七話





「……や〜っと帰れる」
「今回もまたハードでしたよね」

 真実は肩に手を添えて、首筋を伸ばす。家に帰れず、仕事をしていたのか。隣にいる後輩の田中もまた困ったように笑って相槌を打った。

「ハード業務のあとに飲みに誘った後輩は誰よ」
「あはは、僕ですね」

 しかし、彼の言い分は聞き捨てならないらしい。キッと睨んで、小言を吐くけれど、田中には効果はないようだ。

「全く、君は人の話を聞かない癖を直した方がいいよ」
「ええ、聞いてますよ」
「どうだか……」

 反省の色を見せない後輩にため息をつくとビシッと指差しで指摘する。でも、イマイチ会話になっていない。
 彼は上機嫌に笑って頷くから、それ以上怒る気になれなかったのかもしれない。彼女は肩の力を抜いた。

「それより辻本さん、もう一軒行きませんか?」
「どんだけ元気有り余ってるのよ」
「だって、辻本さんと飲めるの楽しみにしてたんですよ」

 顔を覗き込むように誘われるそれにまた別の溜め息が出そうになる。けれど、真実はそれを飲み込んだ。流石に面と向かってため息つくのは失礼だと思ったのかもしれない。
 でも、疲れてる体に酒を入れているからか、本音は出るようだ。呆れた顔をして聞き返すと人懐っこい笑顔が返ってくる。

「それはどーも」
「で、どうします?行きます?」
「もう疲れてるから帰らせて……」

 後輩に慕われている。そのこと自体、悪い気はしないのだろう。照れ隠ししながらも笑い返せば、また同じことを聞かれた。
 もう、既に時刻は夜中の12時を回っている。それに加えて残業続きで減りに減った体力でまた酒を飲むなんで自殺行為だと分かっているらしい。彼女は顔を青くさせて断った。

「あはは、じゃあ送りますよ」
「え、いいよ。ここから近いし」
「ほらほら、行きますよ!」

 その表情が面白く見えたのかもしれない。楽しそうに笑う。まさかの提案に戸惑いを隠せない真実はそれもまた断った。
 だが、それもまた彼の耳には都合よく聞こえていない。彼女の少し前を当たり前のように歩いていく。


――面倒なことにならなきゃいいが……


 初めて、宇髄と出かけた時に言われた言葉が脳裏に思い起こされる。

(なんで宇髄くんの言葉が浮かぶんだろ……私、酔ってる?)

 このタイミングでそれを思い出しているのか、理解が出来ないのだろう。眉根を寄せて考え込む。
 疲れも相まって、自分では気づかないほどに酔っているのではないかと、疑心になり始めた。

「辻本さん、ここら辺に住んでるんですね。知りませんでした」
「……そう言うわりに私の前歩くわね」

 後輩は前を真っ直ぐ見ながら、明るく声をかける。それはただの話題作りのつもりなのかもしれない。
 それでも、不思議なことに何も教えていないのに正しい道を歩いてる彼に違和感を覚えた。否、脳が警告音を鳴らしている気がする。微かに緊張していることを自覚すると、自身の手を握りしめて試すように言った。

「もし間違ってたら辻本さんが教えてくれるでしょ?」
「教えなかったらどうするのよ」
「そしたら、合ってるってことですよ」
「ふーん……」

 彼は振り向いて小首を傾げながら、答える。
 正直言えば、同僚に家の場所なんて教えたくはないだろう。断っても話を聞かない人間を相手にするのは苦労が計り知れない。言わば、諦めてると言っても過言ではないのだ。
 それでも、と反問すれば、田中はまた簡単な問題を解くように言うから、聞き流してしまう。それが1番、疲れない方法だと、彼女は知っているからだ。

(気のせいよね。一応、これから帰るって伝えとこ……)

 またくるっと前を向いて歩いていく背中を見て、小さく息を吐き出すと、カバンからスマートフォンを取りだし、メッセージを送る。
 その宛先はもちろん、留守番をしているであろう宇隨に、だ。

