七話






「桃花ちゃん!」
「…………善逸さ……」


 遠い昔に愛してしまった人の声。
 昔では考えられないほど、今では近いところにある声。

 その声に胸をあたたかくさせて口角を上げれば、振り向いて彼の名前を呼んだ。いや、正確には呼ぼうとした。

 確かに善逸の声なのに。

 彼女が想像していた姿とはかけ離れたものだったから、目を大きく開いて固まってしまう。


「ど、どうして……そんな姿なんですか?」


 桃花が動揺するのも無理はない。善逸の姿は遠い昔に再会した時のように金の髪を長く伸ばし、高い位置で結んで着物を着ていたのだから。

 バクバクと鳴る心臓。それは意味元で聞こえているようにさえ感じる程に。
 彼女は動揺を隠す暇なく、問いかけた。


「ねえねえ、君があの時の子だったんだね!」
「あの時……?」


 彼は嬉しそうに頬を赤らめて言葉を投げかける。しかし、その抽象的な言葉に桃花はドクンとより一層心臓が跳ねた。

 蕨姫花魁から助けてくれた時?
 それとも、年季を終わらせて外に出たら、ばったり再会した時?

 善逸が示している時はどちらを示しているのかが分からない。それが急に不安を押し寄せているのか。彼女は胸に手を寄せてぎゅっと握り締めた。


「運命だよ!俺達は結ばれる運命だったんだ!!」
「な、に言って……」


 彼はニマニマした顔をしたと思えば、幸せそうに目じりを垂らして笑みを浮かべて桃花の両手をぎゅっと握る。善逸から発せられる言葉ひとつひとつが理解できないようだ。いや、言葉自体は分かる。その意図が分からないというのが最適解かもしれない。

 前世、もうすでに結婚していた人が運命だ何だと言っていれば、戸惑うのも当然だ。


「俺は桃花ちゃんが好きだよ!」
「…………」


 しかし、善逸の口は止まることを知らない。幸せそうに笑って好意……恋慕を伝えてくるだけだ。

 前世、あの頃一番見た夢なのだろう。彼女は目頭を熱くさせて唇を噛み、やっと理解したらしい。これが前世の願望を絡めた夢だということを。


「…………」


 あり得ない夢を見たと桃花は目を閉じ、眉間にシワを寄せると意識を無理矢理浮上させた。これ以上都合の良い夢を見たくない一心で。

 重い瞼を変えれば、変わらぬ日常の風景。白い天井が視界一杯に広がっていた。

 現実を突き付けられた気がしたのか、それとも夢での感情を引っ張られているのか。それは分からないが、彼女の目じりから一縷の雫が流れ落ちる。


「竈門さんと話したせいかな……」


 ゆっくりと上体を起こして気だるそうにひんやりとする床に足を付けると立ち上がり、窓へと近づいた。そして、カーテンに手を伸ばしてシャッという音を立てて覆っていた景色を解放させる。

 桃花の瞳に映るのは清々しく澄み切った青色の空。
 それが眩しく見えるのか、目を細めて夢を見た言い訳をした。


――善逸のことが好きなんですか?


 一瞬、聞こうか聞か舞か悩んだように視線を動かすが、深く息を吐き出すとじっと見え摘めて本題に入った炭治郎の姿。


「……気が付かないように……意識しないようにしていたことを面と向かって言われると辛いところよね」

 あの一言が衝撃的だったのかもしれない。

 青々とした空は対照的に彼女の吐き出す息は非常に重い。困ったように笑みを浮かべて誰に言うでもなく、ポツリと呟いた。


「…………多分、また……惹かれてる……」


 桃花は夢の中で握られていた手に視線を向けると瞳を揺らす。
 炭治郎に聞かれた時は曖昧に誤魔化していたけれど、認めざるを得ないのだろう。今世もまた同じ魂の人に恋をしていることを。


