繋ぐ赤い紐




「…戻ってる」

 ぱちりと目を開くと何処か懐かしく感じる天井。むくっと起き上がって見渡す限りのシンプルな部屋。瀧の部屋だ。彼は安堵の息を吐く。どうやら、元の身体に戻ったらしい。自分の掌が女性特有の柔らかさがないことを実感しながら、グッパグッパと握るのを繰り返す。

「………あ、れ」

 何か違和感を覚えたのだろう。掌を見ていた視線を下げた。そこは手首だ。

「ないっ!」

 自分の左手首に付けていたはずの赤い紐がないことに気が付いた。ヒュッっと冷たい息を飲み込む。どくんと心臓が鐘を鳴らした。ベッドから起き上がって、入れ替わる前日に来ていた喪服をクローゼットから取り出す。ポケットに入っているかもしれない。淡い期待を寄せて手を突っ込むがそこには何もない。

「ない!何で…!!」

 彼は更に焦った表情を浮かべた。彼にとってとても大事な赤い編み込みされた紐。三葉と瀧を繋ぐ紐。混乱する頭で至る所を探したが、目にすることはなかった。

「っ、!!」

 瀧はハッとさせてはベッドに置かれているスマホへと歩み寄る。すぐさま、最近親しくなった彼女へと連絡を取ろうとSNSのアプリを開いた。

〈赤い紐知らないか!?〉

 フリックはいつもに比べて早い。それだけ、動揺しているのだろう。バクバクと早める心臓の鼓動は頭まで響く。そんな感覚に彼は陥っていた。

「頼む…!早く…返信くれ…!!」

 脈拍が早くなりすぎて呼吸が苦しい。メッセージを送ってまだ1分も経っていないというのに彼は長い時間返信を待っているような気分になった。額からジワリと汗が滲み出る。

〈赤い紐…?〉
〈手首に付けてたんだ。知らないか!?〉

 やっと帰って来た返信は覚えのなさそうな言葉の羅列。それにまた心臓は跳ね上がった。瀧は震える手で更に赤い紐の情報を彼女へと提供する。

〈入れ替わった時から付いてなかったよ?〉
「っ、くそ…っ!!」

 淡い期待を持ちながら待った彼女の返信は彼にとって残酷なものだった。大事に大事にしていたもの。三葉の形見。彼は目の前にある文章に唇を噛んだ。何で、ないんだ。彼は感情のまま、テーブルに拳を振り上げる。ドンッという音が静寂な部屋を響かせた。彼の拳はジンジンとして赤みを帯びていく。それほどの強い力でテーブルに当たったようだ。吐き捨てる様にしては立ち上がり、家を飛び出した。


◇ ◇ ◇


「……返信なし?」

 名前は眉根を寄せて、スマホの画面をじっと見つめる。通知の音で目を覚まして、スマホを取ると送り主は瀧。その事実に眠い眼をこすって、内容を確認して返信していたのだ。それなのにも関わらず、何分待とうが返事はない。

「何か、様子が変……?」

 この数日間。関わった彼は彼女にとって、素っ気なくても何かしら返事があることを理解していた。それに唐突に何も前置きもなく焦ったようなメッセージに疑問を浮上させる。

「赤い…紐……」

 瀧から送られてきた一番最初のメッセージを見た。書かれているキーワードをポツリと零す。見覚えがないか、もう一度思い出しているのだろう。

「………あっ!!」

 ざわざわと激しく降る雨の中。手のひらに取り残された赤い紐を思い出した。彼女は目を見開いて、声を上げる。そして、ガバっとベッドから立ち上がるとドレッサーへ近寄った。そして、右手にある引き出しをそっと引く。その中には綺麗にくるくると撒かれている赤い紐が入っていた。

「…これ、かな…」
(雨の日に…拾ったんだけど……)

 眉を下げて、戸惑いながら引き出しの中に入っているそれに目を向ける。戸惑いながら、そっと優しく赤い紐を手に取ると拾った当初を思い出すように目を細めた。

「もしかして…あの時の人って立花さん……?」

 黒いスーツの袖から顔を出していた赤い紐。それが、緩まって水たまりの中へと落ちるところを思い出す。その持ち主が、誰だか分からずにいた。もしかしての可能性に彼女は目を見開く。その瞳は酷く揺れていた。動揺を隠せないのだろう。無理もない。関わりない人と入れ替わってしまった。そう思っていたのに、知らずのうちに関わりを持っていたかものだから。