「それに僕達付き合ってるんだから送ったって問題ないじゃないですか」
「……ん?」

 もうすぐ帰る。
 その最後の1文字を打とうとした瞬間、耳を疑う声が聞こえた。それに驚いて、漢字変換をすることもなく、相手へと送ってしまった。が、今はそれどころではない。
 理解できなくて、スマートフォンからゆっくり視線を前にすれば、にっこり微笑む後輩の姿があった。暗い夜道の中、街灯に照らされて不気味さがある。

「どうかしましたか?」
「どうかしましたか……って、何言ってんの?」

 彼は不思議そうにキョトンとした顔をして首を傾げる。でも、聞きたいのは真実の方だろう。
 ジリッと後ろに下がり、強ばった声で聞き返す。

「僕、おかしいこと言いましたか?」

 パチパチと何度も瞬きする姿から、自身がおかしなことを言っていると気づいていないのが分かる。
 それに背筋に冷たいものが走った。これはヤバい、と。あの胸騒ぎは外れていなかった、と。

「……田中くん、酔っぱらってるみたいだから私のことはいいから帰りな。タクシー拾うから」
「酔ってませんよ、これくらいで」

 内心焦るが、それを見せまいと冷静を保つ彼女は帰宅を促す。彼は不服そうな顔をして1歩、また1歩と近寄った。

「じゃあ、なんでそんな意味の分からないことを……」
「なんで意味が分からないんですか?」
「!」

 怖い、と思いながらも真意を確かめようと問おうとした。だが、聞く前に腕を掴まれ、問われてしまった。
 まさか腕を掴まれるとは思っていなかったのだろう。ビクッと肩が揺れる。

「だって、今日はデートだったじゃないですか」
「は、なし……」
「僕達はずっと思い合ってたんですよ。辻本さんならわかるでしょう?」

 会話が成り立たない。いや、彼が何を言いたいのかが分からない。
 ただ分かっているのはこの状況は何か危険だということだけ。腕の拘束から逃れようと力を入れるけれど、男の力だ。叶うわけもない。
 緊張から、出しにくい声を振り絞って頼もうとしたら、また訳の分からない言葉が降りかかった。

「…………意味、わかん、ない」
「この間会った親戚の方だって僕にヤキモチ妬かせたいからですよね」

 面倒見ていた後輩が、こんなに狂気じみてる。その事実に動揺した。いや、その狂気じみた感情が自分に向けられているという事実から目を背けたくなったのかもしれない。
 でも、彼は目の前でそれを証明してしまった。困ったように眉を下げて笑うその姿すら、恐ろしさを彼女に与えている。

「……彼氏かって、聞いた……じゃない」
「僕たちのことは秘密だったでしょう?」
「……………………」

 震える唇でなんとか切り出せば、目を細めて言われてしまう。
 社内恋愛だからこその秘密、とでも言いたいのだろう。身の覚えのないそれらに真実は恐怖で絶句した。

「僕達は思い合ってきたのにあの親戚はずっとあなたの家に居座ってるんですか?」
「……」

 するりと触れられる頬にビクッと反応をすれば、彼は恍惚とした顔をする。
 今にも倒れそうなほど、顔を真っ青にさせる彼女は問いかけられたそれに瞳を大きく見開いた。

「これ以上、僕に嫉妬させないでくださいよ」
「…………どうして、天元くんが家にいること知ってるの?」

 撫でられる頬の感触が気持ち悪い。
 そう、身体が拒否反応するけれど、そんなのは後回しだ。誰にも一緒に住んでるなんて教えたことのないことを知ってる目の前の人物に、疑問をぶつける。

「どうして……って当たり前じゃないですか。僕はあなたのことが好きなんですから」

 でも、彼にとっては愚問だったらしい。頬を赤らめて嬉しそうに答えた。

(……怖がっちゃダメ…………相手の思うつぼになる)

 震えていた唇を噛み締める。まるで、自分で自分を鼓舞するように。 

「辻本さん?」
「…………今日の飲みに行ったのは君が人の話を聞かないからよ」
「え…?」

 俯いた顔を覗き込もうと彼女の名前を呼ぶが、返事はない。ゆっくり息を吸い込むと真実は恋慕を抱く割に瞳の奥が冷たい目と交わった。
 一瞬、怯みそうになるも彼女は静かに告げる。それは彼にとって予想外だったのか、ずっと変わらなかった表情を変えた。

