八話





(しっかし、図書館とやらにもネットにも何も情報ないってなると……どーするかな)

 カーテンから入る日差しに目を細め、マグカップに口を付けた。まだ慣れない味のいいコーヒーがじわりと口の中で広がる。
 それに舌鼓を打ち、考え込んでいるが、正直八方塞がりだ。調べて出てきたのは、鬼殺隊について一文が書かれた謎の本だけなのだから。

(あいつも仕事だし……一人で出歩くと面倒なことになりそうだしな……かと言って家にずっといるのも流石に飽きてくる)

 家主は朝早く出勤していないらしい。外に出て手がかりを探すのが一番なのだが、まだ慣れない世界だ。聞き慣れない言葉があると困るからこそ、外出を躊躇わせる。
 そうは言っても、時間を無駄にしたくないという思いが強いのかもしれない。乱暴に後頭部をかくと玄関からガチャ、という音が聞こえてきた。

「ただいま〜」
「今日早くねぇか?」

 パタパタと足音が近寄ってくると今度、聞こえてくるのは家主の声だ。
 まだ昼前だと言うのに帰ってきたことに驚きを隠せないらしい。宇髄は目をまん丸にして問いかける。

「会社辞めてきた」
「あ?」

 彼女はストンと肩にかかっていたカバンと手に持った大量のビニール袋を床に置くとにこやかに笑って告げた。
 予想もしていないそれは耳を疑ったのだろう。彼にしては珍しくポカンと口が開いている。

「聞いてくれます、宇髄くん!!」
「……なんだよ」
「会社行ったら、私が二股してることになってて噂の的よ!!」

 思い切りダイニングテーブルを叩くと険しい表情で言う。その迫力に圧倒されたのか、宇髄は何度も瞬きしていると真実は続けて苛立ちを吐き出した。

「は?」
「あの野郎、だいぶ前から私のいない所であることないこと話してて勝手に彼女にしたて上げられてたのよ!!」
「……とことん屑だな」

 彼にとっても意味がわからなかったのだろう。真顔で聞き返す。彼女は肩をワナワナと震わせ、知ってしまった事実に怒気を含ませた声で続けた。
 付き合ってもないのに付き合ってると噂を流され、その上二股を掛けていたとまで言われるなんて何処まで不憫な女なのだろうか。いや、それよりもそうやって外堀から埋めて、尚、惚れた女を貶める男に理解ができないのかもしれない。宇髄はボソッと呟いた。

「なので、辞めてきました」
「お前が辞める必要あったのか?」

 少しスッキリしたのか、ふぅ……と一息ついて親指をグッと突き出して言い切る。
 今回の被害者は真実だ。それなのにも関わらず、全てを捨てなければならないという事実に疑問を持ったらしい。彼は首を傾げた。


「面倒見てた後輩に嘘広められた上にストーキングされて恐怖半端ないのにこんなブラック企業に務めてられっか!!」
「……お、おう」
「って大きな声で叫んできた」
「……」

 アドレナリンが出ているのか、いつも以上に勢いが凄い。流石の宇髄も戸惑っているのか、とりあえず頷いているだけだ。
 彼女は自分の発言に、納得しているらしい。うん、と頷いて至って真面目な顔で言う。その顔にもはや、何もいうことはないようだ。ただ黙って見守っている。

「なので只今の私、無職です!!」
「どーすんだ?」
「貯金はあるので問題なし!ただ!!」
「ただ?」

 元気よく言うことでもないのに言ってもしまうところが、彼女のいい所なのかもしれない。あっけらかんとしている姿に宇髄も自然と口角が上がるとふとした疑問を投げかけた。
 直近の心配はないらしい。馬車馬のように働いてるくせに使い道がなくてただ溜まってるのだから、そうなのかもしれない。
 しかし、一点問題があるようだ。

「あの野郎に家バレしてるので明日から引越し準備始めるので手伝ってね!?」
「お前さ、キレると振り幅凄いのな……」
「家にいる限り手伝ってもらうからね!」
「分かった分かった………」

 両手を握りしめて言うそれに彼女の行動力を間のあったりにしたのかもしれない。その日に職場を辞めて引越しを始めるなんてなかなかやることでない。まだ興奮冷めやらぬ真実に彼は戸惑いながらも、感心さえ覚えた。
 そんな宇髄の気持ちを知らぬ彼女はビシッと指さして言う。もはや、命令に近い気がするが、頷くのがベストだと悟ったのだろう。ため息を付きながらも了承した。

「ってことは前夜祭ってことで飲みましょー!!」
「……いくらでも付き合ってやるよ」

 床に置いていたビニール袋を手に持つと中から一つ、缶ビールを取り出す。それを差し出してやけ酒という名の飲み会を開き始めた。
 チラッと、ビニール袋の中身を見れば似たような缶が沢山入っている。見るからに全て酒なのだろう。それを察した宇髄はニッと笑って快く受けた。

◇◇◇

 夜も深まり、ダイニングテーブルの上は缶で埋まっている。いや、ある程度はキッチンに片付けてあるが、それでもまだ空になった缶と未開封の缶が入り乱れている。
 真実は酔い始めているのか、頬を赤らめて目が虚ろだ。

「男もいたことないってのになんで二股女に仕立てあげられなきゃいけないのよ!まだ居候1週間の筋肉ダルマが2年付き合ってた彼氏!!」
「なんで俺様まで被弾しなきゃならねえんだよ」