〈立花さん!今、家にいますか!?〉

 彼女は慌てて、返事のないメッセージに自分から問い掛ける。早く届けてあげたい。その気持ちが彼女を動かす。

「……返事ないし…もうっ!!」

 数分。待っても、返信はない。すぐ返ってくるだろう。そう思っていたのだろうが、返ってこない返事に声を上げた。そして、寝間着を脱ぎ捨ててクローゼットを開ける。適当な服を手に取って、着替えると今度は洗面台へと駆けた。何をするかと思えば、歯磨き。そして、バシャバシャと顔を洗ってはキッと眉を吊り上げた。バタバタと忙しない足音が響く。彼女は赤い紐を手に持って、外へと飛び出した。

(早く返さなきゃ…これ、きっと…!!)

 彼女はマンションの階段を速足で駆け下がる。心は前へ前へと急かす。彼にとって大事なもの。そのことは文面から伝わったのだろう。
 

――……確か、昨日が恋人の三回忌…だったな


 入れ替わった初日に聞いた上司の言葉を何故か、思い出した。きっと亡くなった彼女の形見なんだろう。そう思ったのか。彼女は悲しそうな表情をしながら、走る。

「あー!!もう、不毛な恋はしたくないのに…っ!」

 彼女は全速力で走る。そして、唐突に声を上げた。ズキズキと痛む胸に手を当てる。どうやら、彼女は瀧に心惹かれていたようだ。それを自覚すると八つ当たりするかのように吐き捨てる。

(返事がないってことはきっと…家にいない…多分、探してる)

 彼女は何処へ向かうのか。スマホをちらっと見ても返事は返ってくることはない。彼がどう行動するか。それを考え込む。一つ、推測できることがあるとすれば、家にはいない。何の根拠があるのか。それは分からないが、彼女は直感的にそう思ったのだろう。

(何処…?何処に行けば会える?)

 信号が赤になる。早く走らなきゃ。そう思うのに何故か、目の前の信号は邪魔をした。はあはあと息を整えながら、頭へ酸素を送る。

「この紐を落とした場所……あの駅…」

 彼女はハッと思いついたように目を見開いた。入れ替わった初日になかったもの。最後に付けていた日。それは土砂降りの雨の日。向かうべき先が分かると彼女は向けていた足を変えた。それは目の前の道ではなく。青信号になっている左の道。彼女は固唾を飲み込んではまた走った。自分の直感を信じて。

 
◇ ◇ ◇
 

(くそっ…何処だ。何処にあるんだ…!!)

 はあはあと息を切らせる瀧。キョロキョロと周りを見渡すが、目的のものが見つからないのか。苦虫を噛み潰したような顔をする。目的のものが見つからなくて高鳴っているのか。それとも走り過ぎてただただ苦しいのか。分からない心臓をおさめるように胸に手を当てながら、走っていた。

「ここは……」

 はっと立ち止まったこの場所。駅前のロータリー。三葉の三回忌の帰りに通った自分の家の最寄り駅。はあはあと身体が酸素を求めるように肩を上下にさせて、呼吸をした。

「立花さん…!!」
「お前…何で、ここに!!」

 背後から名前を呼ぶ声がする。ここ最近、良く耳にする声。思わず振り返るとそこには息を切らした名前の姿。瀧は目を見開いた。無理もない。彼女のメッセージを見てもいない彼は彼女が瀧を探しているなんて知りもしないのだから。

「やっと…見つ、けた…っ、…」
「おい、大丈夫か?」

 彼女は何度も深い呼吸を繰り返す。細い声が、ボソと言葉を紡ぐ。傍から見ても相当走ったことが伺える。彼女の苦しそうに深呼吸する姿に瀧は眉を下げて、心配するように声を掛けた。

「これっ!!」
「…なん、…で…」

 彼女は彼の問いかけに答えない。聞こえてるのか。聞こえてないのか。それは彼には分からない。彼女はぐっと手を伸ばして、手に持つ赤い紐を彼の顔の前に差し出した。赤い紐に見覚え無さそうな彼女の返事を思い出して、混乱したのだろう。もし、見覚え会ったとしても、それは瀧の身体に入れ替わっていた間。そう思っていたのだろう。でも、実際持っている手は名前。彼女の手の中に何故あるのか見当つかない。何で。どうして。問い掛けたい言葉がたくさんあるだろう。けれど、言葉が詰まって、うまく声にならない。