「断ったのに田中くんが強行突破したの。覚えてないの?」
「何言ってるんですか?辻本さんの気持ちは僕が一番分かってますよ」
「っ!」

 言葉を続ける真実に田中は瞳を大きく揺らす。
 彼女の言っていることを理解できないのか、掴んだままの腕を更に握れば、真実の顔が歪んだ。

「辻本さん……」
「お願いだから離して」
「…………」

 はっきりと拒絶されるなんて夢にも思っていなかったのかもしれない。彼は動揺していた。しかし、掴まれた手が開放されることはない。

「……離してくれないなら警察呼ぶわよ」
「どうして……」
「話にならないからよ」

 キッと睨んで突き放すように言えば、彼の声が震えた。受け止められると信じて疑っていなかったからだろう。
 でも、彼女は強い意志を持った目で射抜く。

「僕を恋人になるって言ったじゃないですか!!」
「っ、言ってないし……そもそも告白されてないわ!!」

 ギリッと歯が摩擦する音が聞こえると田中は更に強い力で腕を握りしめる。それが痛くて仕方ないのだろう。真実は顔を歪ませた。
 でも、彼の言葉に納得がいかないらしく、痛みをこらえ、ワナワナと肩を緩わせる。それは今日吹かれではない。怒りからだ。
 感情のまま、右手に持っていたバックをブンっと思い切り振れば、田中の顔面にクリーンヒットする。

「いっ!」
「あ、やば……」

 無防備だった右頬に入った衝撃で掴まれていた手は開放され、距離も確保出来た。それでも、危機的状況なのは変わらない。
 本気で捕まえられれば、逃げられる術などないと分かっているから。だから、穏便に済ませようとしていたのに、それもパアだ。自ら可能性を消してしまったことに焦り、彼女は頬を引き攣らせる。

「ふ…………ざ、けるな……俺をコケにしやがって……!」
(マジでやばい…!)

 今まで向けられていた感情のどれでもない。頭に血が上っているのだろう。怒りを表した後輩の姿は恐ろしく見える。
 また腕を掴まれ、もう片方の手が真実に目がけて振り下ろされるのを最後に目をぎゅっと閉じた。 痛みに耐えるように。

「いででででで!!」

 痛みはなく、なんならまた掴まれたても解放されている。否、痛みを訴えてるのは叩こうとしていた向こう側だ。
 何故、かが分からない。現状を把握するために恐る恐る目を開ければ、そこには大きな背中が広がっていた。

「おいおい……良い子じゃなかったのかよ」
「……て、天元くん!!」

 チラッとこちらに視線を寄越し、呆れたような声が降り注がれる。聞き慣れた、どこか安心する声に顔を上げれば、見知った顔があった。
 彼がこの場に来るなんて思いもしなかったかもしれない。彼女は大きな瞳がこぼれ落ちそうになるほど、見開く。

「お前な……こんな中途半端に送信してくんなよ」
「な、なんだよ!お前…!」

 襲いかかってきた後輩を軽々、肩固めしてため息つくとひょいとスマートフォンを見せて小言を言った。だが、この状況に驚いてるのはどうやら、真実だけではないらしい。
 田中も恐ろしい顔をして拘束から逃れようとじたばたしながら、声を荒らげる。

「天元様だ」
「……もう少し言い方あるんじゃない?」

 だが、何を言われても怖くないようだ。子犬が喚いてるくらいの認識しかないのかもしれない。宇髄はごく普通に、当たり前のようにただ一言を言うだけ。
 それが火に油を注ぐだけだとわかってないのだろう。でも、いつもの彼らしさが安心感を覚えたのは間違いない。真実が的確なツッコミを入れてるのが何よりの証拠だ。

「お前、空気読めよ」
「いや、うん?」

 でも、宇髄にとってそれは余計な一言だったらしい。ムッとした顔をしてボヤいた。まさかの指摘に混乱しているのか、彼女は返事はするものの首を傾げている。 
 
「こいつこそ、お前のいうすとーかーじゃねえか」
「返す言葉もございません」

 もがいていて、うざったらしくなったのか。くいっと腕をさらに締めあげれば、苦痛そうな呻き声が聞こえる。でも、宇髄にとってどうでもいいのだろう。ただ、真実に嫌味を言うだけだ。
 そう、一番最初にこの時代に来て初めて聞いた知らない言葉。根に持っていなのかもしれない。彼女は顔を手で覆う。

