「……ふぅ…」
自分の部屋へと戻れたことにやっと肩の力が抜けたのか、藤花は疲れたように息を吐く。壁を伝って凹凸を見つけるとパチッと、音を立てれば、暗い部屋に明かりが点った。
(流石に疲れた……色んな意味で……!)
手馴れた手つきで制服の上着を脱いで、ハンガーにかけると随分ラフな格好になる。ワイシャツに手をかけ良いとしたところで、ピタッと動きを止めた。
理由は簡単。気配もなく、突如後ろから抱きしめられたからだ。
「……何しに来たの」
「いやぁ、とーかの潜入任務も無事怪我なく終わった事だしいいでしょ?」
「はあ………何がいいのよ」
背後からじわりと感じる温かさに絆されそうになる感覚を覚えながらも、眉を寄せて問う。
彼女がそういうのも仕方はない。あの後、五条は別の任務が急遽入って別れたのだ。あれから数時間も経っていないというのにここにいることに疑問を抱かずにはいられない。
しかし、彼は平然と藤花の謎を解き明かしてしまうのだ。このあっけら具合に深いため息が出る。彼女は思わず、項垂れた。
「だって、本当の恋人になったんだからさ、封印のためとかいう理由なしに出来るじゃん?」
「あんたねぇ、今までヤルのが目的で騙してたって言ってるようなもんよ。それ」
「とーかを毎日抱きたいのを我慢してた僕の気持ちにもなってよ」
包み込んでいた腕の力を和らげ、顔を覗くように聞く五条の表情はどこか、いたずらっ子のようにも見える。
彼の言葉なのか、それともその顔になのか、どちらか分からないが、藤花は眉根を潜めて指摘した。間違いなく、彼女の解釈は間違ってはいないのだろう。言葉だけを受け取れば、ストレートな意図にしか聞こえない。
でも、五条は目を閉じ、自分を憐れむように言うのだ。とんでもないことを。
「まいっっ!?」
「それに今日、とーかの言うこと聞いて大人しくしてたんだよ」
「サトが手を出したらスズが死ぬからね」
その言葉に恐ろしさと羞恥が混み上がるらしい。藤花は顔を真っ赤にさせると、ぐるっと振り返って、1歩後ずさった。
彼はそんな彼女を気にすることなく、距離が空いた分、また詰め寄る。しかし、その言い分は不服だったようだ。藤花はムッとした顔をして反論した。
「ほらほら、我慢した僕をほめていいんだよ?」
「……会話にならない」
グイッと顔を近づけて目を細めて笑う五条はどこか、おかしい。いや、違和感がある。
薄々感じているが、会話が成り立たないこの現状の方が気になるらしい。彼女は肩を落とした。
「それにさ……これでも僕、怒ってるんだよね」
「…………」
「僕だって名前呼ばれたことないのにあんな女が先に呼ばれるとかさ」
壁に追いやられた彼女に逃げ場などない。さらり、と言われたそれに面を食らう。違和感の正体は恐らくそれだ。でも、怒られる理由など、どこにもない。自分を犠牲にする癖も出てない、怪我もしていないのだから。
理解出来ずに、眉根を寄せてじっと顔を見つめれば、その理由を彼は簡単に教えた。
「あれは術をかける為で――」
「名前で呼んでよ」
「…………サト」
なんてことだろう。名前を呼んだことに機嫌を悪くしていたなんて、誰が想像ついただろうか。意外すぎて内心驚いているのかもしれない。それでも、悟られないように冷静を保って説明しようとするが、それは遮られた。
簡単に言われるそれに、目をまん丸にして彼を見る。どんなに見ても、真剣な表情にしか見えない。
言うか否か、悩ましいのかもしれない。その瞳はかすかに揺れている。キュッと唇を結び、ポツリと小さな声で言った。
「それは愛称みたいなもんでしょ」
「だから、安倍家の人間は真名を呼ぶことを禁じてるって知ってるくせに」
「まあね」
素直に口にするような女じゃない。そのことは重々分かっているはずなのに、その艶やかな唇から紡がれることを期待していたのかもしれない。五条は思い切り、不服そうな顔をする。
しかし、彼女もまた似たような表情をするのだ。呼ばない理由を分かってるくせに、わざと呼ばせようとする彼の意地の悪さにそうなってしまうのだろう。文句を言ってみるが、五条は肩を少し竦めるだけだから、余計タチが悪い。