「っ、入れ替わる前の日に、拾ったの」
「え…」

 口の中に広がる唾液を飲み込み、少し落ち着いたのかふぅと息を吐いた。そして、彼の問いかけに答える。彼女の言葉に瀧は目いっぱい見開いた。落としたのは入れ替わる前日。そこまではもしかしたら、想像していたのかもしれない。けれど、それを拾ったのが名前だった。彼はその言葉に息をのむ。

「持ち主をすぐ探したけど、土砂降りの雨で誰が誰だか分からなかった……」
「………そう、だったのか」

 彼女は言葉を続けた。彼に拾った日のことを告げる。それだけなのだが、名前は苦しいのか。眉を下げていた。瀧にとって、その事実は予想もしていなかったのだろう。力んでいた肩の力を抜いては納得したように言葉を返す。そして、彼女の手の中にある赤い紐を受け取った。

「大切なもの…すぐに渡せなくてごめんなさい」
「…名前が謝ることじゃないだろ。むしろ、拾ってくれてありがとう」

 手元から離れた赤い紐。それを悲しそうに視線を向けた。そして、その視線を今度は瀧へと向ける。申し訳なさそうに彼女は頭を下げた。震える声は今にも泣きそうな声音だ。
 まさかそこまで謝罪されると思ってなかったのだろう。瀧は安堵。悲しみ。切なさ。それらが複雑に混ざったような感情なのか。それは思い切り、表情に現れていた。彼女の申し訳なさそうに謝る姿に何処か困ったように笑い、首を横に振る。そして、優しく暖かい声音でお礼を口にした。

「…それって、」
「死んだ恋人の形見なんだ」

 彼女はゆっくり頭を上げる。しかし、彼の顔を見ることはない。そして、彼の手に渡った紐について聞こうとした。でも、それを聞いていいのか。戸惑うと口を噤む。名前が何を聞こうとしたのか分かったのだろう。ぎゅっと赤い紐を握りながら、言葉にされなかった名前の問いかけに答えた。

(やっぱり、そうなんだ…)
「そっか…大事なものを返せて良かった……」
「おい、名前?」

 予想していた通り。何となく分かっていた。それでも、やはり言葉にされると苦しくなるのだろう。彼女はいつの間にか瀧に思いを寄せてしまっていたのだ。無理もない。彼女は俯く。熱くなる目頭。泣くことを我慢しては無理やり、引き攣った笑顔を彼に見せた。
 昨日、初めて会った。たった一日。それでも、彼女の笑顔を、自分と入れ替わっていたにせよたくさん見た彼にはその笑顔に違和感を覚えたのだろう。眉根を寄せて、彼女の名前を呼ぶ。

「渡せたから、帰えるね」
「あ、お、おい!!」
「じゃあね!」

 引き攣った笑顔のままの名前。彼女は一刻もこの場を離れたい。そう思ったのだろう。さっさと別れようと言葉を紡ぐ。様子がおかしい。そんな気がした瀧は彼女を引き留めようと言葉を返した。しかし、彼女はそんな言葉を聞き流して、苦しそうな笑顔を向けて手を振って、踵を返して走る。瀧は、追いかけることなく。ただ、その悲しそうな背を見送ることしかできなかった。

「〜〜〜〜……会社にもフラれて、自覚した途端失恋決定とかひっど……」

 彼女は走っていた足をゆっくり原則する。そして、ずっと我慢していたものを解放する。目から一粒の雫が、重力に逆らえずに流れ落ちた。名前は気持ちとは裏腹の声音で笑いごとのように言葉を紡ぐ。彼女の言葉を聞くものはだれ一人いない。その道は彼女一人しかいない。厚い雲が顔を出しているとポツポツと空から雫が地上へと落ちて来た。

「あはは……雨にも降られるって…笑えてくるなぁ…」

 空から舞い落ちるそれは名前の頬に当たる。頬に当たる感覚に彼女は空を見上げた。雨だ。雨は徐々に降り出す。その事実に彼女は笑った。“ふられた”の三拍子に。

「さようなら、立花さん」

 乾いた笑いが止まるとポケットに入れていたスマートフォンを手に取る。Fwitter、瀧と彼女を結ぶSNSアプリを開いた。瀧のアカウントのホームまで飛ぶとブロックをした。芽生えてしまった感情を諦めるために。二度と彼に関われないように。自ら、縁を断ち切った。ブロックした画面を見た彼女は力なく微笑む。そして、苦しそうに寂しそうにこの場にいない。彼へお別れの言葉を告げたのだ。



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