「どーする?」
「……君の好意には答えられません。諦めて……じゃなきゃ、警察に連絡するわ」

 くくっと喉を鳴らして笑えば、彼女の指示を仰ぐ。この世界の、この時代の人間じゃない自分には分からないから任せようと思ったのだろう。
 可愛がっていたつもりの後輩の化けの皮が剥がれた。この事実にまだ動揺し、信じられない気持ちはあるのか。彼女は悲しそうな顔をしている。
 でも、はっきり伝えなければならない。何も出来ないであろう彼の正面に立ち、凛とした声音が空気に響いた。

「っ、………!」
「あ、おい……ったく逃げたな」

 カアアアっと顔を赤くさせるのは、フラれたという羞恥からだろう。火事場の馬鹿力のせいか、宇髄の拘束から逃げるとそのまま走って行く。
 本気で拘束してる訳ではなかったものの逃げられるとは思っていなかったらしい。宇髄は驚きながらも、その背中を見て頭をかいた。

「あー、明日きまずー」
「大丈夫かよ」
「天元くんのおかげでね」

 やっと身の危険を感じるものがなくなった。その安心感からか、膝から崩れ落ちる。
 でも、考えることは明日からの職場のことらしい。しゃがみこんで安否を確認する宇髄に彼女は顔を上げて頼りなく笑った。

「……ったく、災難だったな」
「あはは、ありがとう」
「帰るぞ」
「うん」

 膝に肘を乗せて頬杖つきながら、労りの言葉をかけるのは恐らく、無理して笑ってる真実に合わせているからだろう。なんせ、彼女の肩はかすかに震えているのだから。
 強がりを指摘する必要はない、と立ち上がれば背中を向けて促す。それについて行こうと、地面に手を付いて、足に力を入れようとした。

「………おい」
「ご、ごめん………ある、けない…………あ、あれ?」
「………ったく、世話のかかる奴だ」
「ひゃあ!?」

 数歩歩いても足音が聞こえてこない。それに溜息をつきながらも後ろを振り返った。
 彼の思った通り、まだ立ち上がることすら出来ていない。眉を八の字にして謝るものの、一向に立たない。いや、立てない。なんなら、肩と言わず、体が震えているのが目に見えてわかるからこそ、自身に戸惑っているようだ。
 髪をかき分け、呆れたようにポツリと呟けば、彼は彼女の元へと戻る。そして、片腕で肩に背負った。
 宙に浮く感覚に声をあげれば、視界は宇髄の真後ろ。つまり、米俵のように担がれていた。

「騒ぐなよ」
「そんな、人さらいみたいな……」
「運べればなんでもいいだろ」

 夜もいい時間帯だ。こんなことで騒がれてまた別の問題が発生したら、溜まったもんじゃないと思ったのだろう。
 だが、しれっと忠告する彼に不満があるのかもれない。困惑するように言い返そうとするが、さらりと受け流されてしまった。

「天元くん」
「ああ?」
「何から何までありがとう」

 やっと静かになる道には足音しか聞こえない。腰に回されるての大きさとあたたかさに緊張が解けてきたのか。彼の名前を呼んだ。
 ぶっきらぼうな声が返ってくると見えない顔を想像するように目を閉じて、感謝の気持ちを込めてお礼を言う。

「おー、俺様に派手に感謝しとけ」
「マジで助かった………っていうか、こわかっ………」

 やっと、彼女らしい声になったのが分かったのか。宇髄は適当なことを言ってふっと、笑った。
 緊張、安心とくれば、もう我慢出来なくなるのは恐怖だ。真実はぎゅっと背中の服を握ってボロボロと涙を流しながら、感情を吐露する。

「…………お前、その体制でよく泣けるな」
「だってぇ、もうとめどなく出るんだもん!?」
「ははっ!泣いとけ泣いとけ」

 おんぶをしている訳でも、お姫様抱っこをしている訳でもない。米俵背負をしてる人間が器用に泣いていることに感心してしまったらしい。
 思ったことをそのまま口にすれば、涙声で反論される。怒りながら泣いている彼女の姿に宇髄は思い切り笑った。


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