駆られ、口元に手を当ててみると微かに当たるあたたかい吐息に安堵し、桃花は肩の力を抜く。


「な、なんでこんなところで寝てるのよ……!」
「う……」


 家の前で力尽きて寝ている隣人に呆れた様で信じられないとばかりに言葉を吐き出すと善逸は眉間にシワを寄せてうめき声を上げた。


「どうしよう……でも、こんな所で……〜〜ああ、もう!あとで文句言わないでくださいね!」


 このままほっとこく。

 その選択肢は彼女の中でないらしい。
 悩んだ末、桃花は自分の家の鍵を開けると彼の腕を自分の肩に回し、家へと招き入れたのだ。


◇◇◇


「………あ、れ…」


 ゆっくりと目を開けて一番最初に見えるモノに違和感を覚えるが、寝惚けていて頭が回っていないらしい。善逸は短く言葉を零すが、ぼーっとしたまま天井を見上げた。


(天井は似てるけど……優しい香りと音がする……なんで?)


 自分の家ではこんなに優しいものに包まれている感覚がない。天井は同じように見えるけど、確実に何かが違うようだ。ボケっとした表情をしたまま、疑問を自分に問いかけるが、帰ってくる答えはない。


「あ、我妻さん。起きました?」
「っ、!?」


 茫然と天井を見つめていた視界にひょいと現れた桃花は彼の顔を覗き込み、問いかけた。視界いっぱいに映るその姿に善逸は目を見開いて言葉にならない叫び声を上げて飛び起きる。

 シンプルではあるが、観葉植物が置かれており、落ち着く雰囲気のある部屋のソファに眠っていたことに彼はますます頭を悩ませた。

 明らかに自分の家ではないということに。
 何故、隣人である彼女がいるのかということに。


「驚かせてすみません」
「うぇ!?な、んでオレここにいるの!?」


 驚かせてしまったことに申し訳なさを感じたのか。桃花は眉を八の字にさせて謝罪の言葉を口にするが、どうしてこの状況になったのかまるで覚えていないらしい。顔を真っ赤にさせて驚きの声を上げ、問いかけた。


「家の前で倒れてたんですよ……覚えてませんか?」
「え、……あ、そ。そうだったね…で、でも。何で……」


 目を細めて問いかけると床に腰を下ろし、ソファに座っている彼を見上げて言葉を紡ぐ。その言葉で倒れたことを思い出したらしい。しかし、どうして彼女の家にいるのだろう。納得したように頷くが、やはり疑問が残った。


「あのまま放置することなんてできませんから家に招きました……が、我妻さん!」
「は、はい!」


 桃花はふぅと息を吐いて、目を閉じて善逸の疑問に答えるとすっと目を開けてじっと見つめ、強めの口調で彼の名前を口にする。

 その声に彼はビクッと肩を揺らし、変に緊張した声で返事をした。


「ろくに寝てませんね??」
「っ、」


 どこか鋭さを孕んだ目に見つめられ、指摘された言葉に善逸は言葉を飲む。否定しないということは、それはつまり肯定ということだろう。


「こんなひどいくま作って……」
「あはは……、俺の会社なかなかのブラック企業だから、仕方なくてさ」


 彼女は肩の力を抜くと心配そうな目を向けて彼の目の下にある隈にそっと触れながら、ポツリと呟くと善逸は乾いた声で笑い、後頭部に手を当てて諦めたように言った。

 ブラック企業だから仕方がない。

 そう思っていないとやってられないのかもしれない。


「仕方なくありませんよ。その様子じゃ、ろくに食事もしてませんよね?」
「……何で分かったの?」


 自分の身体より大事な会社なんて在りはしない。

 そう思うのはやはり、前世の記憶があるから余計に思う桃花の見解なのか。眉を寄せ、はっきりと彼の言葉を否定すると若干痩せこけた頬に目をやり、問いかけた。

 全てお見通し。

 そう言われているようで善逸は、ギクッと表情を強張らせて固い声音で疑問を投げ返す。


「睡眠も食事も大事なんですよ。両方ともちゃんと取ってください」
「ど、努力します……」


 たしなめるように優しい声で紡ぐ彼女に反論する気は起きないいようだ。しゅんとした顔をこくりと頷くとぎゅるるるるるるるという大きな音が部屋中に鳴り響く。


「「…………」」


 誰がこのタイミングで鳴ると思うだろうか。桃花はキョトンとした顔をして彼を見つめていると当の本人は熟れたトマトのような顔をして黙り込んだ。


(ただでさえ迷惑かけたのに何でここで鳴るの!?俺の腹は……!!)


 倒れて迷惑かけたこと自体かっこつかなく、申し訳ない気持ちで一杯なのに追い打ちをかける自分の腹に苛立ちを覚え、鳴り響いた根源を睨みつける。

 そして、心の中で荒げた声を上げて訴えるが、帰ってくるのは腹の音だ。生理現象は仕方ないだろうというばかりのタイミングである。


「……ぷっ、……ふふ、…お腹空きましたよね。食べていかれますか?」
「……え、い、いいの?」


 顔を真っ赤にさせて誤魔化そうと黙秘し続ける姿が可愛らしく見えたのか。彼女は口元に手を寄せて小さく吹き出し、笑みを零すと床に手を付き、立ち上がって首を傾げた。

 呆れるわけでも嫌そうな顔をするわけでもなく、優しく笑う桃花に驚いて善逸は顔を上げて弱々しい声で聞き返す。


「はい。多めに作りましたし、我妻さんが良ければ食べて行ってくださ……あ、彼女さんがいらっしゃるなら、やめて頂けると……」
「いないいない!むしろ、募集中!!言葉に甘えて……た、食べてもいいかな?」


 彼女は首を縦に振って言葉を続けるが、ふとある可能性があることを思い出した。もし恋人がいるのなら、誤解を生んで飛び火するのは嫌だと思ったらしい。眉を下げて提案を取り下げる言葉を紡いだが、それは喰い気味の否定によって飲み込まれてしまった。

 彼は必死も必死。
 顔に集まる熱は冷めることなく、余計な事まで口にすると我に返って静かになる。おずおずと桃花にお伺いを立てるように問いかけた。


「……ふふ、はい」
「ありがとう!」
「どういたしまして」


 その姿全てが可愛らしく見えたのだろう。きょとんとした顔をしていた彼女は口角を上げるとにっこり笑みを浮かべて頷く。

 善逸は、ぱあっと明るい表情を見せてお礼を口にすると桃花はキッチンの方へと姿を消した。


(……大丈夫、重なって見えるけれど私はまだ彼に恋してない)


 彼女はきゅんと高鳴るものを感じつつも、前世あの頃のモノと違うと思っているのだろう。胸に手を当てて、一瞬感じたモノに蓋をして気持ちを切り替える。


(……どうしてそこまで優しんだろうなぁ)


 リビングからキッチンの様子が見える彼は支度をしている桃花をじっと見つめ続けた。その視線はどこか熱を帯びているように見えたのだった。



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