「だったら――」
「でも、好きな子に呼ばれたいじゃん」
「……」
だったら、呼ばそうとしないで。
そう言いたかった言葉は彼に掻き消された。意地悪で言っている訳ではなく、恋人として聞きたいという願望からだ、ということが予想外だだたのかもしれない。藤花はポカンと口を開いたままだ。
「それでも、ダメ?」
「名前は魂なのよ」
「そうらしいね」
じっと覗き込んでくる吸い込むような青に我に返ると困ったように眉を下げる。当たり前のことを教えるように返すが、五条もそのことは承知の上のようだ。
「……私は、縛りたくない」
「僕はいいよ」
「……」
「お前になら」
非常に困ったことになった、そんな感覚なのかもしれない。彼女は眉間のシワを深く刻むと自身の気持ちを伝える。
安倍家は特殊な力を持つ者が多い。言霊と呼ばれるものも僅かながら、扱えるからこそ、真名を呼ぶことを禁じているのだ。呼べば、魂を縛ってしまうから。だからこその言葉だと言うのに、彼はまた平然と言うのだ。
藤花になら魂を縛られてもいい、と。
「…………」
「ほら、呼んで」
目の前の人になんて言えばいいのか、分からないのだろう。薄く唇を開いているが、空気が振動することはない。
瞳を揺らす藤花に薄ら微笑むと唇をなぞって催促した。
「………………さ、と……っ、」
「……」
言っても、いいんだろうか。
ふと、頭の中で回る疑問。考えることが馬鹿らしくなるほど、真っ直ぐな目を向けられれば、言ノ葉が一音ずつ乗せられていった。
最後の一音、それを紡ぐか否か。悩ましい唇は開閉を繰り返していると大きくてたくましい手がそっと頬を包み込む。
愛しそうなものを見るような、熱い視線に、彼女は息を飲んだ。
「――、」
「…………」
本音を言えば、呼んでみたいという感情はきっと、ある。迷ってる時点で恐らく、そうなのだろう。
藤花は最後の1文字を言うために唇を動かすが、それは音にはなることなく、形だけのものだった。
予想外だったのかもしれない。今度は五条が驚く番らしい。
「……これで、勘弁して…………」
「今日は勘弁してあげる」
「……」
申し訳なさと恥ずかしさが彼女の中で共存しているのかもしれない。目を逸らすと五条は満更じゃなさそうに笑った。
旗目から見て怒りのボルテージが下がったのが分かったのか、藤花は目を閉じ、ほっと胸を撫で下ろす。しかし、それは一瞬だけだ。
「でもさ、これからは加減しなくていいって思うとテンション上がるよね」
「は、!!」
和やかな空気になったと思ったら、爆弾を落とす。それが五条悟という人間らしい。
衝撃的な言葉にくわっと目を見開き、正面を向いた。
「僕の愛は重いからよろしくね?」
「ちょ、ちょ……玄武と白狐がいるからやめ――」
「もういないけど」
にっこり、と笑っているけれど、決して冗談ではなさそうな雰囲気にたじろぐ彼女に念を押す。壁に背を預けていたはずなのにいつの間にか、彼の腕の中にいることに気がつけば、胸板を押して抵抗しようとした。
一切姿は見せていないが、傍にいるはずの式神たちに見られたくないと思いもあるだろうが、言い訳使おうとしたのかもしれない。だが、非常なことに彼女たちはこの場にいない。姿を消したまま、静かに天界へと帰ってしまったようだ。
「…………」
「断る理由ないよね?」
「っ、………お手柔らかに、お願いします……」
薄情な式神たちに絶句するしかない藤花に、彼は背中に回している手を下へと移動させながら、問いかける。
断る理由がない、と言うより何を言っても言いくるめられると分かっているのだろう。諦めと覚悟を持った彼女はせめてものの頼みをした。
「無理」
「っ!」
それはあっさり断られる。今まで余程、セーブしていたのか、否か。それは誰にも分からないことだ。
五条はもう片方の手で顎を掴むと食いつくような口付けをする。それを驚きつつも、藤花は背に手を回して受け入れたのだった。