「……好きで、いいのかな……どうせ振り向いてもらえないのに……」


 ぎゅっと手のひらを握り、願い乞うように額にそれを合わせると苦しそうに口にした。

 自分の知らない誰かと家庭を持った前世の彼を知っているからこそ、今世もそうだと思い込んでいるのか。彼女は一歩前に踏み込む勇気がないようにさえ見える。

 炭治郎の言葉は誤魔化して隠していたはずの厳重に閉ざした箱パンドラを開けてしまったのかもしれない。


「やばい!準備してもう出なくちゃ……!」


 何分、そうしていたのだろうか。もしかしたら、長い時間そうしていたのかもしれない。

 ふと時計を見れば、もう出勤時間が迫っていた。驚いて大きな声を出せば、いそいそと身支度を整えて家から飛び出す。


「あ、桃花ちゃん、おはよう」
「……おはようございます…顔色悪そうですけど……大丈夫ですか?」


 慌ててガチャッと鍵を閉めれば、隣から声がする。なんてタイミングで現れるんだろう。

 桃花は気持ちが落ち着かせようとして顔をそちらに向けて挨拶を返すが、何処かその表情は引き攣っていた。しかし、想像していたよりも酷い顔をしている彼に驚いてしまったらしい。彼女は目を真ん丸にさせて心配そうに首を傾げた。


「ああ、うん……うっ、……二日酔いみたい」
「…………無理、しないでくださいね?」


 桃花が心配するのも無理もない。いつもある目の下の隈は更に青黒くなっていて、血色も青白く、目が充血していたのだから。

 彼は覇気のない笑顔を向けてコクリと頷けば、その行動で気持ちが悪くなったのか。口元を手で押さえて、込み上げてくる何かを我慢すると我慢すると原因を口にした。

 症状を見れば、すぐさま納得したのだろう。彼女は口を開くが、なかなか言葉は出て来ない。少しの沈黙の後、眉を八の字にして身を案じる言葉を投げかければ、二人はエレベーターに乗るために歩き始めた。


「あ、あのさ!」
「はい?」


 ありがとう。

 いつもの善逸なら、そう言うのにその言葉を言わずに緊張した面持ちで話を切り出そうとしている。それが不思議に思えたのか、桃花はまちまちと瞬きをすれば、小首を捻った。


「き、昨日って……会った?」
「会った……というか、見かけましたよ?」


 彼女がエレベーターの前に辿り着き、下の階へのボタンを押すと彼は固唾を飲み込んで強張った顔をしながら、問いかける。まだ二人が待っているモノは下から上へと向かっている最中、彼女はエレベーターの現在地を指す標識を見ながら、それに答えた。


(うっそ、やっぱアレ夢じゃなかったんじゃん!!)


 ピシリ。
 まるでガラスにヒビが入るような音が響く。

 それは善逸の心情を表しているのかもしれない。彼はくるっと後ろを向いてしゃがみ込み、頭を抱えて心の中で暴れ回っているとポンッという音が聞こえてきた。

 どうやら、エレベーターは二人を迎えに来たらしい。


「ってことは炭治郎と飲みに行ったの!?」
「え、ええ……少しだけ……」
「いいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいやややややややあああああああああああああああああああああああああ!!」


 彼は耳が良い。
 それはもう眠っていても会話が聞こえる程に。

 酔って眠っていた間の炭治郎と桃花の会話は丸聞こえだったわけだ。その事実を理解した時に二日酔いが吹き飛んだかのように大きな声を出して立ち上がる。

 二日酔いしている人が出す声のボリュームじゃなかったからだろう。
 彼女はこれでもかというほど大きく目を見開き、戸惑ったように返事をすると善逸は顔を真っ赤にさせて目を飛び出し、頭を抱え込んで叫び出した。それはもう近くにいた鳥が一斉に飛び出すほどに煩い。


「…………」
「俺だってまだ桃花ちゃんと飲みに行けてないのにあの野郎……!!」


 一番の被害者は桃花と言って良いだろう。ビンビンと響く音に思わず、耳を塞いでそーっとエレベーターに乗り込むと彼は自分の世界に這い込んでいる割にプンプンと怒りながら、私に続いてエレベーターに乗り込んだ。


「竈門さんが聞きたいことがあるっておっしゃったので……少しだけですよ」
「本当に本当に!?誑し込まれてない!?」


 善逸は自分もまだ一緒にお酒を飲んだことがないのに、友人が先にお酒を飲んでいることが許せないらしい。それを言い続けていると彼女は困ったように眉を下げて話題の人物を庇うように簡単に説明をして一階のボタンを押した。鉄の箱は指示された通り、扉を閉めて下がって行く。