 しかし、怒りはや貼り収まっていないらしい。いや、誰だってそんな簡単に収まるわけがない。そんな人間がいるとしたら、聖人だろう。
 飲んでいる缶ビールを握り潰しながら、机にガンっと置けば、中に入ってるビールが跳ねる。絶対ありえないことを事実のように噂を流したここにいないストーカーに文句を言った。
 それに二次被害を受けてしまった宇髄も不満でしかない。彼もまた悪態付きながら、ビールで喉を潤した。

「ほんっっっとよね!2年前なんて存在すらしてないわ!!」
「……お前、言い方」

 同調してくれたことが嬉しかったのか。するめに手を伸ばせば、勢いよくそれを噛みちぎった。
 その食べっぷりはなんとも男らしい。しかし、それよりも気になることがあるようだ。宇髄はデリカシーのない言葉しか選べない酔っ払いに指摘する。

「まあさ、私のことを信じてくれる人はいたけどさぁ……」
「無視か、おい」
「理不尽すぎる!しかし未練はない」

 モグモグと咀嚼するとじわりとイカとマヨネーズの味が広がる。七味唐辛子がいいアクセントになって咀嚼が進む。だからだろうか、先程より怒りは遅待っている気がする。
 だけど、真実は彼の指摘を完全に聞いていない。それにもう一度言うが、それもまた同じことの繰り返しだった。

「…………しっかし、すぐ辞めるとか思い切ったな」
「思い立ったが吉日でしょ」

 都合の悪いことは聞かない。それが分かったのか、彼は諦めたようにため息付き、スルメに手を伸ばす。
 不思議なことにそれは彼女の耳に届いたらしい。食べかけのスルメで指さすとニヤリと笑った。

「にしても、お前も不用心すぎるんじゃね?」
「あん?」

 宇髄はスルメを小皿に入ったマヨネーズと唐辛子の海へと付け、言う。けれど、それは綿をくらったのかもしれない。
 彼女は顎を鍛えるようにスルメを噛みながら、キョトンとした。

「アイツの頭が派手にイカれてたのは確かだが、隙を見せてたんじゃねえかって話」
「いや、異性として見られたことないからそういうの分かんない」

 先程、スルメで指されたようにやり返すと彼もまたそれを口に含む。
 何を言いたいのかがやっと分かったらしい。真実は口の中でふにゃふにゃになったそれをごくんっと飲み込めば、肩をすくめた。

「わかんない、ねぇ……」
「宇髄くんはイケメンだから取っかえ引っ変えでしょ」

 モグモグと動くせいか、宇髄の食べてるスルメが上下に動いてる。見ず知らずの彼を泊めているのをみると、やはり危機感がないと言わざるを得ないのだろう。無自覚の彼女に意味深に呟くと当の本人はニヤリと笑い、身を乗り出した。

「まあ、寄ってこない女はいないな」
「かーーっ、妬まれろ」
「お前酔ってるだろ」

 唐突な話題ではあるものの悪い気はしないのか、腕を組んでドヤ顔で頷く。
 彼女もわかっていた事実だろうが、いざ認められると面白くはないようだ。ゴクゴクと喉を潤し、おもむろに嫌味を吐き散らす。その様は女性らしい品はどこにもない。いや、素面の彼女を知っていても戸惑いは隠せないのかもしれない。宇髄はジト目で見た。

「酔ってません」
「まあ、俺様には嫁が3人いるからこれ以上いらねぇけどな」
「へー……嫁が3人いるんだー……嫁が3人!?」

 指摘されたことは不服だったらしい。ムッとした顔をして否定をするけれど、頬は赤く、目は座っているように見える。
 でも、それ以上言ったところで認めることはないと分かっているのだろう。宇髄は話を戻して平然と酒をくいっと飲んだ。
 ボーッとしながら聞いていたせいもあるのかもしれない。スルメの入った袋に手を突っ込んで復唱すれば、その言葉の違和感に気がつく。ピタッと手を止め、正面を見て驚愕した。

「うるせぇな」
「大正時代の戸籍問題はどーなってんだああ」
「やっぱ酔ってるだろ」

 その声は深夜には響く。近いからこそ鼓膜が揺れる感覚が不愉快なのか、彼は顔を歪めた。
 しかし、彼女は現代社会において理解できないその図に頭亜を抱えて、くしゃくしゃと髪をかき乱す。傍目から見ていて面白いと思う宇髄だが、思うことはひとつだった。

「……酔っ払ってませーん……でもさ、」
「ん?」
「宇髄くんのお嫁さんたちは幸せだね」
「………」

 幼子のようにプクーっと頬を膨らませてもう一度否定する。よっぽど認めたくはないらしい。しかし、意思とは裏腹に体はぐてんと机に預けている。なんなら、瞼も重そうだ。
 でも、と続ける言葉に反応して見せれば、彼女はふにゃりと笑う。まるで、自分にいい事があったかのように。
 それに驚きを隠せないのだろう。宇髄はただ黙って、目を見開いた。

「派手派手うるさいけど何だかんだ優しいもんねー」
「……一言余計なんだよ」
「いたっ……あはは……でも、ほんとーー……」

 にしし、とからかうように笑う真実に彼は静かに息を吐き出し、デコピンを食らわせる。そこまで力は入れてなくても痛みはあるらしい。顔を顰めて痛みを訴えるがすぐに笑い出した。どんどん力が抜けていく体に逆らうことなく、彼女はうつ伏せになり、ぽつりと呟く。

(惚れる前に既婚者って知れてよかっ、た……)

 その続きは音になることはなく、心の中でしか形になることはない。真実は酷い安心感にそのまま意識が途切れた。

「こいつ……」

 少し前まで隙があるんじゃないかと問いかけた彼の心配はやはり、間違いない。
 信じられないものを見るような目を向けた。


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