 しかし、炭治郎は天然タラシだ。だからこそ、桃花も彼に惹かれてしまっているかもしれない。そんな心配が過ったのだろう。善逸は彼女の肩をガシッと掴んで必死な顔をして問いかけた。


「…………ふっ、ふふ……」
「え…………?」


 まるで自分に想いを寄せているかのような必死さにおかしくなったらしい。あんな夢を見たからそれは余計に不思議と同じく感じるのかもしれない。桃花は肩を震わせて笑うのを我慢しているが、我慢できずに笑みを零して口元に手を添えた。

 彼としては真剣で必死だ。まさかここで笑われるとは露に思わず、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をする。


「すみません……本当に少しお話しただけですよ」
「な、何を話したの?」


 その表情もまた可愛らしく見えたのか、彼女はふにゃとした顔をして謝罪をするとそっと目を開けて言葉を紡いだ。

 気を許したような柔らかい表情を始めてみたのだろう。その表情にドキッと心臓を高鳴らせながら、善逸は疑問を投げかける。


「んー……秘密です」
「えっ……」


 4…3…2…と下がって行くエレベーターの階を眺めながら、考え込んだ。
 答えるか答えないかを迷っているのか。いや、彼女の中ではもう答えは決まっている。
 口元に人差し指を添えて悪戯笑顔を見せて返答すれば、彼は目を真ん丸とさせた。そこで丁度良くポンッと音が鳴る。エレベーターが一階に着いたようだ。


「ちょっと恥ずかしいので」
「恥ずかしいことを聞かれたの!?」


 エレベーターから出て歩きながら、ほんのりと頬を赤らめて口にする言葉はどこか含みがある。

 意図しているのか、いないのか。
 それは桃花のみ知る答えだ。

 しかし、気が気ではないのだろう。善逸もエレベーターから降りながら、頬に手を添えて絶望した顔をして声を荒げる。


(……前世ではこんな会話も出来る仲じゃなかったのに)


 前世と違う居間に胸をあたたかくさせて自然と口角が上がるのかもしれない。ちらっと隣を見れば、不安気な顔をしてずっと聞き続けている彼の姿が瞳に映った。


「善逸さんに話すのが恥ずかしいだけですよ」
「それ超気になるじゃん!気になるじゃん!!」


 桃花はニコッと笑みを浮かべて本音を口にするが、それは余計に善逸がソワソワするだけ。案の定、彼は涙目になりながら、訴え続ける。


「そんなにですか?」
「うん!ちょーーーーー気になる!!」


 なかなか諦めない彼に眉を八の字にして問いかければ、善逸は大きく首を縦に振り続けた。

「そんなに気になるなら、竈門産に聞いて下さい……あ、私はこっちなので」
「あ、え、う、うん……」


 自分の口からは言いたくない。

 その気持ちは変わらないようだ。彼女は困った顔をしたまま、一言を添えるとピタリと足を止める。

 時というのは不思議なものであっという間に最寄り駅についてしまった。そして、乗る電車も彼とは反対側らしい。それに気が付くと善逸は戸惑ったように返事をする。


「お互い、今日も仕事がんばりましょうね」
「うん……」


 さきほどまでの無邪気な顔はどこへやら。
 桃花は心の距離を取ったかのように固い笑顔に戻ると手を振り、スタスタと歩き始めた。彼はコクリと頷き、その背中を茫然と見つめる。


(……やっと心を開いてくれたと思ったのに、また距離を取られちゃった……)


 耳の良い善逸には全てがお見通しだ。笑顔に隠された悲しい音をまた聞き取ってしまったのかもしれない。
 やっと近づけたと思ったら、また心の距離が遠くなった。
 寂しさを覚え、彼女の後姿が見えなくなるまで見つめ続けた。


(…………………炭治郎に問い詰めよ)


 角を曲がり、見えなくなると善逸は深いため息を付く。そして、半目にして自分が乗るべき電車のホームへと歩きながら、一つ決意をしたのだった。



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